南蛮人が遺した記録には例外なく清潔がキーワードになっている。
富士山が廃棄物の山ゆえに世界自然遺産から漏れている今日でも自分の家の前の道路はきれいに掃除しているから、サッカー交流で来日したブラジル人の子供による日本の第一印象はクリーンなクニだった。
ブラジルでは土埃にまみれて遊び、ときには仕事をした。裸足のときもあった。
サッカーの王様の愛称ペレはハダシフットボール=ペラーダに由来しているとか。
昔花粉症という病気はなかった。家畜と人間が同じ平面に同居して自然に免疫ができたからである。
モンゴルの草原は花の季節には花粉だらけなのに花粉症に悩む住人のことは聞いたことがない。
抗菌、滅菌、すればするほど人類の自滅が近くなる。
地球上の生物は一つとして生態系のバランサーに載ってないものはない。
オオカミを絶滅させるとシカが森林を荒らし平野が洪水に見舞われ海の生物もダメージを受ける。
こんな単純な図式では表現できないが、一つの種の絶滅は、高々数百万年前に誕生したホモサピエンスの絶滅につながっている。
そしてそれに至る時計の針の動きはいきなり速くなった。
開拓時代にジャングルを伐採して燃やし尽くす時「生物多様性」に想いを馳せる者は一人もいなかったし、そんな言葉もなかった。
ところが今日30日未明生物多様性国際条約名古屋議定書が採択された。
わたしは一代で「はじまり」を体験し「おわり」を予感することになった。
在日イスラム教徒の霊魂が宙をさ迷っている。
地元の反対で山中にすら土葬墓を造れないのだ。
戦前はやむなく土葬だったが人々は死の穢れを忌避するために
種々の禁忌をつくった。
禁忌があるということはまだ共同体があるということだ。
村八分になっても葬式だけは別(一分)だった。
いまでは葬儀社が文字通り始末してくれて参列者は帰りに清め
の塩をもらっても使い道すら知らない人が多い。
それだけ生きている者の魂が死者の霊魂の重みから解放された。
裏側のないメダルはない。文化も同じだ。
死が軽くなったということは生も軽くなったということだ。
我が子や老いた親に対する信じられない仕打ちには文化の伝統
と変容の背景もあると思う。
私が居たブラジルは土葬だった。
オラリアに隣接する移民宅で雇われていた独身日本人男性が死んで葬式があった。
付き合いのないわが家族も告別式から市営墓地の土葬まで始終
付き添った。
資産家は洋風の家族墓を買っていたが身寄りのないかれは掘り
返されたばかりの墓穴に降ろされた。
参列者みなが一握りの土をふりかけて最後の別れを告げた。
土盛にはいまだ土に還りきらなかった髪の毛や骨片が見えた。
母屋が大邸宅だったので戦前の書籍がいっぱいあった。
仕事のできる年齢でなかったので読書の時間がたっぷりあった。
本を選ばず片っ端から読んだ。
キング、婦人倶楽部から少年倶楽部まで隅から隅まで読んだ。
大正時代に発刊された立川文庫も何篇か読んだ。
『真田幸村』『猿飛佐助』『真田十勇士』
ここでは、戦前ブラジルに入った日本語読本(国語教科書)と絵本
で読んだ記事の題名を列記する。
イラスト入りだから60数年前に読んだ思い出が容易によみがえった。
サイタ、サイタ、サクラガサイタ
ススメ、ススメ、ヘイタイススメ
赤いとり小とり、なぜ、なぜ赤い
ウサギトカメ
サルトカニ(猿蟹合戦)
花サカヂヂイ
コブトリ(爺さん)
ハチ公
牛若丸(と弁慶)
一寸ぼうし
桃太郎
浦島太郎
天の岩屋
をろちたいぢ
かぐやひめ
大江山
白兎
羽衣
神武天皇
やまとたけるのみこと
義経と常盤御前
楠木正成と千早城
元寇と神風
二宮尊徳
水平の母
広瀬中佐
大正デモクラシーと昭和軍国主義をごちゃ混ぜにした文化を呼
吸しながら私はブラジルという風土で育った。
鳥の雛は孵化直後から生き抜くための自立遺伝子をもっている。
それは孵化行動でまず発動する。
くちばし上部付け根にヤスリが着いていて、それで卵の殻の内面を削って割れ目を作り殻を破って出て来る。
不要になったヤスリは自然に剥離する。
次に、最初に動く物を親とみなしてついて歩く習性が刷り込まれているから、人間や電動玩具について歩くことも珍しいことではない。
わたしが親代わりに育てていたひながいた。
始終ついてまわって餌をねだったり懐で休んだりするから自ずと愛情がわく。
ある日曜日、家族で市内の親類を訪ねたとき道路に駐車して車内に不用意にひなを放置した。
帰る段になって車に戻ってみるとひなが居なくなっていた。
通りすがりに持って行かれたことは明らかだった。
自責の念と喪失感で数日間夜も昼もベットの上で文字通り慟哭した。
遊ぶことも食べることもせず哭いた。
後にも先にもこれほど泣いたことはない。
戦時中禁止されていた日本人同士の集会が解禁されると相撲大会、運動会が開催されるようになった。
市内外の老若男女が集ってプログラムにしたがって競技をし弁当を囲む光景は内地と同じである。
相撲大会には叔父たちに混じってわたしも出た。
ある叔父が四股名に「出ると負け」を名乗って観客を笑わしていた。
わたしは負けて土俵を降りるときスポーツマンシップに反する行為をして母に叱られた。
負け賞品の鉛筆を母に投げたのだった。
叱られることによって社会常識を学んだ気がする。
運動会は再開されたばかりの日本人学校で開催された。
こどもの競技も異年令の混合で行われたので年長者から学ぶことが多かった。
袋で目隠しして四足で走る「猫かぶり」で1位になった。
手足を浮かさず滑るように走ると方向のズレが少なくゴールまで速く行くことができる、というアドヴァイスに従った結果だった。
運動会参加が縁になって日本人学校の日曜学級に通いだした。
寮まであったが生徒が集まらなかったのかすべて低調だった。
この時薄っぺらな算数の問題集をはじめて使ったような気がする。
日曜学級も指導者が居なくて立ち消えになったのか数回行ったきりになった。
結局自習の算数は九九はできたが通分の壁を越えることができないまま日本に来た。
日常、あまり用のない通分は、父母の限界が自分の限界になった。