1962年、ブント全学連は、革共同全学連と三派連合に分裂し、学生運動の動員力は底をつき、集会、デモの参加人数は100~300名にまで落ちた。
5.25 池田首相発言「大学と教育が革命の手段に使われている」
これを受けてにわかに管理強化法案の国会上程の動きがあわただしくなった。
目標を絞りかねていた学生運動はこれで活気づき動員数は10倍に跳ね上がった。
11月、久々に数千人規模のストと集会、デモが全国の大学で繰り返されるようになった。
11.21 京大同学会代議員会、11・30全学スト、12・8全学封鎖方針を決定、代議員会を解散し、全学闘争委に指導を委譲した。全学構成員1万名の投票で封鎖の賛否を問うことを決定。
ブント得意の耳目衝動戦術とは言え、これは下っ端の同盟員にも突飛な決定だった。
全学が騒然となった。
総長以下全教職員、生協職員まで含む学内関係者の投票で終日封鎖の賛否を決めるというのだから議論が巻き起こらないわけがない。
60年安保を指導した古参幹部が半ば思い付きで提起した大学封鎖方針が発酵素となって6,7年後「大学解体」「帝国主義大学解体」闘争の巨大エネルギ-を生むことになるとは当の提唱者をふくめて誰一人想像しなかったことである。
大管法闘争は1963年正月末、池田首相の法案提出見送り決定により忘れられてしまった小さな出来事だが、わたしは次稿でそれを学生運動史の屑箱から拾い出してその影響力を考えたいと思う。
12.6 京大12・8全学封鎖をめぐる投票開票、投票総数二千八百五十(成立投票数六千二百七十)、賛成二千七十三・反対六百八十九・白紙七十七・無効十一で全学封鎖ならず(賛成票の内訳=学生二千四十三・大学院生五十四・教職員四・生協員三)
これは「戦後学生運動の歴史」からとった数字である。だがこの数字以上に大学閉鎖方針は大学人に拒絶されていた。
あまりの惨敗に投票管理委員長の同期のkが命じられて賛成票を水増しした事実をわたしは後日知った。いわゆるボルシェヴィキ選挙である。
Kは宇治分校学生大会でフランスデモに反対の発言をしたほどにまじめな市民感覚の穏健学生だった。安保闘争後にブントから革共同に移ったが、わたしは彼ほど運動に心身をすりへらす活動家を知らない。父親が水銀公害を出した時の水俣の工場長か技師長だったことが彼の献身の背景にあると信じている。かれは高校教師となり解放運動に献身し若くして心筋梗塞で斃れた。
12月7日の未明、投票結果報告の大看板に数字を書き終えて私は冷え込む吉田山を越えて下宿に向かった。頂きから見た東山の大パノラマは、人間の営みである木々、建物を濃紺のシルエットで覆い隠して深い藍色の空と稜線で画されていた。
天然の美が深く印象に残ったこの夜で私の自治会活動と学園闘争は終わった。3回生の冬の出来事だった。
ブントは共産党の学生党員が共産党を革命政党と認めないところから出発した。
たがいに相手をスターリニスト、トロツキストとよび敵視した。
ノンポリ(無所属)からいきなりブントに入ったわたしは党派意識が薄かった。
社共をひっくるめて日和見主義とみなし運動が高揚すると体制側に屈する存在として共産党を敵視というより軽視していた。
だから共産党員、民青同盟員に働きかけてオルグする気にもならなかったし対話したこともなかった。
ところが・・・
学部時代のある日、学生部の心理カウンセリング室に呼び出された。
同学年のAが自殺をはかり附属病院に入院している。
「本人の指名だから引受人になってやれ」
Aは知らぬ仲ではなかった。
予備校で顔を合わせていたのか、Aが反主流派の活動をする前から面識があった。
Aを私の下宿に引き取って1,2週間療養させた。
わたしは始終聞き役に徹した。
Aは占領下の沖縄からの「留学生」だった。
沖縄の厳しい現実(としたり顔にいうがわたしは沖縄の現実を体感したことがない)彼を共産党員にした。
ところが安保闘争で共産党の日和見主義が露呈しかれは失望した。
しかし党を抜けたいが抜けられない事情があった。
兄弟姉妹の誰かが米軍基地に勤務していた。
かれが離党したら、そのうえ新左翼に鞍替えしたら、裏切り者として、身分を暴露されるかもしれない。
共産主義者を身内に持つとわかったら身内が米軍に解雇される。
これがAが睡眠薬を大量に服用して自殺を図ったいきさつだった。
わたしの保護が必要でなくなってAは茨の道に戻った。
卒業後は研究者の道に入ったようだ。
Aが自殺を図った事実をどちらのセクトも知らない。
新左翼が分裂し血の抗争を重ねて青年の政治的アパシーを招くのはこれから数年後である。
SECTとSEXは語源を同じくし原義は「分ける」である、とネット上に出ていた。
夫婦喧嘩は犬も喰わないというが、セクトの争いは政権を喜ばせるだけだ。