自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

ロシア史研究会/松田道雄・菊地昌典両先生のこと

2016-12-20 | 体験>知識

ロシア史に興味があるアマチュアの研究会に入れてもらった。人文研の飛鳥井雅道氏(日本近現代政治/文化史)が事務局を担当し、松田道雄氏が座長役だった。松田先生は小児科医をしながら執筆でも幅広く活躍されていた。『私は赤ちゃん』『私は2歳』はベストセラーで世のお母さん達の育児の心配に分かりやすく応えていた。その後出版された『定本 育児の百科』は結婚祝い品の定番の一つだった。今なおロングセラーであり、その中の名言がSNSで飛び交い、悩める女性たちを感動させ癒し続けている。
研究会でも先生は物言いも文章も穏やかで優しかった。毎回欠かさず出席して私みたいな素人がするレポートにも耳を傾けてくれた。原書でロシア思想史を研究されていてソ連時代の歴史までカバーしていた。『安楽に死にたい』(1997)を出版された翌年幸運な自然死を迎えられた。先生は亡くなられたが人生の不滅のテーマを扱う先生の本は時代を越えて生き続けている。

研究会にはロシア関係の専門家はいなかったと思う。専門家は東京にあった同名の研究会に集中していた。こちらはアカデミックでフルシチョフのスターリン批判、ハンガリー動乱に衝撃を受けた世代が中核となって若手研究者を多く輩出した。
京都の研究会は会員の研究分野が多様であったので例会の報告も多種多様だった。私にとって格好の耳学問になった。専門家をゲストとして招くこともあった。
東京ロシア研の菊池昌典先生の話はロシア革命に焦点を合わせていた私の目を大きく開かせた。ロシア革命につながる日本人群像の幾人かについて感想を漏らされた。二葉亭四迷、石川啄木とロシア文学、消えた新聞記者大庭柯公、新聞記者中平亮のレーニン会見記、諜報機関石光真清と革命家ムーヒンの友情、シベリア出兵とニコラエスクの悲劇、ソ連リュシコフ大将日本亡命と消息etc. 
二葉亭四迷と石川啄木はスルーしたがそのほかのテーマは後年かじることになる。
色川大吉氏の『明治精神史』(1964)の紹介もされた。
わたしは、両先生から、民衆みずからが担う埋もれた史実を掘り起こす研究者の喜びと、歴史にアプローチする民衆史観という方法論を学んだ。個人のエピソードや群像のストーリをいくら集積しても歴史にはならないがそれらを欠く歴史書は興味に乏しい。

 


大学卒業は東京オリンピックの1964年/三つの活動領域

2016-12-13 | 体験>知識

卒業式に出た。活動家ばかり後方に群れていた。野次馬気分だった。実際に総長が欧州共同市場を共同イチバと言い間違えたとき野次った記憶がある。ほかに記憶は卒業式後友人たち6,7人と四条河原町に飲みに行ったぐらいである。

卒業後、大まかな方針にしたがって動き出した。

ロシアの十月革命とは何だったのか? 
ブントは十月革命をモデルに考えていた。ソ連への共感はなかった。スターリンがレーニンの死後書記長として党組織を支配し、トロツキーを排除して、巨大な官僚体制を築いて革命を裏切った、という考えに立っていた。
十月革命後、都市の工場委員会→労働者評議会(ソヴィエト)→武装蜂起というロシア的組織形態を志向する革命運動はことごとく失敗に終わっていた。
毛沢東の中国革命は辺境の農村根拠地から再出発していた。
カストロとゲバラのキユーバ革命はモンカダ兵営襲撃[失敗]に因む7.26運動という一握りのインテリのゲリラが市民、農民の共感を得て山岳地帯から首都まで攻め上がった革命だった。
十月革命の金科玉条、党組織をもたなかった。その爽やかさ、風通しの良さが安保世代と新左翼を魅了したが、日本で山岳ゲリラを考える者はまだ誰もいなかった。
とにかく十月革命とソ連の実態を正しく知りたかった。マルクスとレーニンの著作を読み通すこと、革命と動乱の書物を読み漁ることを日課にした。手っ取り早く邦訳に頼った。原書は考え付かなかった。その素養、能力もなかった。
アカデミーに入ることも同じ理由で考えなかった。

京都府立資料館近くのしゃれた洋風の離れを借りた。下宿と資料館と大学の図書館がわたしの読書の場になった。
大学には附属図書館のほかに学部図書館があるが、附属図書館と法経図書館の書庫に潜り込んで関連図書に当たりを付けた。満州鉄道調査部が出版したソ連、中国に関する全印刷物がパンフレットに至るまでカビ臭い法経地下室の書架に裸電球に鈍く照らされて眠っていたのが印象的だった。
対ソ、対華の国策に従って印刷したものをすべて漏らさずに大学図書館に納入する仕組みがあったと推察できる。そこにあった大冊の『支那抗戦力調査報告』は客観的な研究書として戦後復刊された。

まだブントの労対部に属していた*ので労働学校の試みを始めた。京都市南部の工場地帯でチラシをまいてスクール生を募集したが集まりが悪く間もなく立ち消えになった。属していたと言っても時折の下働きに過ぎず、交通費、宿泊費自分持ちでヴォランティアだった。
*わたしが恰好をつけているだけだろう。同盟費を払っていないし会議によばれていない。社学同を抜けたらブントも抜けた、とされていたらしい。
三菱広島造船に泊りがけでビラまきに行ったが反応を感じなかった。
前夜に渡されたチラシを持って早起きして奈良県吉野下市口の郵便局にビラ撒きに行って争議中のピケ隊員とスクラムを組んで気勢を上げたこともあった。当時は紹介がなくとも飛び込んですんなり受け入れられる余地があった。
これがきっかけで後に吉野から大峰山と大台ケ原の山歩きと渓流釣りにたびたび行くことになった。
労組書記という職業につくことは考えなかった。

生計は別に考えた。西陣織の町中で寺の一室を借りて小学生の学習塾を始めた。その活動についても後日稿をあらためて書くが、塾がすくない時代だったので結構塾生が集まった。友人二人に応援を頼まなければならない時もあった。


労組結成の試み

2016-12-06 | 体験>知識

  1963年夏 琵琶湖

学生時代最後の夏休みに、進路模索活動の一環として組合づくりを試みた。
洛南の従業員・数十名の合金会社に長期アルバイトで入った。
砂型に溶融アルミを流し込んで「ナショ」*ブランドの電気釜用内鍋を作っていた。わたしは場内の雑用(主に運搬)係だったが作業用安全ブーツを貸与されていた。
*下請けが常用していた表現
従業員は集団就職で入社した若い男が多かった。憶えている出身地は前橋市である。会社が募集に行ったのか群馬県の会社が京都に進出して来たのか分からない。
若い従業員たちは寮住まいだった。
彼らの悩みは将来にわたって希望を見出せないことだった。若い者のなかにも会社に目をかけられている者もいたが、その他おおぜいは会社の言いなりの低賃金で上司の指示通りにルーティンをこなすだけ、進歩も創造もない日常に不満を抱いていた。
組合づくりの話をすると目が輝いた。外の世界に一歩踏み出す目新しさ、自分もエキストラでない出演者として主体的に動く喜びを感じたのではなかろうか?
賃金と労働条件で会社に対して自分の主張をする場を作ること自体、かれらにとって非日常であり、何か期待を膨らませるできごとであった。
日曜日に保津峡や琵琶湖に遊びに行ってミーティングを重ねた。
そして具体的な段取りについて京都地評に相談に行った。
地評のオルグの指導で結成大会を開くところまで行ったが私は前日に雇止めになり結成に立ち会えなかった。
組合は結成されたが、事前にばれて、会社主導で完全な御用組合ができあがった。
友情を育むいとまもなく、わたしにはささやかな体験しか残らなかった。
形が有るものが一つ、今も残っている、ありがたくない水虫!