自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

勝野金政聞き書き・『赤露脱出記』余聞/根本辰の消息

2021-05-12 | 近現代史 根本辰さんの消息

前章で、勝野がGPUに「根本辰を呼び寄せたのか」と真っ先に尋問されたことを書いた。根本とは何者か。
『赤露脱出記』中「片山潜の思い出」の項に「畑[勝野自身]の立場も確立し自信も出来た頃である。彼[片山]は××問題を畑に依頼し、畑もまた引き受けたのであった。故に畑の今度の問題も彼が責任者である。事件の内容を一番理解してゐる関係者であり、證人である」しかしその彼は勝野が逮捕されたとき転地療養中であり釈放前にこの世を去っていた。その××こそ根本辰tokiである。
根本はベルリン経由で国崎定洞の紹介でモスクワの片山事務所に来た。そして片山にクートベ(東方勤労者共産大学)入学の斡旋を頼んだ。転地療養に行く片山は後事を秘書の勝野に託した。勝野はコミンテルン(共産主義インターナショナル)幹部会員・片山潜とプロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)日本代表・山本懸蔵の確執に巻き込まれた。
山本は京大出身の非党員哲学青年を疑って党員の義務を果たした、つまり根本のクートベ入学を認めず根本と勝野の経歴をしかるべき当局に通報した。1930年10月、根本は国外追放になり、続いて勝野が逮捕された。根本の名は行く先々で勝野の書類について回り、コミンテルンの執行機関でも問題視された。「根本とはだれだ、今どこにいる?」
数年後、スターリン大粛清期に、山本懸蔵が勝野と根本を紹介した国崎定洞を売り、野坂参三が山本を売った。在ソ日本共産主義者間の疑心暗鬼と暗闘の悲劇である。
わたしが金政さんを訪ねた時(1966年)のメモに「野坂 山本を売る」とあったことは前章で記した。そのころそんな噂*が流れるはずがない。勝野「脱出」後も野坂は密告者の対極、「亡命16年」「延安」の英雄でありつづけた。密告が証明されたのはソ連崩壊後である。1966年までのどの時点に誰から聞いたか、根拠は何か、という問いを発する予備知識をわたしはもっていなかった。
*山ケンが1928.3.15の大弾圧を免れて入ソしたのはあやしい、という噂は片山と勝野の耳にも入っていた。山本懸蔵は国崎定洞を発信元と疑った。
さて金政さんは根本辰について何を語ったか・・・。

 根本辰
この写真はたしか勝野さんからもらった。
父は医者で大地主 母の弟は代議士・帝国地方行政学会取締役の小山倉之助で気仙沼出身 京大卒の哲学青年 結核持ち
 ベルリンに「2年ぐらいいた」「帝大医学部助教授国崎」の紹介 帰国後「鈴木東民」[戦後読売争議・釜石市長で有名]
「学者とみられるのを嫌う」「10年先を見越してじっくり落ち着いて」西田哲学の超克を志向  「憲兵隊[特高?]に目を付けられている」「無産者新聞 編集していた」
勝野は短期間世話をしただけだったので根本の人物像には言及しなかった。
金政さん訪問後すぐ鈴木東民氏と気仙沼の役所に根本辰の消息を照会した。役所を通して、根本氏は1938.11.24に死亡、妹和子さんが著名な音楽評論家山根銀二夫人であること、妻ふみさんが再婚して松下姓となり東京在住であることがわかった。
鈴木東民氏からは、1966年末に和紙2枚に1字の訂正もなく美しい行書がぎっしりつまった丁寧な書簡をいただいた。
8月から欧州旅行に行っていたため返書が遅れた詫び文のあと親交の濃さを具体的に綴ってあったが長くなるので省略する。以下は手紙の要約である。
「気仙沼出身の故小山東助氏[大正デモクラシーの使徒として期待されていた政治家、短命だった]の甥」とのことで留学先のベルリンで親しみを感じたばかりでなく、思想的にも相通じるものがあった。相貌も小山氏に酷似していて、この度の[私からの]照会で往時を追懐し感慨のつきないものがある。かれはベルリンでは日本人クラブの事務局に勤めていた。帰国後、地方行政学会の機関紙編集に携わっていた。頼まれて随筆を書いた記憶がある。有為の才が失われて残念だ。
鈴木東民はまたソ連で消えた国崎定洞の消息を追っていた。そして1974年11月国崎の妻子をベルリンで発見するという快挙をなしとげた。国崎定洞が大粛清期に銃殺されていた詳細が分かり、翌75年学士会館で国崎にゆかりのあるメンバーが集まって故人を偲んだ。勝野金政もその中にいた。出典  鎌田慧『反骨  鈴木東民の生涯』1989年
山根銀二夫人にも照会したが返信がなかった。根本和子さんは1927年6月から無産者新聞で佐藤という変名で紅一点活動していた。後の夫・山根銀二、兄根本辰はひととき編集を手伝っていた。
1967年、杉並区桃井に松下ふみさんを訪ねた。夫松下さん(故人)との間に娘を一人授かっていた。心臓病を患っていて肌が透き通る感じだった。たいへん驚かれ感激された。2.26事件の雪の朝、行進する反乱軍をオーバーの襟を立てて辰と並んで傘をさして[相合傘で?]眺めていた、となつかしそうに話された光景が目に浮かぶ。
同年盆過ぎ、礼状(送っていた蕎麦粉に対する)をいただいた。見つかった手紙で分かった「彼が予期し期待したこと」の大半が成った今日、「彼の名を掬って下さる方の居られたことは非常なよろこびです」と結んであった。
2,3年後中学生の娘さんから訃報が届いた。それには根本辰研究の成果を期待しますとあった。わたしは何もしなかったので思い出すたびに済まない気がする。
上掲根本辰の写真は貴重です。出典明示を条件に自由に使ってください。