自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

W杯と糞ころがし/バッタ

2010-06-12 | 自然環境

  出典  ASAHI.COM  越田省吾撮影
サッカー南アフリカW杯が始まった。
W杯開会式で目を引いた糞ころがしは、愛嬌のある昆虫で観ていて飽きない。
小さな黒いコガネムシを想像していただきたい。
前足で立って後ろ足で後ろ向きにボールを転がす。
貯蔵して餌にするために丸めて巣穴まで器用に運ぶ。
ブラジルでふつうに見かける昆虫である。
アフリカと南米はもともと一つの大陸(ゴンドワナ大陸)であったため自然環境に共通点が多い。
大地は鉄分の多い赤土で、地上に分布する動植物も類似する。

バッタも普通に見られる昆虫である。一度それが大発生した。
バリバリ音を立てて作物を食い荒らしながら大群が移動する。
バッタが嵐のように舞う中でバッタとぶつかり合いながら総出で駆除に当たる。
缶缶を叩き音響で追い払う。
長い溝を掘って石油を撒き箒で掃きこんで焼き払う。
あまり効果はなく台風一過のごとく後に残るのは無残に丸坊主にされた作物である。
ただコーヒーの樹がヤラレた記憶はないので、パールバックが小説『大地』で描いた中国農村の光景とは比べものにならない。
そこでは蝗群が黒雲のように空を覆い皇軍のように恐れられたと表現されている。
パールバックは1938年、わたしが生まれた年に、この作品でノーベル文学賞を受賞した。


怖い動物/ヤマアラシとガラガラ蛇

2010-05-30 | 自然環境

Nさんちのシェパードだったと思うがヤマアラシに噛みついて口のまわりに爪楊枝状の針をいっぱいもらってもがいているのを見たことがある。
ヤマアラシは攻撃されると毛が進化した全身の針を逆立てて身を守る。
敵に刺さった針は根元から折れて生き物のように天敵の体内に深く食い込んでいくと言われていた。本当はどうか知らない。
Nさんちでは緊急措置としてペンチで爪楊枝大の針を一本ずつ抜いていた。

ガラガラ蛇に噛まれると生死にかかわる。
血清注射が遅れて生涯手の震えに苦しんでいる人を見たことがある。箸が使えないほどだった。
注射用血清を常備すべきだがわが家にはなかったと思う。
ガラガラ蛇は身近な生き物だった。
名称の由来である尻尾のガラガラを日本に持ってきていたが今は行方不明である。
振るとカサカサと鳴る。威嚇音である。
棒で叩き殺して頭を切り離し尻尾を引っ張るとすぽっと皮が剥ける。
そのまま日干しにすると骨も身も少量で最高のダシになる。
近所のお兄さんは「卵」を食べて吹き出物が出て数日苦しんだ。
わたしは大学を卒業したころ洛北のやまでマムシを捕って料理したことがある。
旅行先北海道の針葉樹林内には多数棲息していた。1カ所に3匹固まっていた。


一人遊び/どんな所で

2010-05-07 | 自然環境

ブラジル日本移民資料館所蔵写真の巨樹フィゲイラは樹高40m程もあり観る者を圧
倒する。イチジク属らしいので久留米いちじくの40cmの苗を買ってきて一本立ちの鉢植えにしたら数か月で夏までに2mになった。恐ろしい成長力を実感できた。
開拓者がいかにしてその巨木を切り倒すかは文末でご覧あれ。

よく家の床下でほこりにまみれて遊んだ。
犬を飼っていたので砂蚤に悩まされた。
砂蚤は日本にはいない。
足の爪の間や角質の中に喰い込み、卵「胞」を育て魚の目ほどに大きくなる。
寄生された患部は腫れてかゆくてたまらない。
たこ焼きをひっくり返すように針でほじくり出し穴にヨードチンキを塗っておくと治る。
これをビッショ掘りと言い日課になることもある。
父母が畑仕事をしている間は幼くて足手まといの私は木の陰に置かれていた。
敷物の後ろで蛇がとぐろを巻いていたこともあった。
家の仔犬が玉虫色の小さな毒蛇にかまれて即死したのを憶えている。

畑に行く途中グズって母に置き去りにされて大泣きしたことがあった。
そのすぐ側に大きなフィゲイラの切り株があった。
フィゲイラは大きな板根ゆえに切り倒すときは家の塗装時のように櫓を組んで足場とし地上から5mぐらい高い幹の部分を数人がかりで切る。
板根が朽ち始める頃食用になる白い茸のオンパレードが見られる。
フィゲイラはウドの大木ほどではないが枯れると腐朽しやすい。
ナバとよんでいたきのこを食べたのは1回かぎりだった。

 




悲しき熱帯/70年で地球環境一変

2010-04-13 | 自然環境

 

写真はわが家の農場の全景。放牧場の上端に見える2つの建物は雇い人家族の住居。
わが家はその上手、地平線に三角屋根を突き出しているが見えにくい。

物心つき始めた頃のある光景が忘れられない。
すらりとした美しい若い先住民の女性が白人と思しき男か女か憶えていない連れと
いっしょに、野次馬の列の前をさっさと通り過ぎて行った。
うちの農場で10数人の人が群がるとすれば居宅の新築祝いの日だったのだろう。
それともわたしの好奇の目の数だけ幻の群衆が記憶に刻まれたのか?
彼女は花柄のワンピースを着ていたが足元は裸足だった。
なんの偏見もなく単純に魅惑されたわたしは幼かったためにまだ純粋だったんだなぁと思う。
これが生きているインディオとの最初で最後の出会いだった。
他にはうちの農場のはずれにあった湿地帯の水源脇で生活土器のかけらを拾ったことがあった。
写真の中程に白く放牧地が見える。馬と豚が写っているが判別しにくい。
その左端部に湧水があった。漂泊するインディオ家族がそこで煮炊きしたと思うと切なくなる。
わたしのまわりでは入植者と先住民の出会いはこの程度に希薄だった。
数の少ないインディオは銃で脅されるまでもなく文明を避けて奥地へ奥地へと移動して行ったようだ。
もっとも、先住民の人口密度の高かった地域では虐殺もひんぱんに起きたであろう。アマゾン一帯では今日なお「保護区」の侵略と殺戮のニュースが絶えないのだから。
奥地に追い詰められたインディオ家族の孤立と悲惨な生活は文化人類学者レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』で広く文明世界に伝えられた。
この本はわたしが生まれた頃に同氏が実施したフィールドワークの成果である。
開拓当時だれもわたしをふくめて先住民の生活圏や生物多様性の保護に関心を寄せることはなかった。
侵略者だという自覚が無いから罪の意識を感じることもなかった。
そしてわずか70年足らずで世界中の人が地球環境の危機と人類の未来を心配するまでになった。
昨年100歳の長寿を全うしたレヴィ・ストロースは数年前にTVで憂えている。
「人口が過密になったこの地球は居心地が悪い。」
「多くの動植物、さまざまな生物が恐ろしいまでに消滅している。この過密状態のせいだ。」
わたしもこの凝縮された文明史の始終を目撃し体験した一人であると今感じて何とも名状しがたい複雑な心境である。