終戦の年撮影 6歳「金の成る木」の前で】
1945年5月
日本の同盟国ナチスドイツの降伏を祝って市民が街頭に出て騒いでいるそうだ。わが家にはラジオも新聞もなかったので口コミによる。
1945年8月
日本降伏のニュースはわが家では話題に上らなかった。
皇国=軍国主義一色の日本人社会は敗戦を信じることができず敵のデマとして封印したらしい。だからわたしには一切記憶がない。
母親が畑でわたしにつぶやくように「日本は神国だから負けるはずがない」と言ったのは数年後のことだった。
日本人社会も終戦は即受け入れた。ただし祝うべき勝利の終戦として。
父母の行動は迅速だった。
日本に凱旋するために苦労の結晶であるコーヒー園をガイジンに即売してしまった。
故郷に錦を飾る。これが移民共有のメンタリティだった。
帰心矢の如し。これが父固有のメンタリティだった。
父は長男でありながら弟妹のために13歳で志願して苦労を重ねた末農場主になったので他人よりも望郷の念が強かった。
だから、これから収穫のヤマを迎えようとする宝の山をみすみす手放してしまったのだ。
買い手が喜んだのは言うまでもない。
わが家は頂上を見誤って中腹で峠を下り始めた。
わたしの人生もとつぜん激動、転変に向かってスタートを切った。
戦争が終わった時わたしは6歳だった。
もともと大密林の中の点と線のような開拓地に育ったのだから情報孤絶は仕方がない。
その上日本人は敵性外国人だから政府の情報統制、いや遮断があった。
日本からの手紙、映画、書籍をふくめてすべての文物が輸入禁止になった。
そんな中でわたしはどのようにして文字を獲得したのだろうか?
このころ文字をみたという記憶がまったくないので自分でもわからない。
10歳前後の次期のレンガ瓦工場(オラリア)期にはさかんに雑誌を読みあさった記憶があるから開拓地でも家にあった古雑誌で字を覚えたにちがいない。
もちろんどこの家庭でもあるように親が夜こどもに読み書きの手引きをすることもあっただろう。
オラリア期の記憶では、大人の大衆雑誌キングと婦人倶楽部を隅から隅まで読んだ。
大陸侵略期の古雑誌だから中国人蔑視の漫画や戦記、時事解説、日常の処世術、連載小説(時代物、現代物)等なんでも読んだ。
開拓期も同じような書物を読んだにちがいない。
表紙を破くことから始めたようだ。記憶にある雑誌は表紙がなかった。
情報過少、一人遊びの環境だから眼前にあるモノすべてを利用しつくした。
どちらの時期のことか定かでないが日本人社会で出回っていた薄っぺらな相撲マガジンを繰り返し読んだ記憶がある。
大相撲ではなく移民社会の素人相撲である。
毎回、四股名で番付や記録、解説が載っていた。
文化に飢えていたからスポンジが水を吸うように数少ない情報をすべて吸収した。
情報の海を見たことがなかったので数少ない情報を深く追究する姿勢が身に付いたように思う。
尽きることのない好奇心も環境の賜物だったと思う。
ところでどうして漢字がすらすら読めるようになったのか?
当時の大衆雑誌は例外なくルビが振ってあった。
勉強しなくても自然に自己教育できる文化、習慣があった。
こんにちTVの子供番組は字幕を工夫して子供の識字学習をサポートしているだろうか?
友達と遊んだ記憶があまりない。
左隣に野尻さんちがあったがどんな家だったか憶えてない。
こどものアシには遠すぎたにちがいない。
それでもHIROMICHI兄妹を友達と意識していた。
おマンちゃんという可愛い響きの言葉を憶えた。
右隣の西川さんちにはこどもだけで行き来していた。
YU-JI兄妹のことはすでに2回触れた。
農場内に契約農家が2軒あったがどんな家族だったか憶えていない。
わが家には雇いの若い独身男性が賄い付きで入れ違いで住み込んでいた。
ジャイールはフットボールの好きな明るいかっこいい黒人でわたしは彼になついていたから色々教えられたはずだ。
後に恋人を連れてお披露目に来た。両手首に包帯を巻いていた。
恋人を巡って争いになりダガー短剣で刺されたとき交互に腕で受けたそうだ。
母に好物の味噌をねだって持ち帰った。
もう一人は真面目な働き者のドイツ人だった。
南米には敗戦したナチスドイツの残党が逃れてきて隠れたから、彼もその一人だったかもしれない。
黙々とよく働いたので彼が給料に不満で去ったとき父母はとても落胆していた。
友達遊びが少なかったことが孤独、孤立を厭わない、独立、自立、自律を好む性向を育んだと振り返っている。
名ばかりのロンドリーナ市に医者は一人しかいなかった。
病気や怪我には家族で対応するのが一般的だった。
わたしが森に入ろうとして笹竹のカミソリのような切り株で足のスネを長さ5cm幅1cm削ぎ取られたとき父は買い置きの破傷風注射を射って予防してくれた。
わたしも親に注射を射ったことがある。
記憶にないがわたしが何かを食べて引きつけを起こしたとき父は息子が死んだとあわてたが母がとっさに五右衛門風呂であたためて事なきを得たそうだ。
素人療法だが大量の下痢が出て助かった。
母が子宮外妊娠したときは大変だった。500km超離れたサンパウロ市まで移送していなければ助からなかった。
救急車などないので家族で移送するほかなかった。
5歳のわたしにとっては印象に残る汽車の長旅だった。
座席の間に板をわたしてベッドを作り母を寝かした。
臨機応変が生き延びる術だった。
サンパウロは近代都市だった。
道路が広場ほどに広く10車線ぐらい有り一気に渡り切ることは難しく何回も車や電車をやり過ごさねばならなかった。
電車は入口出口と周壁がなく乗客は周りにめぐらした踏み台にも乗っていた。
巨大な市場はメルカードといい、喧騒をきわめていた。
なかでも熱帯の多種多様の小鳥の色彩とさえずりに目と耳を奪われた。
大病院の看護婦の白衣が珍しくまた牛骨スープが美味しかったことが忘れられない。
馬車の走る田舎と車の洪水の大都会の対照、落差は今とは比べようもなく大きかったが、生来鈍感なのか、所与のものとして普通に受け入れていたように思う。
ゴム銃いわゆるぱちんこで最初の殺生したのもこの頃である。
ぱちんこは手製である。Y字型の木の股を採ってきて、短冊に切ったゴムチューブ片と革の切れ端を結びつけたら出来上がり。
最初の獲物は小鳥だった。牧草地に点在する大きな樹の一つにタマ(丸い小石)を撃ち込んだらまぐれで小トリが傷ついて落ちた。
ハプニングに驚いて、あわてて小鳥を持ち帰りヨーチンを塗り介抱した。
わきの下が傷ついていた。
元の場所で放鳥したがどうなったか不明である。
餌をまいておびき寄せ、仕掛け籠アラプーカで野鳩を捕った。
首をひねって殺し焼鳥にして食べた。美味目的の狩りだった。
これらの狩りは一人でやった。道具作りも独りでやった記憶しかないがだれかに指導されたにちがいない。
ところかわって NextStage の体験になるが、ここに記しておく。
10歳頃の痛恨の記憶。ぱちんこで一人で狩りをしていた。
数メートル先の木の枝に野鳩がとまった。反射的にタマを放った。
鳩の首が飛んだ。一瞬の出来事だった。鳩の驚いたまなこが脳裏に焼き付いた。やはり殺生は罪である。