自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

泳法と水難防止/井ノ山毅/安保と沖縄×北方4島

2019-02-11 | 体験>知識

Notice 映画「金子文子と朴烈」(イ・ジュンイク監督) 初公開
最近様変わりした『週刊 金曜日』1220号に金子文子特集あり。
当BLOG記事「朴烈・金子文子大逆罪適用/義烈団爆弾事件」にも目を通してほしい。

井ノ山さんを伏見桃山の官舎に訪ねるようになったきっかけは、60年安保闘争で全国税労組京都支部がゼネストの一環として時間内職場集会を決行したのを、府学連として応援に行き下京税務署でピケを張ったことである。

私は当時の学生、労働者の政治的高揚を誇りに思う。税務署員が時間内職場集会を開催して処罰されなかったことは画期的である!  戦後15年しか経っていなかったから、軍事同盟と知れば新安保反対は当然の成り行きだった。条約を通すため岸首相は国会の質疑で軍事同盟でないと懸命に虚偽の答弁をしていた。
近年、軍事緊張の高まりが戦前のそれに類似してきた。だから、軍事同盟だからこそ[仕方なく]支持する世論が多数になった。同時に軍事同盟の危うさに反対する世論も高まりつつある。60年前の安保反対の正当性が再評価に向かうだろう。この機会に、安保条約と北方4島×沖縄、に言及したい。が、そのまえに水泳体験記を・・・。

私の山行は大浜の知遇を得たことで始まった。水泳の手ほどきは井ノ山さんから受けた。といっても古泳法と水難防止法について伏見桃山のプールでお子さんを遊ばしながら一度きり指南を受けただけである。井ノ山さんは京都で歴史のある踏水会の水泳教室で育ち、私と知り合うまでは暇があれば疎水夷川ダムにあった教室で水泳指導を手伝っていたようである。
踏水会は1896年に大日本武徳会水泳部として創立され、熊本から小堀流踏水術を取り入れた。立ち泳ぎ、横泳ぎを特徴とし、泳ぎながら刀や弓を使うことのできる軍事泳法である。現今の踏水会は妊婦から高齢者までを対象とした多種目のコースをもつ水泳学園法人である。
井ノ山さんからあおり足を習い立ち泳ぎと横泳ぎの真似事ができるようになった。
これがきっかけで私はクロールではあったが「遠泳」ができるようになった。夜間、大学のプールにひとり忍び込んで息継ぎの方法を研究し1500m近くまで泳げるようになった。ゴーグルなしではカルクで眼が痛んでそれ以上は無理だった。
自己流の息継ぎ法のミソは、古泳法は始終頭を水面に浮かせるが、クロールだから横を向いて呼吸のために開けた口を半分近く水に沈めたまま、始終顔を上げないで水平に泳ぐことである。顔を上げる度にその分だけ反動で体が沈む、という簡単な原理に気付いたことがクロール上達の鍵となった。
井ノ山さんの指南で手荒な救助法があることに驚いた。溺れる者は藁をもつかむというが、救助者を必死で掴んでその自由を奪って共に溺れる恐れがあるから、それを回避するために、救助者は遭難者を半回転させて背後から抱きついて救助する、暴れて危ない場合には少し溺れさせて弱らせる、というのである。危険を伴う救助法である。絶対マネしてはいけない。


保津峡ピクニック 1965年春 川下り遊船で有名な保津川にもこんな浅瀬がある。

塾の生徒を水泳にたびたび連れていった中で体験からいくつか水難防止のヒントを得た。
保津峡~嵐山では、急流で流されたら抗わずに流れに乗って湾曲部か水流の穏やかな岸に流れつくように努める、決して慌ててエネルギーを使い切るな、ということを体験的に学んだ。

また、浅い急流を下るときは、仰向けになって腹を上にして足から先に流されるのが一番安全であることを実際に試して会得した。低水位期の保津峡の早瀬で腹部を護りつつ手と足で底石の危険を避けながら流されていくのはスリルがあって面白かった。もちろん塾生にやらせたことはない。
若狭湾高浜海水浴場では、塾生のキャンプの手助けをしてくれていた院生の白石君が溺れかけた。水泳中に強い局所的引き潮*によって沖に流されかけて懸命に戻ろうとして疲れ果てた。幸いことなきをえたが、これは後で知ったが、力尽きて溺れる原因になるからぜったい避けないといけないやり方である。
正解は、あらがわずに流されつつ急流から左右どちらかに脱出するよう努めることである。顔を上げて泳ぐか浮くかすれば流されても流れが拡散して弱まり遠くまで流されることはない。この対処法は見聞して初めて知ったが、原理はやはり流れのエネルギーに逆らわないことに尽きる。

*離岸流  1955年夏三重県津市中河原海岸で女子中学生36名が突然の異常流で溺死した。当時離岸流というコトバはなかった。

 #離岸流

さて安保条約の話だが余談から始めよう。中学2年のころ担任に校内弁論大会クラス代表に指名された。経験も自信もないのにあてられて逃げ出したいほど困惑した。
思い付きで選んだテーマが、日ソ中立条約(1941.4.13)を破って宣戦布告(1945.8.8)したソ連はけしからん、という内容だった。これは当時の新聞のコピーだったが多数意見の反映でもあった。弁士に熱意がないのだから聴衆(保護者と生徒)も反応し難かったにちがいない。教師たちからも何の反響もなかった。
今では、数年来の近現代史研究で、劣勢を顧みず常に強気で先制攻撃に出て、負けた場合に失うものを考えだにしなかった国民が、条約満期(1946.4)前の侵略に国際法違反をうんぬんする意気地なさに、うんざりしている。戦前の国防方針を少し勉強すればそんな泣き言は恥ずかしくて口にできない。
歴史の鏡に映るソ連は日本であり、同様に日本はソ連である。日米についても同様である。戦争をするなら10倍、100倍返しを覚悟しなけらばならない、戦争の原因をつくらないように内政をただし外交で友好をたもつべし、とわたしは歴史から学んだ。
ところで、本題の日米安保条約は大戦の落とし子であり、核の傘にも核の冬の原因にもなるシロモノである。日本の終戦との関わりでいえば、米英ソはヤルタ会談(クリミヤ半島 1945.2)の密約で対日ソ連参戦の条件を取り決めた。ソ連はドイツ降伏後2,3か月で参戦する。報酬(戦利品)は南樺太と千島列島とする。ところが大戦の終結が近づくと体制の異なる米ソの先陣争いが始まり戦後冷戦体制の大枠が見え始めた。
4.5 ソ連、日ソ中立条約不延長通告(満期は1年後) 
5.7 独、無条件降伏 
6.25 沖縄戦組織的戦闘終息 
7.16 米国原爆実験成功 
7.26 米英中、対日ポツダム宣言 
8.6 広島に原爆投下 
8.8 ソ連対日宣戦布告・ポツダム宣言参加表明  北満・朝鮮・南樺太に侵攻開始 
8.9 長崎に原爆投下 
8.15 日本無条件降伏・ポツダム宣言受諾を発表 
8.17 ソ連、千島列島東端占守島から進駐開始/日本守備隊と激戦 
8.30 マッカーサ連合軍最高司令官厚木から
横浜進駐

ソ連の言い分:ヤルタ協定、ポツダム宣言に基づくソ連取り分の占領に応じないのは理解できない。防戦すればポツダム宣言違反として捕虜、戦犯として処分する。
日本の言い分:日ソ不可侵中立条約期間内の対日同盟、宣戦と開戦は国際法違反である。侵攻には防戦する権利がある。捕虜、戦犯視は不当である。
双方の言い分に特別こだわる気はない。だが東西冷戦により全面講和が凍結され、アメリカが沖縄を、ロシアが北方4島をふくむ千島列島を、最重要の接壌としてキープし続けていることには無関心でいられない。日本列島の周辺の島々と海は日本の接壌*
でもある。接壌の状況変更は容易にナショナリズムを刺激し戦争の火種になるからである。
*誤解を避けるために念を押すが、接地という意味で主権とは関係ない。

米中露の対立があるかぎりロシアが北方4島の主権をすべて放棄することは絶対にありえない。アメリカが不用意に日露米の接壌に変更を加えることも考えられない。現にあの広い北海道には米軍専用基地はない。日米共同使用施設千歳キャンプはあるが・・・。
接壌を侵せばどうなるか。北満まで遡らなくてもキューバ危機を例示すれば足りる。ウクライナはロシアがもっとも重視する接壌である。ウクライナとNATOの接近を観てロシアは先手を打った。ロシア人が多く住むウクライナの東部を切り裂き、ロシア人が多数を占めるクリミアを不当に併合した。
日米安保条約は沖縄と北方4島関連で生きている。そのうえ中露米と日本の軍備増強が著しい。この際、日本列島全体が中露米の接壌であることをわすれてはならない。とくにアメリカにとって日本はトカゲの尻尾になりかねない。沖縄が本土の尻尾にされたように。
細長い領土はまるまる接壌であり広大な後背陸地を有さない日本は大戦となれば死活的に不利だ。その弱点を見つめながら、ITの進歩で国境の概念も地政学も変わる50年先、100年先を想像できる「アインシュタイン」のような天才が現れないかな~。
とんだ天才待望論に飛躍して御免!