自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

樺美智子さん死の真実/6.15樺美智子忌に捧げる/安保闘争55周年

2015-06-06 | 体験>知識

 運んだのは木村愛二氏と関勇氏
樺さんが倒れるところ、腹部を突かれるところ、首を絞められるところ、その瞬間の目撃者は現れなかった。
その瞬間の映像も公開されなかった。
私は、執拗に現場をしぼっていって、樺さんの終焉のスポット7トン車の陰、に絞り込むことができた。

残る作業は、遺体鑑定を見直すことだけである。
検察に正式に依頼された中館鑑定書は没にされ、なぜか立ち会って鑑定を途中退席したライバルの上野Drが要請されて提出した再鑑定書が採用された。
どちらも公開されなかった。
したがってここでは、執刀現場で中館Drが手順に従って執刀しながら口述したのを筆記した三つの記録に基づいて推論する。

➀中館法医学教室が記録した正式のメモ。未公開につき産経新聞掲載の「中館鑑定書」解説をもって代用する。樺俊雄「美智子の死因の問題」から孫引き。 
産経新聞らしからぬ論評に体制側の渋い顔が浮かぶようだ。
 7.18「この鑑定書は樺さんの直接の死因を〈胸、腹部の圧迫などによる窒息死〉としており、さらに首を絞めた上、口と鼻を、おさえた跡があるとしている。」・・・[これらの]所見は地検がいうように〈警官隊と接触しなかった〉とはいちがいに断定できないことを示している。
こんご地検が死亡状況の判定において、この鑑定を最終結論でどのように取り入れるか注目されよう。」

➁始終立ち会って観察した坂本・中田Drが記録した詳細な「解剖所見」の結論部。
6.21「・・・窒息死の原因に関しては前頸部の内部組織の出血が最も重要な所見であると考えられる。この出血は左右両側にあり、特に右側に於て強く、全面には認められないことから、右手による扼死が最も考えられる。」

➂警視庁鑑識課芹沢検視官が正式に記録したメモ「臨場日記」。山崎光夫『東京検視官』から。
 十二指腸
      胃幽門部か 上下8  前後6  [センチ]  高層の出血  
    特、スイ臓頭部に相当するところ*が強い  
     *十二指腸は膵管で膵臓につながっている。
 ノドボトケ      
      軟骨周囲に大豆大、小豆大の筋肉内出血
     右上角周辺に粟粒大、 食道上端部  [出血]

11.18 慶応医学総会において、中館Drの無念を中山助手が4ヶ月間の動物実験をした結論を発表して晴らした。
「頸部の筋肉内出血は、扼首、つまり首を絞めない限り、認めることができない。膵臓組織が溢血、あるいは出血する症状は胸を圧迫して殺したのでは認めることができなかった。」『聖少女伝説』から。

死因となった部位が絞られた。膵臓頭部と十二指腸乳頭。それに頸部。

 背中側

   胸部側

WEBで採録した膵臓頭部を取り囲む十二指腸C形環状部のイラスト

二つの鮮明なイラストのおかげで、樺さんがみぞおちにボディブローを受けて膵臓が50~60ccの内出血挫傷、十二指腸が手のひら大高層内出血をきたした、と結論できる。
こぶしなら、体表に傷がなくかつ肋骨の骨折がないという両条件を満たす。
膵臓の体部と尾部は胃と腸がかぶさっていて裏に隠れている。
ダメージを受けた臓器頭部だけがみぞおちの奥から外を窺う位置にある。

頸部についてはどうか?
当時から官憲による首絞めは検挙に際して常習化、日常茶飯事となっている。
メディアが報道を「自粛」しているので市民の知る所とならないだけだ。
沖縄では「安保闘争」が日常化している。

市民カメラマンのゲリラ・ショット
をどうぞ。辺野古の海は戦場だ。



岸も手厳しかったが、孫は手も足もきびしい!

首締めとボディブロー、警官のほかに手を下すものはいない。警棒でなく拳で、となれば下手人は検束中の私服警官である可能性が高くなる。
死因はみぞおちの突きor首絞めによる神経性ショック死*である。

*人体のうち咽喉部・心窩部(みぞおち)・外陰部(睾丸,妊娠時の女性性器)の3箇所は神経分布の多いところで、人体の三大危険地帯、急所と呼ばれている。これらの部位に機械的刺激を受けて、ショック死することがある。これは法医学の常識である。
例1:ふざけて女の子の頸を絞めたところ急死した事件があった。剖検の結果、普通の扼頸による窒息の所見がなく、神経性ショックと考えられた。
例2:台湾では夫婦ケンカの際に、妻が夫の急所を握り締めて離さず、夫をショック死させた事件があった。

 


樺さん死の真相/仮説B 7トン車の陰でリンチ、扼殺

2015-06-06 | 体験>知識

 

6.15突入前  移動前の警備車を背後から見た航空写真   出典  西日本新聞

7トン車➀は19:05時点ではまっすぐ後退して写真の白くみえる場所にすっぽりはまる。
その後ろに立ち木らしいものがみえる。CEFでつくる三角形もトラック➀に並行して下がる。

樺さんが致命傷を受けた現場の写真は見当たらない。
検事局にはあるかもしれないが公務無罪を原則とする司法が公表するわけがない。
公安警察は3台のカメラで現場を撮影した。
編集された16ミリフィルムを裁判官が証拠採用したが、肝心の実力行使の時間帯だけ見事にフィルムがカットされている。
弁解:食堂に行っていた!

樺さんが入構後に目撃されたのは写真B地点よりすこし左である。
先頭部隊が中折れして樺さんより後にいた榎本さん、福田さん、石川さんたちがいつのまにか扇の左端の最先端になりA地点で機動隊の猛襲、圧出を受けたとき、石川昌子さんの眼にとまったのだった。

樺さんはB地点で確認されたあとどうなったか、追跡を続けよう。
工兵隊長篠田邦雄の状況説明。 『安保世代1000人の歳月』から。
「外に阻止車輌を引っ張り出すごとに、どんどんデモ隊が入ってくるから、こっちは逃げるに逃げられないわけですよ。それで最前列に押し出されて、じわじわなかへ入った。そうしたら機動隊の攻撃だ。機動隊の最先端も後ろの部隊に押しまくられ〈助けてくれ〉と叫ぶ。
こっちも前に機動隊の壁。後ろからはぐいぐい押されるから、身動きできない。ときどき息がとまった。倒れたものもいるし、頭から血を流しているものもいる。そのままの状態で、ちょうどおしくらまんじゅうのように、行ったりきたりするわけですよ。
樺さんはぼくの十二、三列あとにいた。」
かれは記憶喪失でその後の認識がない。
被告となった篠田は後の裁判で1617枚の検察申請の証拠写真を複写する作業を担当して7トン車の下から樺さんを抱き起こした自分を発見した。『6.15/われわれの現在』

最後の目撃証言。『歴史への証言 6.15のドキュメント』  1960.7
「警官隊が襲った直後、おしつけられた扇状の隊中にいた岩田勝子さんは、押されて胸が苦しくなり、首を右にまわすと、二列後のところに樺さんをみかけた。
樺さんは歯をくいしばってやや上をむいていた。」

『歴史への証言』には7トン車の下の証言がいちばん多い。
警官隊による圧出が時計盤の9時から12時の方向からおこなわれたため学生の波が
サンドイッチの右方向に流れ出たためである。
安保闘争直後の7月の出版だから樺さんがそこから搬出されたことはこの証言のとき誰も知らない。

①樺さんと直前までスクラムを組んでいた「山中君自身は、警官に押されるまま、学生の群中で身動きもできず、人の波によって移動し、トラックの付近まで押された時、列のはじになったので、隊の外に出られた。彼は倒れていないし、付近に倒れた人をみていない。」
②江沢君の証言。
「私は東大の女子学生と前後して入ったが、中にはいったときは先頭から三、四列目で、その位置は七トン車の前あたりにとまった。警官が襲いかかった直後、私は前方から押され、前の人の下に折り重なり、いちばん下になってたおれた。」
警官が上の学生を検束中に車の下に逃れたが結局検束された。

③南門左側のバラ線の切れ目から入った丸山君の証言。
「南門から進んできた学生と合流した」、その「隊列の前の方に樺さんがいるのを見た。」
「前のものは逃げるので押してきて、自分は議面とトラックの中間の部分のトラック寄りのところで、トラックに押し付けられて倒れた。自分の上に五、六人重なってきて、自分は最後に気を失った。」 私服に殴られて起こされ、あとは警官のトンネルのなかでお決まりの殴る蹴るの暴行を受けて逮捕された。
「・・・議面の地下室に入れられたが、逮捕の順番は九〇番目ぐらいであり、すでに血だらけの人がたくさんはいっていた。自分のあとから女の人もはいってきてうめいていた。」

④その7トン車の下から瀕死の女子学生が検束される様子を東条カメラマンと清水君が目撃している。
この女子学生が警官に両腕を持たれて議員面会所地下の「仮留置所」に事切れたように運ばれた藤山道子さんである。
あまりにも悲惨な写真なので見た方は憶えておられることだろう。
学生清水君も「前列から10列ぐらいで」入構し、やはり押されて、トラックの下に倒れ込んだが、反対側に脱出している。
そして白色のトラック➂の上から二人の警官が女子学生を搬出するのをみた。
樺さんの死の前後に、大変なことが起こっている、女子学生が前のトラックの方で死んでいるらしい、と騒がれて、倒れているところを写真にとられた女子学生がいたのだ。
撮影したのは東条カメラマン。
「緊張に腕の震えをとめることもできぬまま、連続3回シャッターを切った。」
その人藤山道子さんの証言があれば樺さんの死の直前の様子が明らかになるのだが、多分記憶喪失で何も証言できないのであろう。
7月末出版の『歴史への証言』には当然のことながら入院中の者、収監中の者の証言はとれてない。
同じ7トン車の下から瀕死の重態で搬出された二人、どちらが先か?
二人に共通する状況はまだある。
なぜ二人は「死んでいる」状態で発見されたのか?
藤山さんは何が原因で重態になったのか?
学生側のだれも二人が倒れる前後を目撃していない。
樺さんさんの場合、同じように「女子学生が死んでいる」と驚きの声をあげた学生はいなかったのか?
工作隊はどういう経緯で気がついたのか?
生死を分けたものは何か?

6.15シンボルツリー木立ちは残った    Photo 6. 18 毎日新聞社



右端に本館、中央上に旧議員面会所、下に旧警務部詰所、中央の広場の真ん中に立ち木があった。その前に7トン車➀と放水車➁とトラック➂があった。
それは吹き溜まりのような空間の端っこにあり、逃げ込むにも、隠れて悪事をなすにも恰好の場所だった。
7トン車の後ろ、立ち木付近、本館前は人まばらだった。
門の方へ逃げるのを断念して敵中突破して本館の方に逃げた学生の証言もある。
木立ちの向こう隣に移動した広報車⑨があった。

➄日高カメラマンの証言。
「木立ちの隣にあったトラック③の上で衝突の模様を見ていると、本館前の芝生と木立ちの間あたりで、異様な叫び声を聞いた。とっさに何だろうとと思ってかけ寄ってみると、二人の制服警官が学生の両腕をとらえ、他の背の低い制服警官が右手で学生の首をしめているいるところであった。私が近寄ると、腕をとっていた警官が、やめろ、やめろといい、首をしめていた警官が右腕で顔を隠すようにして、警官隊の隊列のなかに消えて行った。」

⑥C,E地点で「・・・多数の学生が顔面・頭部・肩・手・腹部等に警棒を受けて転倒し、あるいは負傷した。この学生たちの多くは警官隊によって引き出され、私服警官に渡された。私服が制服警官の後に2,3人ずつ組になって、引き抜かれた学生たちの手足等をもち、殴る蹴るの暴行を加え、また首を片手でしめるというような状況が、各所にみられた。」

首締めの報告が多々ある。
首を絞められた記者の証言もある。
頻繁におこなわれた首締めは無力化する方法の有力な手段である。
わたしも大学の柔道の時間に首の絞め方、ギヴアップのサインの出し方を実習した。
しかし無力化した後の追い打ちとしての首締めにはサインの出し様がなく憎悪と殺意を感じる。

仮説B  樺さんは終焉のスポット、7トン車のあたりで複数の警察官にリンチされて扼殺された。
その際、私服か機動隊に片腕で首を巻かれ引きずられたことも疑われる。「足部に若干の擦過傷が認められるが、頭部、両手、その他の部位には骨折はもとより外傷はなく」と6月21日法務大臣の閣議報告があった。

  
6.15放水前、突入前の警備車①~⑥と広報車 

樺さんより2,3列後ろの隊は、広報車と議員面会所の狭い間を通りぬけた。
右下に側溝とマンホールの蓋が見える。
放水車も7トン車も、その前のトラックも、ついで広報車も、マンホール後方に移動、再配置された。
そして広げられたスペースで先頭部隊は打ちのめされ後送されさらに暴行され逮捕された。