戦前と比べるのはフェアではないが、戦後の学生部、学生課は学内警察の役割を演じた。政治に絡む事件を起こすと、例えば天皇事件では、同学会を解散した。抗議スト・集会は禁止、違反すれば指導者は停学となった。また警察権力導入を躊躇しなかった。
1955年の滝川事件以後、毎年同学会再建の試みがなされた。1958年の処分(無期停学9名)に対して中心メンバーがハンガーストライキを決行した。
「ハンストは約百二十時間続いたことになる。時計台下の約十人と別に総長室前でも再建準備委の議長だった北小路さんがハンストをしていた。当時の一般新聞の処分反対闘争に対する見方は大変に同情的で、処分を強行した木村学生部長、光田学生課長に対する大学内外からの風当たりはかなり強かった。処分は翌十一日に解除され、「7」月末の学部長会議で学生部長、学生課長の更迭が決り、芦田学生部長、角田学生課長の新体制が生まれた。以後、警職法闘争、安保闘争、政治的暴力行為防止法闘争などの激動が続いたが、学生部と自治会の間柄はそれ以前のような険悪な空気が薄れた。」
これは、当時闘争に加わった先輩溝上瑛氏が『芦田譲治先生追悼文集』(1982年)に寄せた追悼記からの引用である。
この追悼文集はさながら京大ブントによる名学生部長芦田先生への讃歌とその時代の思い出である。呼びかけ人11人は全員元ブントである。私が卒業後数年間アルバイターとして出入りしていた学生部教養係の神岡課長補佐が的確な表現をしている。「先生を最もよく悩ますことのできた人達こそ、先生を最も深い処で、よく理解し、尊敬していた人達ではなかろうか」と。
わたしの投稿「60年入学者からみた芦田先生」を下に掲げる。
「私の学年は、同学会再建と安保闘争のイニシエイターではないので、芦田さんとのかかわりも、呼びかけ人の世代とはおのずから違ったものになった。宇治分校自治会を再建しようとすれば、会場を貸さないとか掲示を許可しないとかいう形で、反動時代の小亡霊*が現れるので、トップの芦田=角南ラインについても、若気のいたりで、権力の手先という感じを抱いていた。
[*更迭された元部長、課長が宇治分校で我らの活動を抑えようとしていた。事務職の光田元課長とはそのつど押し問答をした。教養学部長でありながら姿を見せない木村作次郎元部長には「キムサク出てこい」のシュプレヒコールを浴びせた。]
デモのある度に、角南さんの黒い角縁の眼鏡や芦田さんのフェルトハットが沿道にみえがくれするのを見るにつけ、はじめのうちは刑事とまちがい、のちには大学当局の学生に対する監視行為と受けとっていた。反戦自由の伝統を継承し、学生に深い愛情を注いでおられた芦田さん、角南さん、神岡さんの御苦労にたいして、まことに申し訳ない誤解をしたものだ。
その後、時がたつにしたがって、先輩たちが語っていた芦田さんの偉大さが身にしみてわかるようになったが、一度カンパをもらいにお伺いした以外は、特別のおつきあいをすることもなく、とうとう永遠にお会いできなくなったことを残念に思う次第である。」
この間、芦田教授は日本植物生理学会(1959年) を設立し9年間会長を務めた。その学会は、国際植物生理学会連合の日本側窓口として、また同分野関係研究者の交流広場として、重きをなしている。
敗戦直後、芦田教授は、理学部内討議を経て率先して封建的学術体制を批判し「学術新体制の構想」を試案として提起した。日本学術会議の準備に当たり芦田さんが発したキリスト者らしい言葉「若人に期待する。老人達よ、若人の声に傾聴せよ」は、後年の学生部長時代の姿勢を彷彿とさせる。なお芦田先生は第一回学術会議会員選挙で全国区委員に選出された。
その学術会議が推薦した新会員の任命を菅総理が拒否し、その理由を明かせないでいる。形式任命権を実質的任命権と解釈しなおして任命権ありと開き直っている。その伝で行くと「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」(憲法6条)は、短絡的解釈で、天皇に首相任命権あり、になる。これは全体主義と親和する思想である。
豊永郁子早大政治学教授は警告した。「統治者が法に従わない」、これはティラニー(専制政治)の定義だ。菅首相はその一線を越えるのか、と。
交替したばかりの学術会議前会長・山極寿一前京大総長は警鐘を鳴らしている。「この暴挙をゆるせば次は大学人事に手をつけてくる」
火のない所に煙は立たぬ。ボヤの内に消さないと大火になってからは手も声も出せなくなる。