自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

労働、遊びと勉強/オオアリ編

2010-11-27 | 体験>知識

はじめて日課として労働に従事した。
農場主のNさんのこどもたち、孫たちは市内に通学していたから別だが、
雇われ人のこどもは例外なく日曜以外は親兄弟にしたがって働いていた。
都会から遠いところではそれが当たり前のことだった。
大人の男性は日の出とともにコーヒーをひっかけた後エンシャーダ(長柄の鍬)
をかついで畑に向かい、女性が弁当をつくって「10時」(朝昼食)に間に合う
ように後を追う。わたしは母と一緒した。
つぎの食事は「3時」だった。
食事が家族団らんの時間だった。
母と子は早めに帰り男たちが帰り着くころには夜空を満天の星が飾っていた。
電気がなく暗い灯火の生活だったので労働の疲れもありみな早寝した。
エンシャーダで草取り、掘り起こし、土盛りもしたが、きつかったのはコーヒー
の収穫作業だった。
コーヒーの実を手で袋の中にもぎ入れるのが枝を傷めず実を黴させないので
常道だが、当時そんな丁寧な仕事は見たことがなかった。
竹竿程の長い棒で樹を揺さぶり枝を折れるほどたたいて実を葉と共に地面に落とした。枝に残った実を手でもぎ落とした。
全員がこの作業に従事し地面の実はもぎ落しが終わるまで何日も放置された。
雨が降れば実は半ば土に埋まった。
次の作業は実の回収だった。
よく繁った樹の下に潜ってコーヒーの実を朽ち葉もろとも外に搔き出す仕事は
主にこどもの担当だった。
暗い樹の下に潜ると黴の臭いとともにオオアリの嫌な警戒臭がした。
2センチほどの黒い怖いアリだった。
いっ時も油断のできない、しゃがんだまま周りに気を配りながらの作業だった。
ある時ついに潜ったまま泣き出してしまった。
へんな歌が聞こえると言いながら両親が駆けつけてくれた。
ほかに猛毒のタランチュラ、さそりがいたが、目に触れること少なく悪臭もしなかったので気になるほどのことはなかった。
母がシッチオ時代に蠍に刺されて医者に運び込まれたと聞かされたことがある。


ファゼンダで生活環境一変/広い環境と狭隘な文化/第三期

2010-11-19 | 体験>知識

ファゼンダ(大農場)はさらに峠一つ市街地から離れたところにあった。
はじめて自転車を買ってもらった。
大人用だったので足がペダルに届かず横乗りをした。
Uフレームの婦人車などなかったので三角フレームの間に脚を入れてペダルをこぐのが普通だった。
まもなく足が届くようになって行動範囲がいっきょに広がった。
自転車で15kmぐらい先の市街地に行くことができた。
友達環境も一変した。シッチオ(小農場)では両隣の日本人の兄妹たち、オラリアではガイジンのこどもたちの中でほぼ一人の日本人だった。
いとこたちはみな年少だった。
ファゼンダではNさんファミリーのこどもたちと契約農のガイジンの子たち、総勢20人ほど、そんな環境だった。
忘れるところだったが我が家の隣も日本人だった。こどもがたくさんいた。
ガイジンはほとんど、陽気で騒がしいイタリア系だった。
女の子を入れるとフットボールチームができるほどのこども社会だったが、まったくフットボールと縁のないという意味で文化的に孤立社会だった。
最初のころボールをもって家を出たがNさんファミリーのこどもたちに見下された空気を感じてやめた。
その後60年経って日系の青年はみなフットサルに興じるようになったが、いまだに日系のスーパスターが出ない背景には入植当時から引きずる日系人独特の価値観がある。教育熱が高い分だけフットボールを軽んじる空気がある。


オラリア解散/大家族から核家族へ

2010-11-12 | 体験>知識

オラリアの生活は2年目?で突然終止符が打たれた。
祖父母の大家族がオラリアを売却して財産を分け合い兄弟たちが独立することになった。
原因は瓦、煉瓦をつくる粘土が尽きてきたからである。

不要になった作業場を解体中、板壁から解体したため支柱が瓦屋根の重みでつぶれて、建物が大音響と共に倒壊した。
Y叔父と息子の幸吉が瓦礫の下敷きになり叔父は腰を打って長期療養となった。
いとこはカスリ傷ですんだ。
わたしは玩具の取り合いに負けて外に出たため間一髪で難を逃れた。

開拓地の街づくり事業で急成長した一族が核家族となって方方に散っていった。
叔父たちは若かったがみな開拓精神旺盛だった。
子育てと新しい事業に果敢に挑戦していった。
わが家だけは後ろ向きで帰国請願運動の渦中にいた。
その伝手で同志のNさんのファゼンダ(契約農を多数擁する大農場)に移った。


こどもの喫煙、飲酒/オトナぶるには早かった

2010-11-06 | 遊び>規制

こどもはまねて成長する。時にはおとなの悪習もマネル。
このころオラリアのマンションでワインを経験した。
なにかのイヴェントで宴会があった時だった。
ピアノの下に隠れてひとりワインを一杯飲んだ。
すぐ赤くなり頭痛がした。
二度とまねることはなかった。
風邪薬としてピンガ(サトウキビ焼酎)に火をつけてアルコールを飛ばしたものはよく飲んだ、薬として。
タバコは悪ガキどものまわしのみに加わって体験した。
すぐ街に行ってシガレットを一箱買い親に隠れてひとり吸いをした。
唾ばかり出て美味しくなかった。
それっきりたばこのことは忘れた。
田舎の環境に居たせいか不良少年は一人もいなかった。
お金も店もなかったせいかタバコ常習少年はいなかった。
大人のたばこの変遷も短期間に目撃した。
最初は煙草の葉を硬く縄に撚ったものを買って来て、ナイフで削ってとうもろこしのカワで包んだ「葉巻」だった。
パイプに詰めるひともいた。匂いはほのかに甘く葉巻と同じだった。色はコールタールほどに黒かった。
労働者が手作りで一服するのによく見とれていた。
茶色の刻みたばこを有り合わせの紙で巻いて吸うひともいた。
「正式」は切りそろえた市販のとうもろこしのカワか薄紙だった気がする。
NHKの人気ドラ「ハルとナツ」は移民の生活をリアルに再現していて二度見たが、戦前に移住地でシガレットを吸っていたシーンには違和感を覚えた。
シガレットはまだ都会の嗜好品だった。