1951年9月の暗夜、オランダ船籍ルイス号(4万4千トン)はリオから一路喜望峰に向けて太平洋上東南方向に針路をとった。
それまでわたしは何を得て何を得損なったのか?
自然体験、遊びと労働体験、多人種異文化体験で得たものは、環境適応力だったように今にして思う。
かつて日本に百姓という身分があったが、それは言わば何でも屋で、農作業だけでなく、大工も釣りも狩りも、商いも営むことができた。
わが母方の祖父母は四国出身の北海道開拓民で、厳寒の北の国でそのような生業を経て、大家族を連れてブラジルに渡り、そこでも同様の生き方をした。
みずから家族の産婆をつとめ家庭医療を担った。
こどもながらわたしも小「百姓」に育った。
一人っ子だったため、父母の仕事場近くに一人寝かされ、一人遊びを覚え、孤独に
なれて淋しさを感じなくなった。
異文化の真只中にいたから、カルチャショックとか言葉の壁を知らずに育った。
父母の世代の人種差別、身分差別、敬神崇仏に染まることもなかった。
ただ家庭と日本人移民社会の中で、明治の精神に染まってしまった。
儒教的禁欲、勤労勤勉、男尊女卑。
祖父から、男女は7歳にして席を同じゅうせず、と教わった。
家庭では軍国主義一色の文化環境だったのにそれに染まらなかったのが不思議だ。
得ることができなかったのは、学校教育と集団的トレーニングだった。
こうして結果として自立自律を協調に優先させる少年が育った。