自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

労働、遊びと勉強/プリモ一家

2010-12-24 | 体験>知識
左隣に日本人の大家族が住んでいたが、わたしには、その日本人らしさが疎ましかった。
とにかく親も子供もきっちりしていた。
学校にも行っていたに違いない。
見下すような頭の良さ、何よりも手足の器用さが目立った。
息子たちはアシが速いうえに精緻で美的な工芸にすぐれていた。
車軸にバネを付けた動くトレーラーの模型を作って走らせていた。
倫理面でも厳しかった。
ある夕方、大勢で遊んでいたとき、ふざけて、N家のさっちゃんの帽子を投げ回して取り戻
させない、いじわるを皆でしたことがあった。
観ていた隣家の日本青年が、わたしをこっぴどく叱った。
まともな人間のすることではない、といわれた。
右隣のイタリア人家族はおおらかだった。
だからわたしの足はいつも右隣に向かった。
今で言う放送禁止用語が飛び交い、言葉に、男女で区別はあっても、大人と子供に区別は
なかった。
フランスW杯決勝でジダンが頭突きでイタリアの選手に報復して退場になった、あの侮辱語
を子供たちも日常的に使っていた。
プリモの奥さんがこどもをたしなめていたのを遊び場の牧草の香りとともに憶えている。
性的表現は言葉だけでなく仕草や落書きにも満ち溢れていた。
日本に来た当事同じような表現をよく見たり聞いたりしたがブラジルの比ではなかった。
今日本ではそうした表現方法が消えかかっている。
縄文時代から昭和まで連綿として続いてきた下ネタ文化が周囲から薄らぐのは逆に異常だ
と思う。もっともメディアはそれで稼いでいるが。
最後に衝撃的な目撃を。
プリモ家のこどもは姉、長男、次男、妹の4人だった。姉は14,5歳、男は12~10歳、
妹は5歳ぐらいだった。
兄が姉を家の周りで追っかけるのを見たことがあった。
まるでさかりのついた雄鶏が雌鳥を追っかけているようだった。
違いはめんどりが「わたし、速すぎないかしら?」と加減するのに対して姉は必死だった
ことである。
落ちは我が家にまで届く、場の豚の悲鳴のような兄の大泣きだった。
プリモのベルトは広幅で厚皮だった。



労働、遊びと勉強/オーナー家族とイタリア人家族

2010-12-18 | 体験>知識

Nさんちは農場主らしく高台に離れてあり大邸宅に一家が娘婿まで住んでいた。
そこで戦中の田河水泡作漫画集『のらくろ』を読んだ。
時代を反映して戦争物だったが戦意高揚マンガではなかった。
のらくろは部下から「戦がないと腕がなまるので、どこかに攻めていきましょう」と持ちかけられた折には「猛犬連隊は正義の軍隊である。理由もなくよその国に攻め込むような野蛮な軍隊ではない。世の中が平和で戦争がなければこれほど結構なことはないではないか」と答えている。
防空監視役のらくろ一兵卒が頭の上に舞うハエを敵の戦闘機と間違えて高射砲を振り回すシーンに笑いこけてしまった。

Nさんちでの一番の思い出は、コーヒー収穫祭のシュハスコ、焼肉による打ち上げパーティ、だった。
牛1頭を捌いて切り刻んで野外テーブルの上に並べる。
大庭に掘った長い溝で薪を燃やした後の炭火で各自が好きな肉片を串に刺して焼いて食べた。
豪快なブラジル風バーベキューである。
農場内のすべての家族が参加した。
労働者たちの表情はまぶしいほど輝いていた。
シュハスコの最中に牛追いが二人してはぐれ牛を探しに来た。
「剥いだ皮を見せてくれ」と単刀直入に言われてNさんが二人を倉庫に連れて行った。もちろん疑いが晴れて一件落着した。

すぐ隣にイタリア人の大家族が住んでいた。
長女が15歳ぐらいの年齢だったから夫婦は30代後半の働き盛りだった。
前歴は不明だが父親はクラークゲーブル似の好男子で教養があった。
母親は今の日本人がイメージするとおりのイタリア女性だった。
明るくて親しみやすくそして頼りがいのあるお母さんだった。
子供たちは学校に通ったことがなかった。
そこで父親の発案で仕事が終わってから自宅で勉強会をしようということになった。
私も参加した。
教科書も黒板もなくアルファベットから始めた。
週1回の予定だったが農作業の疲れか子供たちの不熱心か数回で立ち消えになった。
この家族との付き合いがなかったら私は10,11歳の時期にほぼ日本人移民社会の中で暮らすことになりブラジルの言葉も文字も文化もほとんど獲得しないままになったことであろう。


労働、遊びと勉強/休日の遊び

2010-12-10 | 体験>知識

オラリア時代と違ってファゼンダ時代の遊びにはメリハリがあった。
休日が遊びの日で朝から浮き浮きしていた。
作業着の代わりに晴れ着を着た。
といってもアイロンがかかっている、つぎはぎがないという程度の違いしかなかった。
休日には農場主のNさんちの子供も加わって大勢でいろんな事をして遊んだ。
フットボールはなくビー玉ゴルフをした。
スタートからゴールまで何箇所もホールが掘ってあって複数の競技者が順番に敵たちの玉を弾き飛ばして穴から遠ざけながら穴入れの成功を競う。
成功すると次の穴を狙える。失敗すれば交替する。
最終ホールを1番早く攻略したものが勝者となる。
ビー玉の飛ばし方が日本と全然違う。人差し指を丸めて親指の上に玉(弾)を載せて親指ではじく。
敵の玉に当てて弾き飛ばす快感はフットボールのシュートに匹敵する。
野球はまだなくイギリスから入ったクリケット遊びをした。
二手に分かれてホーム(石油缶ほどの木組みの小家)を護る。
バッターはホームの前に立ち相手がホームを狙って投げたボールを打ち返す。
空振りしてホームを壊されると即チェンジ。
当たればセカンドホームを回って還ってくると1点。走行中に敵がボールをキャッチして二つのホームのどちらかに当てて壊すとアウト。
ホームランになりそうでないときはセカンドホームで止まって次打者のヒットを待つ。
アウトになるまで点を重ねることができる。
ワンアウトで攻守交替。
野球の原型だ。
ブラジルにはイギリス人がフットボールとクリケットを伝えた。
自由奔放なガイジンはフットボールを発展させ、規律正しい日系人は野球を継承した。
わたしは前者のほうが性に合っていた。
それが私の人生を規定した。


労働、遊びと勉強/肉体労働編

2010-12-03 | 体験>知識

親に強制されたわけではない。
当たり前のこととして重労働を受け入れた。


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コーヒー豆と朽ち葉と木っ端が混じった土盛りをペネーラというふるいに掻き込んで、まず土を振るい落とす。
ついで空中高く放り上げて風で葉っぱを飛ばす。
この放り上げを数回やってあらかた飛ぶものを飛ばすとペネーラにコーヒー豆と小石と木っ端が残る。
あとはコーヒー豆だけを選り分けて麻袋に詰める。
子供用のペネーラと言えども土とコーヒー豆で最初は10キロ近い重さだ。
不要物が減るにしたがって軽くなるが、この作業を半日続けると肩がこる。
それはまた土ぼこりとの闘いだから家に帰るころには全身土まみれだ。
坑内から揚がった炭鉱夫のように目も鼻も見分けがつかなくなる。
この作業はこどもには無理だった。

単純作業の棉摘みもやった。
日がな一日棉を摘むにはそうとう忍耐が要る。
袋詰めのコーヒーや棉を運ぶ作業は大人の男の仕事だ。
60キロとかその数倍の袋を一人か数人で運ぶ。
150cmそこそこの父は腹膜が裂けて脱腸になった。
与えられた境遇に是非もなく順応し逃げないで辛抱し続ける習慣をわたしはこの家族労働を通して身につけた。
選択肢がないという不自由もときにはプラスにはたらくものだ。