2~3歳時 背景は植えて3年目?のコーヒーの木
年上の二人は父方の従兄弟で、その姉の従姉妹と入れ替わって子守に来てくれた。
子守された事については何の記憶もない。
遠方に住んでいたいとこ達を子供の頃訪れた記憶がある。
次々と現れる初めて会ういとこ達、ほとんどがすでに子だくさんだった。
石ころの多いやせた傾斜地、直径5cmを超える太いサトウキビ、トロピカルフルーツのコンデとジャブチカバ、この三つを憶えている。これらのフルーツは日本にはない。
戦前の家族は多産だった。
だから母方のいとこも合わせるといとこたちは数えきれないほどいる。
その多くがブラジルで生活している。
母方の叔母たちも娘時代に家事と子守に来てくれた。
ミシンを踏んでいた姿を憶えている。
その叔母が先日観光をかねて従姉妹たちに連れられてわが家に来てくれた。
86歳になるのにかくしゃくたるものがあり半月以上かけて全国ツアーを満喫して帰った。
余談だが、出生率が高い資源大国ブラジルのほうが落ち目の日本よりか勢いがある。
遠くないうちに再逆転があるだろう。
あまり知られていないが、ブラジルはすでにサトウキビを原料にしたバイオ燃料と航空機の生産で世界をリードしている。
写真はわが家の農場の全景。放牧場の上端に見える2つの建物は雇い人家族の住居。
わが家はその上手、地平線に三角屋根を突き出しているが見えにくい。
物心つき始めた頃のある光景が忘れられない。
すらりとした美しい若い先住民の女性が白人と思しき男か女か憶えていない連れと
いっしょに、野次馬の列の前をさっさと通り過ぎて行った。
うちの農場で10数人の人が群がるとすれば居宅の新築祝いの日だったのだろう。
それともわたしの好奇の目の数だけ幻の群衆が記憶に刻まれたのか?
彼女は花柄のワンピースを着ていたが足元は裸足だった。
なんの偏見もなく単純に魅惑されたわたしは幼かったためにまだ純粋だったんだなぁと思う。
これが生きているインディオとの最初で最後の出会いだった。
他にはうちの農場のはずれにあった湿地帯の水源脇で生活土器のかけらを拾ったことがあった。
写真の中程に白く放牧地が見える。馬と豚が写っているが判別しにくい。
その左端部に湧水があった。漂泊するインディオ家族がそこで煮炊きしたと思うと切なくなる。
わたしのまわりでは入植者と先住民の出会いはこの程度に希薄だった。
数の少ないインディオは銃で脅されるまでもなく文明を避けて奥地へ奥地へと移動して行ったようだ。
もっとも、先住民の人口密度の高かった地域では虐殺もひんぱんに起きたであろう。アマゾン一帯では今日なお「保護区」の侵略と殺戮のニュースが絶えないのだから。
奥地に追い詰められたインディオ家族の孤立と悲惨な生活は文化人類学者レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』で広く文明世界に伝えられた。
この本はわたしが生まれた頃に同氏が実施したフィールドワークの成果である。
開拓当時だれもわたしをふくめて先住民の生活圏や生物多様性の保護に関心を寄せることはなかった。
侵略者だという自覚が無いから罪の意識を感じることもなかった。
そしてわずか70年足らずで世界中の人が地球環境の危機と人類の未来を心配するまでになった。
昨年100歳の長寿を全うしたレヴィ・ストロースは数年前にTVで憂えている。
「人口が過密になったこの地球は居心地が悪い。」
「多くの動植物、さまざまな生物が恐ろしいまでに消滅している。この過密状態のせいだ。」
わたしもこの凝縮された文明史の始終を目撃し体験した一人であると今感じて何とも名状しがたい複雑な心境である。
5,6歳頃、新築したわが家で。
連合敵国の中に居ながら何ら圧迫を受けず繁盛できたことに今さらながら驚 いている。
左手は天日で皮付きコーヒーの実を乾燥するセメント張りテレーロ、その奥は乾燥済みのコーヒーを落とし込む2階建て倉庫。戦争中この中にピストルを隠していた。
落成直後のことだと思うがテレーロと家の間を妙齢のインディオ娘が通り過ぎて行ったことがあった。
家はポーチから入ると右手に裁縫室と寝室が縦につらなり,それらの左が広い応接室だった。最奥にダイニングキチンがあった。典型的な精農の家だ。
3人家族だったが入れ替わり立ち代り叔母といとこたちがわたしの子守に来ていた。
戦争中密告を受けて警官が家探しに来たのをおぼろげながらおぼえている。
容疑は銃器所持であったが倉庫までは探さなかった。
父母が恐れていたのは隠していた「御真影」(天皇の写真)が見つかることだ った。
御真影が夷狄に没収されることは今日では想像できない程畏れ多いことだった。