とにかく親も子供もきっちりしていた。
学校にも行っていたに違いない。
見下すような頭の良さ、何よりも手足の器用さが目立った。
息子たちはアシが速いうえに精緻で美的な工芸にすぐれていた。
車軸にバネを付けた動くトレーラーの模型を作って走らせていた。
倫理面でも厳しかった。
ある夕方、大勢で遊んでいたとき、ふざけて、N家のさっちゃんの帽子を投げ回して取り戻
させない、いじわるを皆でしたことがあった。
観ていた隣家の日本青年が、わたしをこっぴどく叱った。
まともな人間のすることではない、といわれた。
右隣のイタリア人家族はおおらかだった。
だからわたしの足はいつも右隣に向かった。
今で言う放送禁止用語が飛び交い、言葉に、男女で区別はあっても、大人と子供に区別は
なかった。
フランスW杯決勝でジダンが頭突きでイタリアの選手に報復して退場になった、あの侮辱語
を子供たちも日常的に使っていた。
プリモの奥さんがこどもをたしなめていたのを遊び場の牧草の香りとともに憶えている。
性的表現は言葉だけでなく仕草や落書きにも満ち溢れていた。
日本に来た当事同じような表現をよく見たり聞いたりしたがブラジルの比ではなかった。
今日本ではそうした表現方法が消えかかっている。
縄文時代から昭和まで連綿として続いてきた下ネタ文化が周囲から薄らぐのは逆に異常だ
と思う。もっともメディアはそれで稼いでいるが。
最後に衝撃的な目撃を。
プリモ家のこどもは姉、長男、次男、妹の4人だった。姉は14,5歳、男は12~10歳、
妹は5歳ぐらいだった。
兄が姉を家の周りで追っかけるのを見たことがあった。
まるでさかりのついた雄鶏が雌鳥を追っかけているようだった。
違いはめんどりが「わたし、速すぎないかしら?」と加減するのに対して姉は必死だった
ことである。
落ちは我が家にまで届く、場の豚の悲鳴のような兄の大泣きだった。
プリモのベルトは広幅で厚皮だった。