自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

初めて学校へ

2012-05-30 | 体験>知識

父の母校大城小学校に行った。
父が小さなワニの剥製を贈った。
小さくとも父にとっては「故郷に錦を飾る」しるしだったにちがいない。
校長はわたしを眺めて事も無げに5年に編入しましょうと言った。
今なら口頭試問と煩雑な手続きに泣かされることだろう。
当時は生気のない規則ではなく血の通った人間が事案を処理していた。
5年の3学期編入ということは2年遅れを意味する。
年下の従弟より下の学年になる。
ブラジルでは年齢や未就学にコンプレックスを感じたことはなかったが、まもなく年齢を意識し2年遅れにコンプレックスを抱くようになる。
それはさておき、初めての通学に不安はなかった。
怖いもの知らずに育ったためか「住めば都」と感じてしまう極楽トンボな性格のためか不安もわくわくする興奮もなかった。


初めての正月

2012-05-15 | 体験>知識

一週間後に初めての正月を迎えた。
少年雑誌の新年号を買ってもらって、その付録の幻燈でいとこたちと「映画」を楽しんだ。
正月料理は今と大して変わらないけど中身に大きな違いがあった。
牛肉、豚肉の代わりに鯨や魚の刺身、鶏肉、まれに兎肉が出た。
戦後の日本人の主たる蛋白源が水産物だったことは記憶に値する。
お正月の遊びといえば男女共通なのは凧揚げとカルタ遊びだった。
女の子は羽子板で羽根突きをし、男の子は庭先でコマをまわした。
コマは曲芸用のベイゴマではなく重々しい鉄輪ゴマだった。
大きな木製コマに鋼の輪をはめたものだった。
心棒も太い鋼だった。
回っている敵のコマに上から打ち込んで破壊する快感を味わう競技だった。
当て損ねた場合は回っているコマ同士を紐で寄せてぶっつけあって勝負を
決めた。
ぶつかるたびにコマが火花を散らした。
勇壮な遊びの名残に闘鶏があった。
中学生たちが蹴り爪のとがった軍鶏をどちらかが戦意を喪失するまで闘わ
せていた。
スタミナ付けに葱や韮を揉んでシャモの喉に詰め込んでいた。
正月の決まった日に親類が本家に家族総出で集まって宴会をもつ慣わしがあった。
本家には大変な負担だったが、こどもにとっては一番楽しみな行事だった。
当事はまだ地縁、血縁が濃いかった。