自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

狭山事件60年 再審の開始に動き出せ

2023-05-10 | 狭山事件

正義の女神像

表題は中日新聞・東京新聞の5月10日の社説の見出しそのものである。
今話題の対話型検索で「狭山事件関連の最新記事の収集がほぼ無いのはなぜか」と訊いてみた。回答は「申し訳ありませんが、現在のウェブページコンテキストには狭山事件に関する最新記事が含まれていないようです」であった。
詳細情報としてjapan wikiと上掲社説のリンクが貼ってあった。

当gooblogの狭山事件連載記事もデータバンクから洩れてしまっている。狭山事件60年を期して「新説  狭山事件」で若者の関心を惹こうとしたが、発信スキルが足らなかったようだ。

再審の門は開かずの扉と云われている。これまでに再審の事例は数えるほどしかないが、扉が開いたのは、勇気ある裁判官が裁判所から外に出て自ら事実調べを指揮した場合だけである。
社説が毅然と独自の主張をしていることに敬意を表したい。
「裁判所は再審の可否を公正に判断するため、職権に基づく独自の鑑定や鑑定人への尋問など事実調べを行うべきだ。」


裁判所は証人尋問とインクの鑑定を!

2023-04-07 | 狭山事件

これは、春分の日に大阪西成区民センターで開催された石川さん再審を求める市民の集いin関西のスローガンである。
前日の袴田さん再審決定を受けて500人収容の会場が盛況だった。府内のコロナ感染者が数百人にまで落ち着いて来たので私も参加した。石川さん再審運動の最近の情勢を感じ取ることができた。

スローガンにみられるとおり、運動の目標がすっきりと整理された。さらに、露新の話芸、指宿弁護士の報告、石川夫妻-袴田秀子さんのビデオアピール、それから青木恵子-西山美香-金聖雄-ノジマミカさんによる冤罪トークセッションで、狭き門となっている再審法を改正して、証拠開示のルールを設ける必要性がくりかえし強調された。
ちょっと不満が残った。無辜の市民の冤罪は真犯人の免罪であることに誰も触れなかったことである。運動にとって一般市民に支援の輪を広げることが肝要であるのだから、一般市民がいちばん乗りやすいスローガンも掲げるべきだ。
このスローガンは、警察、検察と裁判所のもっとも痛いところをついて、その本分と責務に目覚めさせるうえでも有効であると考える。
最後に和太鼓の演奏があった。ドド~ン、まさか肺腑に響くとは知らなかった。たちまち頭が空っぽになった。同時に無心になり感情を失った。すると涙腺が開いたのか涙が流れ出した。はじめての体験だった。
50年ぶりにデモに加わった。交通整理の警官に急かされて
何とかしんがりについて行けた。夜、風呂に入っているとき両太ももの筋肉がつった。


狭山事件/犯人を指し示す被害者遺留品/雑木林は見た「完全犯罪と権力犯罪の3次元交差」

2023-02-24 | 狭山事件


5月3日午前0時すぎに犯人を取り逃がした警察は朝から機動隊と消防団の手を借りて鎌倉街道から南へ向かって山狩り捜策をおこなった。そして早々と自転車のゴム紐を発見して領置した。発見者は、狭山署交通課の関巡査部長である。そのご捜査本部に認められて取調補助員となって石川青年の「自白」引き出しと重要な「物証発見」で捜査本部の期待に応えた。彼はかつて菅原四丁目に居住して、石川青年がキャッチャーをつとめた菅四ジャイアンツの世話役だった。
発見場所が雑木林の端っこではなく中心部であることに意味がある。犯人が、地元不良によって強姦、殺害がおこなわれた、と印象付ける意図で工作を行なったのだ。ゴム紐発見後、当然、付近はくまなく捜策されたが、ほかには何も発見されなかった。
翌4日に、ゴム紐発見場所からさらに南西の農道で死体が発見されるに及んで、特捜本部は殺害場所を当初誰もが推定していた薬研坂の雑木林からずっと西寄りの雑木林に変更することを余儀なくされた。ゴム紐発見場所では農道から道なりで1km近く離れていて 遠すぎる。もっとも手近な「4本杉」と呼ばれた道なりで200mの雑木林が候補にあがった。
そこへ6日夕方「4本杉」前で木綿紐の切れ端発見の報が入った。発見者は県警中刑事部長である。その地点は昼間の捜索隊の山狩りで地下足袋と並んで自転車のタイヤ跡が発見された、と報道されている地点と同じ場所である。でっちあげをもいとわぬ最初の工作が6日に特捜本部長自らの手でおこなわれたと考える。
当時の県警には、あらかじめ自白強要のためのネタ(虚偽の物証、証言)を仕掛ける悪弊があった。佐木隆三『ドキュメント 狭山事件』によると、1955年の熊谷市せつ子さん殺害事件では指輪、狭山事件では万年筆、そして両事件の取調主任官は奇しくも県警捜査一課清水警部である。
8日捜査本部は、手詰まりを打開すべく捜査員210人を投入したシラミつぶしの体制で五度目の山狩りと聞き込みを行なった。「午後から死体発見現場、ゴム紐発見地点を中心に遺留品の捜索、犯人の足取り捜索を行ない」また民間ヘリコプターで航空写真を撮った(埼玉読売9日朝刊)
11日夕方死体発見現場近くの麦畑で耕作者によってスコップが発見された。スコップは捜査の的を養豚場に絞る「物証」とされた。
しかるに上記埼玉読売9日朝刊1面TOPに、被害者が「埋められていた麦畑を[8日に]捜索する機動隊員」が大写しされている。山狩り終了後二日の間に捜査本部が仕組んだとしか考えられない。再度のネタ仕掛けである。
5月23日石川青年が「筆跡一致→恐喝未遂」容疑で逮捕された。
5月25日教科書、ノート類が自転車のゴム紐が発見された場所から直線で150mほど離れた溝で草取り中の耕作者によって発見された。なぜかニュース価値がひくく、資料がすくない。県警はひたすらカバンを追い続けた。自供による「発見」に賭けているかのようである。
6月17日、石川青年がいったん保釈され、直後に本件強殺容疑で再逮捕(肩透かし逮捕)され、川越署分室(特別取調室)に移送、厳重隔離された。石川青年以外に容疑者はなく保釈すれば後がない状況での見込み捜査(筆跡鑑定書以外証拠がなかった)への大ジャンプだった。
決断に当たって警察庁、関東管区警察局、県警-高検幹部の間で議論が紛糾した。それでも決行したのは特捜本部がカバンをすでに押収していたからと推理する。
6月21日石川青年が書いた略図に基づいて関巡査部長がカバンをゴム紐発見場所から56m離れた溝で発見し掘り出した。離れた所で麦刈りをしていた人が呼ばれて掘り出された後の現場立会人にされた。4週間前のゴム紐発見者と同一人物である。実況見分作成者は関巡査部長であった。
[自供によって]発見されたされたカバン     警察が出した品触れ  カバンと万年筆
   

写真コピーはいずれも証拠開示された物である。
発見されたカバンは、一見しただけで、品触れと型が同じである。5月8日付けの品触れカバン は「濃い茶色の革製カバン」となっている。5月2日父親が狭山署員に供述した調書では「カバンは薄茶色の一見革製に見えるチャック付と申しましたが、これは学生用のものでなく、家にあった旅行カバン」となっている。
二つのカバンが同一物であるかないか、弁護団が検証すれば容易に判る。品触れには擦りきずが明瞭である。同定の鑑定がなされると立ちどころに石川さん再審無罪の新たな証拠となる。
一説に「長兄が東北旅行で[のために?]買ってきたものを被害者が使っていたと云う」のがあるが、出どころを確認できない。発見されたカバンが被害者の物であると長兄が後に確認している。

6月25日上田県警本部長、石川青年の単独犯行自供を正式発表。「自白にもとづいてカバンを発見したということです。」

この間、特捜本部は、再逮捕後かん口令を敷き捜査の状況・方針が洩れないよう有形無形の壁を作っている。狭山所長(特捜本部次長)の電話機に録音機を取り付けたほどである。

5次以上にわたる山狩り捜索で発見に至らなかったカバン・・・。
捜索隊は当初から、消防団本部長から地元の事情に即した「根除け堀を見ろ」「芋穴を見ろ」と云った細かい注意を受けていた。漫然と「場所」を捜索したのではなく「地点spot」を重点的に探していた。
カバンが発見された溝は、雑木林の木の根が畑に伸びないように掘削された堀(ヘッジ)である。「堀」は百姓の知恵の産物である。経験のない者には解らない。
捜索隊の重点捜査でも発見されなかったカバンが捜査本部チームによって発見された。カバンは捜査本部によって埋められ掘り出された切り札的ネタだったという疑惑が浮かぶ。
バラバラの「地点」を視覚化した写真と「地点」間の距離を示す図面を掲げて、本題に移る。



捜査本部が拠り所とする「物証」は私にとっても犯人を推定する物証となる・・・。
犯人は、不都合なメモが入っているリスクを回避するためにカバンを開いて万年筆、筆箱、手帳、財布もろとも不老川に流した。前章で私はそのように推理した。それを承けて推理の是非を検証する。
一審公判で開示された中身の教科書・ノート類目録(発見当日の押収記録)について殿岡氏の分析を借りる。[]内は私の考えである。殿岡駿星『狭山事件50年目の心理分析』(2012年)
当日の教科
1時限目 ペン習字 ペン習字教科書(全員が買い当日使った「ペン習字手本」)がない。代わりに堀兼中学3年時の硬筆練習帳(署名等あるも本体は未使用)があった。[署名=被害者名  以下同じ]
[警察が当日の担当教師に提出させた「習字浄書」だけが本物である。開示された浄書を使って、弁護団がインク成分を科学分析した鑑定書を第3次再審請求の一環として高裁に提出して現在に至っている。
浄書のインク成分にはクロムが入っている。石川青年宅で「発見」された万年筆が被害者の所有物であることを確認するためにそれを使って長兄が試し書きした数字12345・・・のインク跡にはクロム成分が無い。証拠の万年筆は特捜本部が仕掛けた別物である。]
2~4時限目 料理実習(カレー)   「教科書(家庭一般)*」に挟まれていた献立表らしきメモに堀兼中、署名。
5時限目 音楽 「教科書(高校の音楽)*」 音楽用ノート(補修用、3年、署名)
6時限目 英語 「中教出版の教科書」(中学3年時のもの)
「NEW START ENGLISH*」 [ 検索すると☞ 開隆堂  1962年   1963年度入学と矛盾しない。]
「ユニバース英語辞典*」[検索☞高校・一般用『ユニヴァース英和辞典』稲村松雄・梶木隆一共編 小学館 1960年  634P これも矛盾しない。]
[2年定時制で普通科なみの英語教科書、辞典を使うだろうか、疑問である。] 
ほかに「女学生の友」5月号*とノート5冊。その内の一つ「ルーズリーフ」裏側の袋に歯科医による堀兼中学校長宛証明書が入っていた。
これらの物が被害者のものであることを長兄が一審公判で支離滅裂の理由をつけて確認している。
中学3年時の物は各時限に1点ずつ在るが、確かに高校時に使用したと証明できる高校向けの物はノートをふくめて1点もない。署名も書き込みもつまり使用の痕跡が無いのである。*印の物は街で買い求めることができる。
以上をもって、これらの物が被害者の家にあったこと、そして被害当日カバンの中にあって死体埋没後隠滅された真正被害品の代用物にされたことを明らかにできたと思う。

以上の点検から、不都合メモが出る危険回避のため、教科書、ノート類は犯人によって5月1日にカバンと一緒に川に流された、とした前章の推理は、一点を除いて、妥当だった、と結論できる。
カバンについては修正をしなければならない。カバンは犯人が死体埋没のあと、後始末の一環として車内座席にリスクの有りそうな中身を出して、カバンだけを現場に放置した、と推理する。
現場のどこかについて伊吹隼人氏が深く長く追及している。まず伊吹氏がブログに掲載している週刊朝日(1977.8.26)の長文記事を紹介する。死体発見者として公判で証言した消防団員は記者の問い「法廷で証言していますね」に「穴を見つけたっていったことですからね。あとは何にもわかりません」と答えている。自分は掘り返していないし死体を見ていない、と言っている。おのずとダミーであることを語っているかのようである。
仕方なく記者は紙幅を埋めるため一審での証言を掲載している。応答が長いので要約する。地表の地割れを見つけ、30センチぐらい手で堀って腕がちょっと見えたので中止した、と証言している。下線部は実情と食い違っている。
一方最初の発見者として現場と捜査本部で2度供述した消防団員は発見の経過から現場保存の実行まで記者の問いに臨場感あふれる返答をしている。荒縄を引っ張ると手が出てきた時の「ワァー」とか、現場保存後ペアを組む機動隊員が吹いた呼子の音色「ピー」とか、読んでいて情景が目に浮かぶ。
その中に「私が見つけたのは見てすぐ[被害者]の持ち物だと思わせるようなものだった」、「カバンだったか、上着だったか・・・」と言葉を濁した一節がある。前の秋、佐木隆三氏のために現地取材をしたルポライターの栗崎ゆたか氏に「イモ穴にカバンがあって、警察が保管してあった」とはっきり答えている。その証言の反響の大きさを気にしたのか言葉をぼかしている。
後年(事件46年後78歳)伊吹氏自身のインタビューに応じたときの2度にわたる証言では、イモ穴か茶垣の根元かでブレがあるが、カバンがあった、中身は見ていない、機動隊員が一緒だったから、と言っている。
警察官に2度供述した彼が調書を残さず検事側の証言者として呼ばれなかった理由はカバン目撃者であるからだと誰しも思うに違いない。

以上の検証で、「発見された教科書、ノート類」は「発見」の日を入れて25日間、カバンは52日間、雨が降ると小川のようになる堀に埋められていたのではなく、偽物の教科書、ノート類は犯人の手元に、カバンは特捜本部の手中にあった(土中を排除しない)、と云える。最初のネタ仕掛け(カバンが農道で押収され品触れに使われたことを指す)が5月4日死体発見日にまでさかのぼることになる。自作ストーリの驚愕の結末にわれながらぞっとする。
そして、捜査の進展とシンクロして、偽物の教科書、ノート類は雑木林に見付かりやすいように並べて置かれた。教科書、ノート類は石川青年を身代わり犯人にするために、カバンは犯人をでっち上げて、失態で失った警察の信用を回復しその威信を保つ奥の手として、雑木林に仕掛けられた。
雑木林で図らずも完全犯罪と権力犯罪とが3次元的に交差したと結論する。
それぞれのブツの出どころが、完全犯罪の犯人と権力犯罪の犯人をあぶり出している。時間と司法の壁によって犯罪者達が罰せられることは永遠に無い。被害者の無念と石川さんの人生を思いやりつつ終章を閉じる。いつの日か小説「完全犯罪  狭山事件」のヒントになってくれたら・・・、と秘かに願っている。


狭山事件/最終目撃地点/被害者の足取りと時間

2023-02-03 | 狭山事件

長年の懸案だった狭山事件のもろもろの現場を地図上でどうにか確認できるようになった。
最終目撃者奥富少年(被害者の1年後輩、堀兼中学3年)が「澤の自転車屋から百二、三十メートル位、入間川[駅]寄りの畑中で、入間川方面から帰ってくる善枝ちゃんと会いました」という目撃情報を、5月5日付調書(自宅で父親同席で証言)に残している。沢街道で、とは云っていない。正確には「澤の道地内」で、つまり加佐志街道の「沢の道地内」で出会った、といっている。その地点を今回地図上印で視覚化することができた。

その認識に至る経緯は次の通りである。
当時西武川越新宿線の円弧内側は、工業団地、住宅団地の開発が始まったばかりの農村で、道路は未整備、その正式名はなかった。週刊埼玉の記者亀井さんでさえ加差志街道は沢街道とも云うと書いている。通称加差志街道は市役所(駅の反対側)から見て加差志集落に通じるといった程度の通称であり、奥富少年でさえその通称を知っていたかどうか疑わしい。堀兼部落の佐野屋から見た「沢の道」(現126号線)についても同様のことが言える。「澤の道地内 jinai」に注目すると、目撃スポットは、沢の道地域内の畑の中の道、ということになる。 
関口自転車店は沢部落のランドマークとして使われたにすぎない。東中学校に行くのにわざわざ沢街道を西に進み遠回りするはずがない。また、被害者が第一ガード下から西武線沿いに北上する理由もない。
奥富少年の証言は事件直後5日のものであり最後の目撃者として信用できる。ただ野球に関わることがらについては、小さな嘘をつく動機があった。野球部は当日練習するか決勝戦見学に行くか合議して見学に決まった。3年生として後輩を引っ張る立場にありながら理由もなく遅れて会場に行っている。
野球部監督の第二ゲートで被害者に声をかけたという証言は、事件後7年以上あとのものであることから、甲斐仁志氏によって記憶違いとして否定されている。

私は被害者が学校を出た時間は3時30分ごろで決まりだと思う。甲斐氏は下校時間について、降雨時間をからめて全証言を丁寧に比較検討して、2時35分過ぎに下校したと結論している。特に重視しているのが小-中学時代からの同級生の証言である。5月2日の警察に対する供述では「授業が終わると、雨が降ってきたから早くかえる」と言って帰った(この調書は未開示である)。5月29日の検察調書では「授業が終わって一寸卓球をして・・・三時半頃、私にさようならと言って帰りました」となっている。私は自説の筋書きに合わせて3時半頃説を採用する。容疑対象者が120人もいる時点で検察が供述を誘導して調書を作る必要性は皆無だからである。
わたしは、被害者が3時半頃に学校を出て「4時に第一ガード、会えなかったら加差志街道→浜街道で会おう」と告げられた通りの行動をとった、と考えている。そして浜街道かその手前で出会い、近くの雑木林の人目につかない所で、車内で殺害された、という前章の記事を再確認する。

既出記事の内容と重複したところがあるが、次章に進むためには、どうしても被害者の納得のいく足取りを地図上で確認する必要があった。壁を突破するための後ずさりと理解してほしい。

この章は、結論は異なるが、甲斐仁志氏『最終推理  狭山事件』(明石書店  2014年)に負うところが多い。


狭山事件/死体隠匿ではなかった/埋葬を偽装した「かくれんぼ」

2023-01-21 | 狭山事件

承前
主犯の思考、行動は単線ではなく複線complexであり、その表現法はときには伏線、あるときは露顕である。複線のあり方は、単純でなく絡みあい縺れているため捜査、報道を振り回し、世評を狂わせた。

警察が犯人を取り逃がした数時間後の5月2日9時ごろ、農家の男性がゴボウ畑の作業に来て農道の土が不自然に盛り上がっているのに気が付いている。3日の昼すぎと夕方には2人の若い人が散歩中に新しい土が盛り上がっているのを見たと新聞記者に話している。
3日に山狩りが始まったがその日現場は捜索対象外であった。農家の男性は3日も4日も現場近くで作業をし、4日には最初に発見した警防団に試掘のために農具のおかめを貸している。
通りかかった3人にすぐに異変が感じられる状態で死体は埋められていたのである。これで、隠匿の目的が秘匿ではなくほかにあったことが推察できる。
見つからないよう隠したのではない。適時に見つかってほしい。いつまでも見つからなかったら意味がない。かくれんぼ遊びと同じだ。
農道に埋めた目的は何か。雑木林ではなくリスクを冒して駅近くの開けた農道に埋めている。そのすぐ近くに石川さんが住む被差別部落があった。部落の不良による犯行をにおわせたのである。
公判で殺害地点とされた近くの四本杉の雑木林も部落の生活圏である。だからそこで殺害して農道に運び出して埋めたというストーリは成立しない。
もう一つ、農道は農道でも、その場所でなければならない理由があった。天蓋つき芋穴である。底まで3mの深さ、そこから横穴の貯蔵庫が伸びている。地下式横穴古墳を連想させる。芋穴を墓制に擬したのだ。

 芋穴   祝い用ビニール風呂敷と棍棒

すでに述べたように、殺害の動機は伝統的な家族制度(家督、家格、家産)の脅威となる家族の一員の謀殺だった。その背景に家父長制度があった。嫁は舅と夫に仕える家政婦であり農業労働力であり口答えの自由すらなかった。母の過ちから一家の団結にひびが入り、家族のぬくもり、一家団欒が失われた。
父母の不仲、母の死、自ら患った心身の傷、人手不足=進学の壁・・・、これらのトラウマは長子を苦しめた。思い返せば母の不倫相手である一人の男性(全く見当がつかないので便宜上X氏とする)に起因する。父に近い年齢、学校友達だったと想像される。
長子が殺害計画で遺体の処理先を思案したとき、恨みのあるこの人物に送ること以外は思い浮かばなかった。意趣返しである。これは亀井さんに聞いた身内説に属する。
農道よりか芋穴が犯人の目当てだったと前章で書いたが、農道と芋穴の所有者がX氏に該当するとは微塵も思えない。彼は後日被害者宅にお悔やみに行っている。
芋穴の所有者を名前しか分かっていない別人とする記事を最近目にした。そういえば農道試掘者にも別人(検察側証人)が居る。新聞はウラを取らずに速報するからだ。
犯人は農道周辺の数多くの地主の中の一人X氏に怨恨を抱いた。遺体が入った泥の棺(殿岡説)と遺品*の入った芋穴とをセットで見れば、他人はいざ知らず怨恨対象のX氏はたちまち返報に気づくと、犯人は心づもりした。無言のメッセージが届けばよいのだ。
*祝い用ビニール風呂敷と棍棒=墓標。長兄は5月4日立会人として現場で祝い用風呂敷と棍棒を被害者の物ではないと確認している。そして5日に正反対の確認上申書に「自分が書いたものでない」と言いながら渋々署名している。芋穴が墓制の隠喩であることを見破られまいと必死である。
犯人は埋め墓と詣り墓のイメージで遺体と遺品を送り出し葬送の礼を込めた。亀井さんはそこに犯人の仏心を見た。伝統の慣習、しきたりに忠実な人物像が浮かび上がる。トラウマから自己を解放するにはそうするほかなかった、と私には犯人の気持ちがわかる気がする。
最後に両墓制について一言・・・。
両墓制は学術用語である。民俗学者、僧侶は、土葬から火葬に変ったため、単墓制になった、両墓制はなくなった、と言うかもしれない。私もだが、庶民の多くはその用語は知らなくとも、その精神を代々実行している。火葬後の遺骨を墓石の土台空洞に納めて盆正月に花を供えて礼拝している。墓制の精神が分からないと「農道」の真の意味に到達できない。


狭山事件/性交はなかった/なぜ精液が・・・

2022-12-27 | 狭山事件

承前 
私が狭山事件にのめりこむきっかけとなったのは、一審判決中の強姦体位である。ズロースを膝の上までおろして、手拭いで後ろ手に縛った被害者の喉頭部を右手で絞めながら正上位で遂行したことになっている。自己欺瞞的司法関係者以外の成人であれば、十人中十人がありえないと答えるであろう。二審当時わたしは青年教師たちに集まってもらって見解を聞いている。
殺意については、致死するかも知れないことを認識しながら一層強く右手で圧迫して姦淫を遂げ、よって窒息させて殺害した、と
判決文にある。
発掘された死体の状況はといえば、靴を履いている。ズロースを膝の位置で半ば身に着けている。抵抗して傷ついた痕跡が
確認できない。B型の精液が確認された。これからは、強制(強姦)とも合意(和姦)とも判定できない。
殺害の時刻、場所の探求を踏まえて、わたしは、どちらでもない、性交はなかった、という結論に至った。
上記のすべての条件を満たすのに十分な場所は広めの車内である。長兄が使用していた車がたまたま条件にかなった。日野ブリスカの
キャビン内の広い映像を掲げる。


出展 前掲ブログ「新  懐かしの旧車カタログ館

強姦偽装工作は、人目を考えると雑木林の木陰の道に車を停めて殺害した直後の可能性が高いが、移動後と仮定してストーリを描くことにする。いずれにしても仮説である。
主犯は、死体を埋める農道を事前に何度か自転車、オート三輪で試行して、芋穴(次章で必須条件として記述する)を確認し、近くに死体を一時隠す茶垣、繁みに見当をつけておいた。
移動先の農道でただちに計画通りに強姦偽装工作に取り掛かった。車内の広さを利用して死体を寝かせて、スカートをまくりズロースを膝までおろして、スポイト(あるいは注射器本体)に吸い込ませて用意していた精液を膣内に注入した。死体を隠す作業をふくめたとしても10分少々で完了した。強姦偽装により自分が疑われる危惧がなくなった。この一点に限ってだが、犯人が不道徳な人間でないことが認められる。
死体を一時隠した場所はどこか?
埋蔵箇所の写真を掲げる。発掘・調査で麦畑が踏み荒らされている。
出典   亀井トム『狭山事件』 



写真にある背後の雑木林は、判決で殺害場所とされている「4本杉」(埋蔵現場から道なりで200m) がある平地林(見分調書では50~70m)である。そこからだと人力による死体と付属物の運搬が不可能である。私はこの農道写真の右奥の曲がり角に見える茶垣背後の高いしげみ(桑畑?)に隠したと推測する。埋蔵現場の目と鼻の先である。
「農道は俗にいう農家の馬入れであり、幅2.1メートル、東西に走り、農道の南側、つまり民家のあるほうには茶の木の垣があり、その垣を境として南側も北側も麦畑である、と[実況]見分調書は書いている。」
茶垣の高さは背丈を越え農道で作業をしても民家のある県道方面からは見えない、小型トラック[日野ブリスカの幅は142cm]を乗り入れ可能、と亀井さんは続けている。
その後開示された航空写真を基に甲斐仁志氏が運搬経路と手段について高度な考察をしている。
「リアカーで運んだ死体」(『新推理・狭山事件』より)
【東側からリアカーで運んだ場合】                                

【西側に車をとめてリアカーで運ぶのは目撃者多く不可能】

私の仮説では、もちろん日野ブリスカ750kg積載車の乗り入れである。「4本杉」は殺害現場でない。農道は運搬手段の進化(リアカー→オート三輪→軽トラ)に合わせて拡張される。当時は生産台数で軽トラックがオート三輪を完全に凌駕していた。
畑の農道は踏み固められるだけでなく陽が当たるので固くしまる。晴雨にかかわらず、農用車が入る程度では凹みがつかず平らである。実際平らだった。
車を入れると一時的に車輪の跡がつくことは自明である。当日の雨が轍を搔き消した。さらに死体発見の農道は阻止線を張るまでに大勢の若い群衆により踏み荒らされた*。日野ブリスカが入ったのは本降りになる4時半よりかなり前である。
*当ブログ「狭山事件/現場と運搬の推理」に写真がある。
死体着用の衣服等とその上に重ねてあった荒縄の濡れ方があまりにも対照的だったことが見分調書を作成した警部補の注目を引いた。荒縄だけがぐっしょり水を吸っていたのである。
繁みに死体を隠した状況を想像するに、死体は農用ビニールシートで包んで仰向けに寝かし、嵩のある荒縄、玉石、スコップは濡れるにまかせた、と考えられる。
車の荷台にはまだシートをかぶった自転車が横たわっている。通学時のカバンは自転車の後ろキャリアーからゴム紐を解かれて車の座席の足元に移動している。ゴム紐は殺害直後に上述雑木林の(道端でなく)奥深くに投棄された。帰宅途中不良達に襲われたと見せかけるためだ。
主犯は農道から帰宅途中、かばんを開けて中身もろとも本降りで増水した不老川に投じた。出会いの時間と場所が何かにメモされていたら万事休すからである。ただしこの一節は、石川さん逮捕後自白によって発見されたとされているかばん・教科書類の検証を私自身が次章でするまで保留としておく。
激しい雨の中、帰り着くと車を車庫に入れ扉を閉めた。時刻は5時ごろである。次に「迎えに」出かけるまでの2時間、アリバイがない。警察、検事は毫も家族を疑わなかった。

死体の埋蔵は計画通り5月2日の真夜中3時から行われた。初日の空振りだった零時の佐野屋張り込み騒ぎと長い降雨も収まった時間帯である。草木も眠る時間帯である。そのころ近所の犬がいっせいに異様に吠えたという付近住民の証言がよく知られている。
主犯はあたりを探すという口実を設けて家を抜け出して、家のオート三輪で現場に駆け付け、手提げライトを点灯してスコップで穴を掘り上げた。そして間近なところから遺体を引きずって穴まで運んでタオル、手拭い、細引き紐、風呂敷と荒縄を使っていくつもの細工を施し*、うつぶせにして埋めた。顔の下にビニール片が敷いてあり、頭の右上に玉石が置いてあった。これらの物はすべてあらかじめ密室である車庫に集められ用意されていた。
*当ブログ「狭山事件/祝い用ビニール風呂敷のミステリー」&「狭山事件/玉石、棍棒、紐と荒縄のミステリー」で詳細を確認できる。
事件にかかわった助手がいたことは確かであるが、穴掘りが一人でしかも25分でできることは実験で証明されている。大事なのはその場に助手がいたかどうかより、長兄が現場に居たことである。長兄抜きでは前述の複雑怪奇な偽装行為が不可能だからである。
残土の処理については、土葬を見たことがある人は難しく考えない。土葬の跡にかなり大きな盛り土ができる。それでも歳月を経て死体は水分が抜けて土に還る。掘り返すと骨の断片や髪の毛がわずかに残っていることがある。私はそういう情景を見ている。土盛りは限りなく平らになり、玉石とか墓標だけが目印となる。
当事件の場合、農道だからしっかり踏みつけてあった。米2~3俵の残土があったと推定できる。車を使えばさして処理が困難とは思えない。荷台にビニールシートを敷くかして残土を積み込んだ。土だから処分は容易であろう。
最後にスコップを現場以外の物陰に遺棄する作業があった。農具汎用品の一種だから足がつく心配はまずない。助手が持ち去って投棄したことも考えられる。
主犯は一睡もしないであたりを探し回った、と周囲に思わせた。夜明けに脅迫状封筒の「切れ端」をガラス戸の前1mの所で発見し、翌々日警察に届けたと証言している。二審で切り口が合わないことが証明された。これも理由付けのために小細工をしすぎた一例である。

謎が謎を呼ぶ。次の謎は隠匿の場所に危険を冒してまで何故農道を選んだか、である。単なる営利誘拐殺人なら雑木林奥深くの物陰に隠蔽、遺棄するだろう。


狭山事件/屋内殺害はなかった/軽トラ-キャビン内殺害

2022-12-24 | 狭山事件

承前
この章では殺害場所とそこに至る経緯、動機を考える。
いわゆるご馳走説が否定されると、屋内殺害説も崩れ、屋外殺害説が浮かび上がる。
屋外のどこかが問題となる。靴が脱げた形跡がないこと、白ソックスが汚れてないこと、衣服に腐葉土や朽葉のほこり・草木の染みが付着してないこと、つまり抵抗した形跡がないことから、人目につかない野外での雑木林内殺害も否定される。
いちばん可能性が高い雑木林内殺害が否定されると残るのは車内殺害であろう。車なら人目につかない場所を選べるし死体を任意の場所に運ぶこともできる。埋蔵に必要なスコップ、縄、紐、風呂敷、玉石、棒切れ等をあらかじめ用意して積んでおくこともできる。
あくまで私個人の想像の産物にすぎないが、被害者の長兄に焦点を絞ってストーリを創作する。
長兄が妹を迎えに行った時の車は、車庫から出て納屋の物置に戻った。出発と帰宅の時刻は当人、家族の発言だから信用できない。家長である父親は奥に引っ込み長兄がもっぱら報道陣に対応している。すでに家督となっているかのように振る舞っている。
その車は750kg積載の日野ブリスカ3人乗り軽トラックである。1961年4月新発売時の価格は40万円であった。次姉が横に立つ事件直後の車の写真があるが手元にコピーがないので、マイナーチェンジ車の広告写真(1963年)を掲載する。フロントグリルの菱形模様が付加価値になっている。搭乗者が乗り心地を自慢できるアメリカンスタイルのレジャー兼用車であった。

出典   ブログ「新  懐かしの旧車カタログ館」   使用許諾をいただきました。

キャビンの横幅、足元が広く、大人3人がベンチにゆったりと座れてドライブを楽しめることを広告は謳っている。バカンスブームに合わせた軽トラックである。

では、私の創作物語の幕開けとしよう。
長兄は妹が欲しがっていたものを誕生日プレゼントとして買ってやるから、4時にガード下で待て、と言って、妹と落ち合う約束をした。兄は法廷で第二ガードは知らないと言っているが信用できない。待ちくたびれた妹は半ばあきらめて加佐志街道に出て通称沢街道に向かった。途中沢地内で奥富少年に出会っている。そのあとすぐ、沢街道(佐野屋から沢地区に至る道)で兄の車に拾われた。自転車を荷台に積みキャビンに座った。その後まもなく人目のない場所でいきなり両腕で首を絞められて殺された。柔道の襟締めを連想させる。普通より広いとはいえキャビン内ゆえに抵抗の動きが封じられた。
兄は死体と準備した埋没のための道具とグッズを死体発見場所付近に隠した。いったん帰宅して車を元通り車庫に入れ扉を閉めた。

5時~7時まで2時間の空白ができた。その間主人公がなにをしていたか不明である。

7時に迎えに行き7:30に帰宅したときは車を車庫ではなく物置に置いた。自転車を下し、かねて用意していた「脅迫状」を玄関ガラス戸の隙間に差し込んだ。

兄の言によれば、土間で夕食のうどんを食べた。帰宅10分後脅迫状を「発見」している。直後、車と自転車が父親の目にとまった。車庫なら視界に入らなかったと断言できる。身代金目的の誘拐であることに疑いを持たせない証拠一揃いを10分以内で陳列する頭の良さに感心する。車庫の位置は当ブログの一章「狭山事件/現場と運搬の推理/アリバイに色眼鏡」で確認できる。

「誕生日プレゼント」について・・・。
妹が布団をかぶって小遣いを巡っていく度か悔し涙を流したことはその日記からあきらかである。伊吹氏の『検証・狭山事件』から引用する。
「四月二十六日 [遠足で楽しかったことが綴ってある]お天気もすばらしく、これからのバカンスのことを考える。
今晩も涙をながし、ねむりについた。
つらい、苦しい。それもみんなおこづかいのことだ。涙が枕もとをながれた・・・・・・」
「土曜日[二十七日]今晩もくやしい。ちょっと友人と立話しをしておそくなれば姉はおこっている。[ごく普通の姉との感情のもつれが綴られている。姉の気持ちが痛いほど分かる]
夜もおこづかいのことで兄と言い合い涙をこぼしてそのままふとんにもぐった。ふとんの中でもくやしいくやしい━・・・・・・」[兄が実質家長であるようだ]
三日後の30日、次男に1000円借りている。当時私のバイト日当が500円だったからかなりの金額である。
年頃だから友達と東京に遊びに行きたいだろう。流行の服・靴も、レコードも欲しいだろう。姉が主婦代わりに家事を一身に背負ってしかも農作業に従事していたことを考えると外出のための出費よりか、姉の手伝いで暇なしだったことからくるストレスを解消できる、夜一人での癒し時間をすごすグッズが欲しかったのではないかと思う。
具体的に言うと布団をかぶってじゃませず邪魔されず楽しめる、当時流行のトランジスタラジオであろう。姉が妹の土葬に際して「ステレオとテレビ」を入れたという報道記事を承知の上でのトランジスタラジオである。SONY製で当時の価格は6千円以上。
妹は王選手の熱烈なフアンだった。トランジスタラジオがあればテレビで見損なった王選手のニュースをチェックすることができる。フアンだった弘田三枝子の「ヴァケイション」などヒット曲も聴くことができる。

時代背景・・・。  
複雑な家庭だったと云われている。母親は10年近く前に国立武蔵療養所(戦時中は軍人-軍属の精神病院であった)で死亡している。父は短冊型に区切られた農地-屋敷が横並びする地区の富裕農で「百万円様」と呼ばれる有力者である。家父長制の遺制のような家族で、父親が進学、結婚、相続を個々人ではなくお家第一に考えて決めている。
明治の名残を想わせる家族共同体を、所得倍増計画と都市化(東京が世界初の1000万都市になった)に象徴される高度経済成長の上昇気流が揺さぶった。もっと都心に近いところでは若者の流出が激しく「三ちゃん農業」の悩みが表面化していたが、ベッドタウン化が始まったばかりの狭山市ではまだ家長の権威が強く農業と家族の空洞化は問題になるほどではなかった。その分、家族内葛藤が増し一家団欒に影を落とした。

一家団欒の喪失と願望・・・。 
母親の死亡(1953年末。享年44歳)は事件の10年近く前である。
長女27歳(事件当時)は母の死後家を出てほぼ家族と断絶している。
長兄25歳(5月5日26歳)は、中学時代、学年で1番の成績優等生だったが進学校受験を許されず、不承不承定時制高校に通って農業を手伝った。長兄の気持ちがいかばかりであったか察するに余りある。
「顔面神経病で半身不随みたいに」なって家から都内に通学ついで通勤(会計関係)しながら東大病院で5年間療養した過去がある。
次女は中学卒業後幼い弟2人と妹の面倒をみながら一人で家事を担った。兄姉二人が厳しい家庭環境で煩悶する姿が目に浮かぶようだ。
長兄は20歳から5年間療養生活をしているから、もっぱら家業の農業に従事したのは事件が起きる1年前からである。長子相続の目途が立って父親はさぞかし安堵したことだろう。家内のことは長男に任せて、みずからは公益の外交に集中、従事したと考えられる。二頭制家長である。
父親は農業委員を制度開始時から務め、直前まで農協の理事でもあった。事件前には選挙で区長になっている。名士として家柄(個人よりも家が重んじられる社会的地位)と家名を護る役割に専念したのである。
長兄は実質的家長として家業を継ぎ、家族内限定の監督、家督になったのである。家計を握り出費、収入を管理した。弟妹の小遣いまで管理し、姉妹の万年筆・時計を購入したのも長兄である。これら家政 house  economy は旧民法では家長の仕事であった。
父親(56歳)は、まだ老け込む齢ではないのに、遺体発見直後、犯人が捕まっても会いたくもないし顔も見たくない。犯人の方でも私の顔を見られないだろう。よく知っている人に違いないから、と気になる発言をして寝込んでしまった、それも10日間も。一家をまとめ率いる家長の面影はさらにない。
長兄は、事件の発生と犯人逮捕の遅れを「農村という古くからの何者かゞひそんで居たのではないかと責めざるお[を]得ないのです」と石川さん逮捕を報ずるサンケイ夕刊に投稿*して、農村共同体の因習を責めている。一方でその古い慣習を引き継いでいたことは自己矛盾である。
*私には秀才の小細工に見える。
後年自殺した次男は、カレンダーの裏に「古いものの中にいつまでもいいところもあることを願っていたい」という文言を遺して、古い共同体の遺制による家族内抑圧で自己崩壊に直面しながら、一家団欒への願望を発している。

兄が妹を・・・何故?
妹殺害の動機に共同体崩壊期の家族のジレンマがどう繋がるのか。そう、一家団欒が失せただけでなく、皆が束縛からの自由を求めた情動が事件の背景に見え隠れしている。長女は逃げ出し、次女は忍従し、妹は「家長」に向かって臆することなくモノをいう。兄はのちに今も顔面不随であると証言台で触れた。その原因である憎いはずの家父長制の承継者として、弟妹を扶養、保護、監督、支配している。立場が替われば兄と弟・妹との関係も変わると言える。
事件発生の10年近く前に精神病院で亡くなった母もまた幸せでなく自由を求めたことは想像に難くない。噂だけで証拠はないが、同情してくれた男性と情を交わしたとしても不思議ではない。世間でよくあることだ。私は亀井トムさんからその証拠(顔のパーツの一部が似ている)を聞いたが説得性に欠けると思った。
母の煩悶と過ちが家族の団欒を完全に消失させた。長兄はたぶん多感な思春期に夫婦不仲を知った。母の死は16歳のときである。わたしは精神医学-心理学的知識はないが、長兄が心身に深い傷を負い「顔面神経病」を発症したこと、感情が鈍磨したことは容易に想像できる。
長兄が将来の暗い幻影に執着し始めたのは実質的家長になってからである。家長としての義務を果たしはじめると、弟妹の扶養はもちろん、生活全般にわたって気を配り、励まし、見張り、口出しすることになる。はじめは、手伝い、小遣い、消灯時間などの細かい決まりごとについての干渉であろうが、次第に、外出、門限、男女交際にまで及ぶことは必至である。
兄は口答えから言い合いになる妹を意識するようになった。それまで母の面影に寄り添う兄妹の連帯感から気にならなかった事柄が家長になると心配事になった。卒業後どうするか。気が強く自己主張する妹が兄の意のままになるとは思えない。権利を主張するだろう。家父長制的家族では絶対に許されないことだ。
自由(恋愛、結婚)と平等(財産)を要求して来そうだ。そうなれば、家長の権威は失墜する。封建的慣行が崩壊し家族が四散する。

兄は次第に妹の存在自体に危機感を覚えるようになった。「消えてほしい」「消えろ」「消してしまえ」と過激化した。
血のつながりが二分の一であることがダメ押しとなって殺害を決意した。世の人はこういう残忍な身内事件では犯人の異常人格を疑う。ちょっと唐突に飛躍するが、権力者が往々にしてライバルになりそうな有力な同志を身内であっても予防粛清、謀殺することは歴史の教えるところである。実例として大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をあげるだけで十分であろう。
兄は旧来の家の秩序を守るために近い将来脅威となる妹を予防殺害した。謀殺だった。異父兄妹関係と本人が精神に受けた傷が彼の犯罪心理増幅に影響した。
家の秩序は恒産である不動産と持たれ合っている。狭山市の地価は開発景気で急速に値上がりしていたが、当地区の土地は市街化調整[制限]区域に指定されていたため資産価値は低かった。運良く土地を処分できたとしても、全財産をきょうだい5人で分けると一人当たりの相続分は大きくない。しかも家族の四散を伴う。そうならないための家の古い秩序維持が殺害の動機だった。
3人の弟妹が異常な死に方をし、末弟が養子(相利的慣習)になったため結果的に長兄の単独相続になったが、動機を財産独占目的の殺人とするのは短絡すぎると思う。


狭山事件/胃の中にトマトは無かった/未使用別件写真を流用

2022-10-28 | 狭山事件

筆跡印影指紋柳田研究所の工学博士・柳田律夫鑑定人は、長年の日本刀銘鑑定でつちかった技に、最新のデジタル科学技術をプラスした鑑定法によって、脅迫状冒頭(左上)のカラスの巣状に抹消された箇所を解析し、消えていた「少時」の時の文字を鮮明に可視化した。

掻き消し痕跡調整写真  

第三次再審請求の為の柳田鑑定書から   www.kantei110.com/case.html

一目瞭然、この草書体のこそ石川無罪を証明し真犯人の真の姿を映し出す物証である。[END]*
*当ブログの過去記事から再録

脅迫状は狭山事件の唯一本物の物証である。当物証から、脅迫状を書いた主犯が物書きに慣れているだけでなく達筆であること、知能に優れ、犯罪フィクションと大事件に蘊蓄があり、みずから完全犯罪を企画するほどの推理マニアであることが想像できる。
2023年5月1日で狭山事件は発生から60年になる。それに向けてこの完全犯罪を解くヒントをいくつか提示しよう。ヒントが狭山事件研究のあらたな起爆剤になればそれ以上の喜びはない。

第1回は、警察権力による偽装工作つまり未使用別件写真の流用について、である。

2か月前に台東区で起こった吉展ちゃん事件が未解決の折に、警察はまたしても杜撰な対応で犯人を取り逃がしてしまった。衆参両院の委員会で国家公安委員長と警察庁刑事局長が喚問、報告を求められた。死体が発見された5月4日には柏村警察庁長官が辞表を提出した。同日、埼玉県警は狭山市堀兼に特捜本部(中 勲本部長)を置いた。
埼玉県警鑑識課医師の五十嵐勝爾作成の鑑定書によれば、被害者の①胃は「大約250竓の軟粥様半流動性内容を容る。消化せる澱粉質の内に、馬鈴薯、茄子、玉葱、人参、トマト、小豆、菜、米飯粒等の半消化物を識別せしむ」となっている。一見、被害者が12時5分ごろに食べ終えたカレーライスの食材が半消化のまま残っているかのように見えるが・・・。 

弁護団は、五十嵐鑑定に①胃内容物の色調についての記載がないことに言及している。②小腸を構成する「十二指腸内並びに空腸内には微褐ー淡黄色半流動性内容ごく小許」「廻腸には黄緑色軟粥様内容と共に小豆のかわ小許」があった、と記載しているのに、胃内容物について色調の記載がないのは、「捜査の拙劣」である、と。
「しかも」と弁護団は続けている。「胃内容については<無定形澱粉質を除き[除いて]、固形物のカラー写真撮影を行った〉との死体材料検査記録が出されているのである。」
そしてカラー写真を撮っていながら色調を記載しない、ということがありうるだろうか、と結んでいる。
カラー写真が無く、胃内容物の色調の記載がないのは、食事後4時間以上経過して胃の内容物が胃から小腸に移動していたから、胃が空っぽだった、したがって不都合な写真しか撮れなかったからである、とわたしは推理する。
ちなみに、消化に時間がかかる食材は、物理的に硬いもの(タネ・いか・たこ等)を除けば、バターがいちばん長く、本件では牛・豚等の油脂で固めたカレールーと脂っこい肉類である。それらは胃内に約4時間蠕動で揉まれながら滞留し、十二指腸に送られてそこで胆汁酸と膵液で消化される。小豆の皮の外皮はセルロース(食物繊維)だから消化しない。消化しない物は小腸(十二指腸→空腸→回腸)を経て大腸で活用され最終的に残滓となり糞便として排出される。
しかるに、十二指腸内と空腸内には「半流動性内容ごく小許」、「廻腸には軟粥様内容と共に小豆のかわ小許」があっただけである。小腸内もほぼ空っぽだったのだ。
ちなみに食べ物がドロドロ状態で小腸内に滞留する時間は4~8時間である。

被害者の胃内容物(五十嵐鑑定の添付写真)

  inaiyo.gif

上掲写真を見ていただきたい。一点を除いて2~3時間で胃液でどろどろになる食材ばかりである。トマトの果肉が観察されることから食後2時間以内の状態と考えられる。
胃液では消化されない脂肪分が多いから滞留時間が長い豚肉[推測]とカレールーの黄色(ターメリックの色)が写ってないということは、この鑑定書の写真は、流用物、偽物であることを物語っている。

「一点を除いて」の一点は小豆の二粒である。小豆は外皮が硬いため噛みつぶさないと消化しない。粒状の二粒は当日の朝食で食べた赤飯の小豆ではない。赤飯の小豆は時間の経過により消化されその外皮が残滓として回腸に移動して記録されているからである。この節は学究内藤武氏の論文「小豆と狭山事件―半消化小豆2個が証明する石川さんの無実―」(2010.4.30)に依拠している。
ほぼ粒のままの小豆がカレーライスの食材であるはずがない。したがって上掲写真は未使用別件写真を流用した偽物であると結論するほかない。

遺体は5月4日午前10時35分頃に消防団員広沢一郎さんと機動隊員(二人で一組)によって発見された。カバンも同時に現場の芋穴から発見されたと本人は後年語っている。一審で発見者として証言した消防団員は別の分団長だった(伊吹隼人氏による検証)。
毎日・読売と異なって朝日だけが発見者を分団長にしている。当の分団長は第一発見者が現場保存のために埋め戻した穴を駆け付けた捜索隊と共に掘り返したにすぎない。捜査本部が重大証拠を「隠し球」として秘匿し検察が都合のよい証人を選んだ、と思いたくなる。
最初に遺体の身元確認のためによばれたのは担任教師と二人の級友だったが、二人は抱き合って泣き崩れてしまい、立ち合いに応じないで「泣きじゃくりながら立ち去った。」
被害者宅には11時ごろに知らされ長兄が報道陣の車で現場に駆けつけ、遺体が顔は見えなかったが妹であると確認した。「放心したようにただ自分のカメラをむけていた。」
遺体は午後2時すぎに幌付き警察車(ジープ)で被害者宅に運ばれ、午後6時頃から庭の物置で解剖(五十嵐鑑識課医師執刀、狭山署長=特捜副本部長立合)に付された。午後10時半県警の中刑事部長(成り立ての特捜本部長)と鑑識課長が結果を発表した。死因は窒息死、食後約3時間経過。司法解剖が指定病院でなく設備のない物置の電灯の下で行われたことに驚く。

3日の午前0時すぎ身代金を受け取りに来た犯人を取り逃がした県警の上田本部長と中刑事部長は身の置き所がないほど思い悩んだ。犯人が逃げたあとに殺されていたら、という恐ろしい想念に取りつかれた。身代金目的の誘拐であることが脅迫状から読み取れるが、気が強くて大人の体格をした被害者を生かしておく場所があるはずがないことから、すでに殺されていて、死体が発見されるとしても食後数時間後の死であって、最長であっても食後36時間以内(取り逃がしは36時間後)の死は動かせない、つまり死は警察の失態のせいではない、と県警幹部は安心したい一方で、解剖の結果で判明するはずの死亡時間に最大のこだわりを抱いていた。
解剖の結果もし胃と小腸が空っぽだったら死亡時間がつまびらかにならず、マスコミと世論による警察非難は厳しさを増し、警察の権威は地に墜ち、治安対策と責任追及をめぐって国政は大揺れすることだろう。県警本部長と県警刑事部長の首がとぶだけでは収まらないであろう。裁判も紛糾し長期化するにちがいない。そういう事態だけは何としてでも避けたいというのが県警幹部の本音だった。
解剖直後に発表された死亡時間は最有力の下校時間証言(3時23分)と矛盾しないものだった。後日提出された鑑定書は食後最短3時間と修正されている。弁護団が二審で提出した上田鑑定書は五十嵐鑑定書を精査して食後2時間以内としている。

五十嵐鑑定書が事件の捜査とそれに続く裁判に与えた影響は計り知れないものとなった。捜査本部は「死亡時間」に合わせて「自白」のストーリをでっち上げた。その結果常識ではありえない超人的犯罪行為のオンパレードとなった。本章の主題でないので出会いと連行の奇妙奇天烈な情景を想像するだけにとどめる。
石川さんを支援する人たちはカレーライスに季節外れのトマトが入っていることから下校途中で誕生祝の食事を身近な男性と共にしたと主張した。いわゆるご馳走説である。ご馳走説は真犯人究明の有力な拠り所とされたが、胃内容物が食後2時間以内だから殺害時刻が6(4+2)時頃になってしまう。2時間を共有できる異性と場所が被害者にあったことになって行き詰まってしまう。
5月1日は露地トマトとナスの植え付けが始まるころである。当時はトマト産地においてすらハウス栽培の揺籃期だったのでご馳走説には無理がある。学者、物書き、探究者等は皆ああでもないこうでもないと大いに迷った。二審の寺田裁判長は農家の子が持ってきたのだろうと推定判決を書いて現地農民の失笑を買った。
私も迷い続けた。関心は持ち続けたが長いこと鳴かず飛ばずのままだった。この度自分史の総決算の一つとして研究を再開し、主に新聞資料を読み返して、胃の中にトマトはなかった、県警本部による鑑定偽造があった、という結論に達した。狭山事件ではニセモノの証拠、証言が数多く露顕しているが、ニセ写真はその嚆矢である。

事件の真相解明に尽力され今も影響力を持ち続けている現役の鎌田、殿岡、甲斐、伊吹、・・・の諸賢とこれからの若い研究者諸氏が、ご馳走説の憑き物があればそれをはらいおとして、なおいっそう真実に迫るストーリに取り組まれることを願ってやまない。

参照 諸新聞記事抜粋集
1) 全国版  「冤罪・狭山事件研究」(代表 内藤武) 「あなたのホームページタイトル」で検索
2) 埼玉版  「埼玉・報道記事集  PARTⅣ」(部落解放子ども会大阪連絡協議会発行)150ページ 私蔵書
推奨  「狭山事件の深き謎と真犯人と疑われた男たちの半世紀」12頁にわたる伊吹隼人氏の力作。別冊宝島(2016.5.26)「昭和史開封」で検索


狭山事件/賃金と物価/1963~1974/生活の一断面

2020-10-30 | 狭山事件

狭山事件があった1963年はどんな時代だったか、振り返ってみたい。
お金のエピソードである。脅迫文にある要求額は20万円である。石川さんの自白を維持する意図で関巡査部長が拘置所、刑務所に収容されていた石川さんに差し入れたお金は1回500円、1000円である。それが当時の生活水準上どれほどの価値があったかを考える。ちょっと回り道しながら・・・。
朝鮮戦争の特需で、日本はもはや戦後でない、と語られるほどに経済復活した。翌年の東京オリンピックを控えて日本列島の主要部分とくに東京と新幹線・高速道のインフラ建設がすさまじかった。狭山市もベッドタウン化し始めていてホンダ等の進出もあり人口急増間近だった。まだ工業団地、公団住宅の建設は企画中だったが堀兼の有力者は農業委員会、農協、市議会選挙等で農地法にもとづく農地の転用、売買に関して熱い議論を戦わせていた。狭山事件怨恨説では身内不和説が有力であるが、地区にも古いものと新しいものの対立が潜んでいたというムラ内不和説も有りだと思う。
当時わたしは大学4年生だった。いろんなアルバイトをしたが今でも日当をはっきり憶えているのは太秦撮影所での「新選組始末記」のエキストラである。待機時間は長かったが撮影されたのはほんの一コマ、池田屋から志士の死体を大八車で運び出すシーンだった。拘束時間に関係なく日当は500円だった。
池田内閣の所得倍増計画の最中だったが苦学生も多く、学資をアルバイトと奨学金に頼る学生がたくさんいた。また、農村の裕福な家庭も古い勤勉倹約観念を引きずっている場合も珍しくなかった。しまり屋のわが両親がTV(カラー時代が始まっていた)を買ったのはその頃である。
百万様の評判があった中田家でも昼間の高校に通ったのは善枝さんからである。それも川越高の分校定時制である。その善枝さんの悩みはお小遣いであった。4月29日次兄(同夜間部)に1000円借りている。きっと自分の誕生日か5月3~4日の連休に使う目的があったにちがいない。
ちなみに奥富玄二さんの新婚生活向け新居は260万円という話もあれば100万という話もある。玄二さん自身、卒業と同時に14歳から外で労働している。次三男は家を出るという農村の古い習慣を引きずっていたのである。最初は古い雇用形態=作男として、数年経って運輸会社の運転手として働いた。その月給は31歳で17000円、1963年のことである。この年大学進学率は15%, 教師の初任給は14000円強だった。

大阪万博の前年1969年教師の初任給は27000円だった。この頃から賃金が急カーブで上昇した。公設市場を駆逐しつつスーパーができた。物価はまだ安く松茸、牛肉が都市サラリーマン家庭の食卓をにぎわすことがあった。私は私塾で稼いだカネで、近江牛の草鞋大のステーキ肉、牛タン丸々1本を買ったりして新妻を驚かせた思い出がある。
1973年中東戦争によるオイルショックでトイレットペーパー騒動が起きた。貨幣価値が下がり食材は高騰し、高級と普通とB級に分別されるようになった。高級食材がスーパーから消えた。世の中が「マッコト」(土佐弁で御免なさい)ブルジョア化したのである。


 
N
Z小学校運動会における我クラブ所属選手たち

1969年塾生でサッカークラブを創った。野球少年団すらない状況だったので空いているときは校庭を自由に使うことができた。試合相手が無いことが不満だった。
急激なベッドタウン化で人口が増加すると共に学校が新設され若い教師が急増した。伴侶の世代がそれである。男性教師たちが水曜日午後の研修会でつながって市内で教員チームを創って市社会人サッカー協会に登録してリーグ戦に参加しだした。
私の塾の圏内にあるSB小学校で放課後熱心な先生が上級生とボールを蹴り始めた。圏外でもAB、NK、SM小学校で同様のことが起こった。1970年SB小から来ていた3人がチームを抜けた。そのうちに学校チームが増えてサッカーは学校でできるから、とチームに入らない子が出だして、サッカーを義務付けた塾の規則が破綻してしまった。
学習塾はまだ競争相手がなく順調だったが、高槻フットボールクラブは部員不足で苦労することになった。子供にしてみれば学校でクラスメイトとサッカーができるのに学校が違う者が集うクラブの募集に応じる意味を見出せなかったのだ。
体育研修部会の熱心な先生たちが校長会を動かして公認の校長会杯サッカー大会を夏と冬に開催するようになった。わがクラブは参加資格がなかった。わがクラブは常設チームのない学校から来た選手でかろうじて1チーム分の選手を揃えるのがやっとだった。
試合相手には困らなくなった。府内はもちろん神戸、京都にサッカースクールができた。市内のSB、ABクラブはよく胸を貸してくれた。相手にならないのでDクラスとやらしてもらったことがある。Dクラスとやっても強くならないよ、とそこの先生に言われたが、Bクラスにはぜんぜん歯が立たないのだから仕方ない。
異端者ではあるが熱心さを買われてやがて校長杯に特別に参加させてもらえた。スポーツ少年団を育てたい教委・社会教育課の働きかけが利いたと思う。
こういう事情だからクラブは、ユニフォーム代、交通費は各自持ちだったが、強豪になるまで運営費をとれなかった。わがクラブが会費制を導入したのは、1980年全国大会にはじめて出場して、会費のない学校クラブにないプラス・アルファを獲得したあとのことである。大阪人は、私営プールを使うスイミングスクールは会費が要るが、公共の会場を使うサッカースクールはタダという金銭感覚に永いこと捉われていた。


狭山事件/現場と運搬の推理/アリバイに色眼鏡

2020-10-03 | 狭山事件

阻止線を張る前の農道 警官より多い群衆

先ず農道を考える。捜査本部と検察が石川さんにサラリと流させた埋め跡の余った土について、被害者の長兄が7月1日の週刊文春で推理している。石川さん再逮捕6月17日直後のインタビュー記事。
「わたしは推理もしました。その結果、犯人は土工に違いないと思っています。というのは、死体の埋め方です。ふみ固められた農道を掘りかえし、しかも中に死体を入れておきながら、現場は土が少しももり上がっていない。いったい、このあまった土をどこへ持って行ったか…...おそらく土工なら処分するのは簡単だったに違いない。」
刑事や記者の先をゆく想像には驚くほかはない。生活体験が旺盛なのか推理マニアなのか、どっちだろう?  荒縄と棒についても推理している。
「また、わたしは石川の犯行と信じて疑わない。とはいってもこの犯行は単独犯ではないとも思っている。という訳は、荒ナワにある。いかに犯人とはいっても、死体をひとりでかつぐのはいやだったんじゃないだろうか……そこで荒ナワをまきつけて棒でも入れて、二人でかついでいったんじゃないか、と思うのです。」
長兄は残土と死体の運搬は一人では無理(嫌だ、という表現)だと推理した。根拠をあげて犯人複数説を応援している気がする。
長兄が挙げた根拠に、縛るための諸々の物と玉石とスコップとなると、軽トラックかリヤカーの使用を容易に想像できる。次にわたしの根拠のない空想を綴る。

中田家屋敷の納屋と物置を考える・・・出典 亀井トム『狭山事件』 
見取図を見よう。
本題に入る前に少し寄り道をする。左端に長兄の名と㊞の記入が在る。亀井さんが掲示した意図は元になる図面が事件調書であることを暗示したかったからだろう。
長兄は中田家のメディア担当である。弁解か煙幕か考えさせられる長兄のコメント「犯人を逃がしたことについては警察も一生懸命やっているのでけっしてせめはしない。わしらの家はまわりが小道でかこまれていて八方破れ[敷地は両側とも他人の屋敷と接している!]の構えだ。犯人は脅迫状を投げこむと5分もたたずに外にとびだしたがその時、自転車は納屋にあった、ふしぎだ。」(5.4 サンケイ)

屋敷表口を入ると右側にさほど大きくない茅葺の物置がある。その一角はコンクリート土間で車庫として使用されていた。善枝さんを迎えに行った車はこの車庫から表門を通って外に出た。表門から奥深く突き当たると母屋がある。左へ曲がって15mほど進むと迎えに行って空振りして帰って来た車を駐車した大きな納屋がある。納屋の奥と2階は物置である。

一般に大工さんの定義では、物置には床があるが納屋にはない。納屋はかなりの建物で物置を内蔵することがあるがその逆はない。物置は多用途に使えるが泥がついた物、大きくて重い物は置けない。小型トラックとか農機具、収穫物は納屋に置く。ささいなことだが狭山事件の公判、書籍ではしばしば両者が混同されている。

亀井トムさんは、善枝さんの自転車は帰りの小型トラックで運ばれてきたと疑った。わたしは、玉石も棒切れも荒縄もビニール類も、車庫に準備され往きの小型トラックで運ばれた、と想像する。

警察と検察が被害者の家族を毫も疑わなかったため家族の当日3時~7時の行動がその言い成りにアリバイ化してしまった。4時20分から本降りになった。4時以降2時間半あまり長兄の行動歴は曖昧のままである。法廷で弁護士に問われて「三時か四時頃か雨が降って来て、雨にかかりながら納屋の軒先で[野菜の水洗い・選別等出荷準備を]やっていたんですが、五時までかかったんじゃないでしょうか」と答え、「五時以後は」と問われると「・・・・・」  裁判長の助け舟で「迎えに行く寸前までかかった」と言い足している。長兄は4時前に軽トラックで外の仕事に出かけたのではなかろうか?

通説では脅迫状を発見したのは7時40分となっているが、それ以前に「女子高校生行方不明、誘拐の可能性あり」の通報を受けて6時30分過ぎに上田県警本部長が所沢署に急遽立ち寄り署長に「狭山で女学生が誘拐されたらしいんで、西武園を検索してくれ」と指示してすぐ狭山に向かった、と元所沢署長が文殊社同人に証言し録音に応じている。元署長の指示で、5月1日夜から狭山湖の検索を始めた、という部下の証言もある。元署長は7回面接に応じ証言の重大さを承知の上で証言している。『狭山事件 無罪の新事実』より。
細田証言は最高裁が上告棄却をおこなう1カ月前の事である。反響の大きさと警察の圧力で細田氏は証言を当時の課長メモで記憶違いがはっきりしたとして翻した。

もう一人、家族と血縁者の証言で同時間帯のアリバイ有りとされた人といえば、翌日に結婚を控えた5月6日に自殺した奥富玄二さんである。かれは国民学校高等科を卒業して善枝さんが生まれる直前に中田家*に住込みで働きに入り、14歳から2年間あまり作男として働いた。中田家の事情にくわしい。
*玄二さん情報を写真(下掲)を付して詳しく報道した東京タイムズによると作男をした先は元堀兼村長奥富葉之祐さん宅である。情報源は家人と思われる。玄二さんは何回も奉公先を替えたことが知られている。

 奥富玄二さんの評判:真面目 小心 冷や飯の次男

当然自殺は、全国ニュースになったが、6日昼頃一報を聞いた篠田国家公安委員長をして「こんな悪質な犯人はなんとしてでも生きたままフンづかまえてやらねば」といわしめた。
アリバイでは、5月1日のその時間帯玄二さんは父親と兄夫婦と奥富定七さん(父親同士あるいは本人同士が従兄弟)と実家で酒を飲んでいたことになっている。奥富定七さんは玄二さんの結婚祝いを届けに来て酒盛りをしたと云う。定七さんの証言では母親は家にいなかったことになっているのに、母テフさんは玄二さんが3時半すぎに帰って来て7時ごろまで酒をのんでいたと明言している。4時~7時のアリバイが焦点だったからか、それ以降については家人の発言は見当たらない。
もう少し調べないと確言できないが、玄二さんのアリバイについては疑念が深まった。母テフさんが一家のメディア担当のように見える。 父は5日の夜何ゆえに玄二さんの新居に泊ったのか?  玄二さんは早朝抜け出して自宅に帰って農薬を飲んで空井戸に飛び込んで自殺した。その6日の朝一家の柱である兄は何をしていたのか?  母の証言しか見当たらない。

善枝さんの1年後輩の奥村少年が、「澤の自転車屋から百二、三十メートル位、入間川[駅]寄りの畑中で、入間川方面から帰ってくる善枝ちゃんと会いました」という目撃情報を、5日付調書(自宅で父親同席で証言)に残している。沢街道で、とは云っていない。正確には「沢の道地内」で、つまり加佐志街道の「沢の道地内」で出会った、といっている。その時間は不明だが、見に行った野球大会の進行時間を調べれば分かると言っている。
その後捜査本部に呼ばれて3,4時間もベテラン刑事に証言の信憑性と背後関係を糺されてすっかり混乱して、どうもすみませんでした、と謝って捜査本部を出たそうだ。翌日かれは学校に押し寄せた記者に囲まれて質問攻めに合い泣き出した。少年の話は殿岡駿星『狭山事件 50年目の新分析』による。善枝さんの足取り関連のタイムラインは殿岡説がいちばん辻褄が合っている。
その奥富少年は定七さんの子であることを伺わせる後年の記録(番地まで同じ青柳居住)もあるが私はその真偽を追跡していない。
被害者の足取りを調べる上で重要な証言がほかにも複数あるが、警察はろくに調べもしないでスル―した。しっかり調べて野球大会をおこなった時間軸を確定しておればそれぞれの目撃証言が生かされたのにと残念に思う。わたしは、奥富少年を信じて、「女性自身」6月24日号にあった写真をここに掲げる。白服の人は登美恵さん。



翌7日夜捜査本部は玄二さんのアリバイが成立したと発表した。捜査対象は本筋の養豚場関係者に戻った。玄二さんの実家がある青柳と堀兼の在所の人々はひとまずほっとした。
広く知られていることだが狭山で石を投げれば奥富さんに当たると云われるほど由緒ある奥富姓は最大多数であった。葬儀を延ばして家に引きこもる奥富家を、農協関係者が中心になって周りに縄を張って報道陣を締め出した。東京タイムズによると、刑事ですら「なかなか家にいれてもらえなかった」そうだ。
後年野間宏の会見に応じた当時警察庁科警研捜査部長であった渡辺孚法医学者は、農薬自殺の判定には解剖鑑定が必要だが、当時のムラの住民感情が警察に司法解剖を遠慮させたというふうに聞いたことがある、と『法医学のミステリー』に書いている。
あまりにも杜撰なアリバイ調査でシロとされたゆえに玄二さんのアリバイは結果的にグレーになってしまった。彼にたいする疑いは事件が完全に忘れ去られるまで消えないであろう。もちろん黒の証拠が無いのだから玄二さんを犯人視してはならない。また彼の肉親、親戚が彼を庇うようなことがあったとしても非難できない。利己的でない人間は聖人以外いないのだから...。

一方容疑にあがった石川さんのアリバイは家族の証言だからという理由で退けられた。色眼鏡より鋭く突き刺さる偏向眼で見られたのである。


狭山事件/玉石、棍棒、紐と縄のミステリー/完全犯罪ほころぶ

2020-09-05 | 狭山事件

   http://wwwd.pikara.ne.jp/masah/sayamajk.htm

左様、犯人はビニール風呂敷に人頭大の玉石4.65kgをのせたのだ。そして、足に携帯電話のストラップ状に掛けた細引き紐260cmの先と風呂敷の一対角とを結びあわせた。首に投げ縄状に掛けた細引き紐145cmも風呂敷のもう一つの対角と結びあわせるつもりだったが、それは実行されなかった。
もうお分かりだろう。玉石は首と足に風呂敷と細引き紐を使ってつるすはずの重石である。玉石と風呂敷と紐・縄をまとめてその用途・目的を看破したのは、私の記憶では、亀井トムさんに協力した文殊社チームの片桐軍三*さんである。かれは「西武園の池に沈めるぞ]という脅迫状と遺留物とを関連付けることに成功した功労者である。
*記録で確かめることができなかったので勘違いしているかもしれない。
遺留物の状況、その使われ方と使用目的でアピールしたいのは何であろうか。身代金目的の誘拐殺人であってそれ以外の何物でもないという強調、念押しである。
さらに、目隠し、後ろ手繋縛、スカートの破れ、ズロース引き下げ、「強姦」は、その殺人の残虐非道性をこれ見よがしに際立たせるために付け加えられた。
それだけなら遺体も遺留物も武蔵野の名残である雑木林の中に放置すれば足りるではないか。一人ではとうてい運びえない。重くてかさばる死体、玉石、荒縄、棍棒をわざわざ麦畑の狭い農道まで運びだした意味は何か。死体隠匿ではなく死体露見をあえてした意味は何か。上述した犯人がとった異常で過剰な行為はすべてこの「意味」に気付かせないためのカモフラージュ=擬装である。
複雑怪奇な事象は警察、検察、裁判官を悩ました。担当官たちは意味づけできないモノは素通りしながら苦心の末ストーリーを積み重ねて自白書をでっちあげた。その結果、空中楼閣という表現がぴったりの、途中の階がない建築物、土台のない建物が出来上がった。主犯の思惑どおり偽装が成功し犯罪の真相が闇に葬られる筈だった。ところが・・・
農道に掘った箱状の立派な穴(深さ86cm縦166㎝横88㎝)、近くの箱状縦穴(深さ2.7mと奥行のある3本の横穴=貯蔵庫)からなる芋穴、遺留物、死体の有り様に特別の意味があることに亀井トムさんが気付いて独自の事件観で世論に訴え始めた。
亀井トムさんは、犯人が遺体を農道に埋めた行為を露見を予定した隠匿としつつ、埋め穴は埋め墓に、古墳に似た芋穴は拝み墓に擬したものである、という、事件解明の新境地を墓制習俗と郷土誌の知見を用いて切り開いた。

わたしは亀井さんの斬新で衝撃的な両墓制の説に惹かれて亀井さんに会いに行き現地を探訪しながら話を聴いた。ちなみに中田家の墓場も両墓制の一形態で、道路をはさんで家の反対側の畑の一角にあった。そこに石塔を背景にして善枝さんは埋葬(土葬)された。
余談だが、30年ほど前にサッカーの合宿で湖西の朽木村に行ったとき道端近くの雑木林に真新しい土葬(土盛)があった。子供たちにそれを伝えると気味悪がって、その夜の集落の集合墓地(拝み墓)まで行って還る肝試しでは一人として怖がらないものはいなかった。
死体は遺棄ではなく埋葬された、というのが亀井説である。取調官と石川さんがスル―した玉石と棍棒(長さ94cm直径3㎝)は亀井さんによると埋め墓の葬具に相当する。葬具の目的は盛り土の上に置いたり刺したりして野犬や猪が墓を掘り返すのを防ぐことにある。棍棒は先の方3分の1が裂けていて土に刺した痕跡があった。確かに割竹で脅かす「犬弾き」等の細工が各地で知られているが、わたしは盛り土の上に刺した仮の墓標であってもいいと思う。玉石には他に墓の在処を標す目印と拝み石の意味がある。
詣り墓に想定された芋穴に祝い用風呂敷と棍棒が投げ込まれた訳は、といえば、犯人が、埋め墓はやがてステハカとなり、墓と故人につながる土とか卒塔婆*とか故人の遺品とかを「魂の証し」として参り墓に移す、という習俗にしたがった、と考えられる。埋め墓は古い土着の習俗なので千差万様であり、類似の実例探しにこだわるのは時間の無駄であることをわたしは身をもって知った。火葬の普及により1960年代を境にして埋め墓は例外的な存在になった。
*卒塔婆は普通詣り墓にたてる。習俗に正解なし。真逆の例もある。
難問は死体に巻き付けその上に手繰り寄せてあった荒縄である。9本の短い縄を繋ぎ合わせて長い2本に細工してある。それぞれを二つ折りにして束ねると4本の放射状になる。折り返し点で細引き紐と結合していた。この結合により物証の一部となり捜査本部はスルー出来なくなった。考えあぐねて深い芋穴に逆吊りする行為が捻り出された。荒縄の端は近くにあった桑の木の根元に結びつけられた。

http://wwwd.pikara.ne.jp/masah/sayamajk.htm

亀井さんも荒縄はスル―している。両墓制に憑かれたように全国の事例を探し求めた私の出番である。一筋縄ではいかない、という俚諺がある。これは葬送習俗から生まれた。棺桶は一本の縄では運べない。柩に二本掛けたら縄手が四つできて最低2人、普通4人で墓底に下せる。私はこどもながらブラジルで土葬に参列してそれを見たことがある。棺を墓穴に放り込むという手荒な風習は世界のどこにもあるまい。荒縄もまた葬具である。

   出典忘却

遺留物の荒縄の在り様の写真(二葉)もそれを暗示している。無残な現場写真なので章末に掲示した。
荒縄と玉石を誘拐殺人・死体遺棄の道具と見せかけて埋葬の葬具であることに気付かせない謀の巧みさにただただ脱帽するばかりである。

犯人はまた残忍さを強調しながら遺体を実に丁重に扱っている。目隠しをしている。顔の下にビニールを敷いている。臭い消しにお茶の枯れ葉を死体の上に撒いている。亀井さんはこれを犯人の仏心と言い、長子犯人説の一根拠としている。それは父・長子犯人説の理窟もなりうる、とわたしは思う。長子の言動は疑うに足ると思うが犯人と決めつける証拠はない。

以上で不可解な遺留物と死体の異常な在り様の意味が解明された。死体は埋蔵されたのではなく埋葬されたのだ。警察、検察、判事は騙せたが、亀井さんに見破られた。
さらに、亀井説によれば、真犯人の思惑通り、現場を一見してすべてを悟った人がいた。遺体埋蔵は16年前の意趣返しである。16歳の誕生日に「柩」に入れて送り返すとは、実の父に対する想像を絶する非道な御返しである。亀井説は筋が通っていて説得力があるが真実であるという証拠はない。
私は亀井さんからじかにその人が被害者の実の父である「証拠」を聞いた。顔のあるパーツにその証拠がある、と言われた。私は聞き流したがその一言を忘れたことはない。亀井さんはそれが何であるか、またその人の実名を文書で表現していない。正解だと思う。事件の周辺に居る一般人を推理だけで渦中に引っ張り出して晒すのは大それた人権侵害である。「疑わしきは罰せず」の法諺以前の問題である。

参考 写真1 死体に巻きつけられた荒縄 写真2  農業用ビニールと荷札


狭山事件/祝い用ビニール風呂敷のミステリィ/数多のストーリーの源

2020-08-20 | 狭山事件

学生時代社学同の同志として活動しそのご袂を分かった K君が教師Hさんと結婚して市内に住んでいたので1972年の正月に彼の家を訪問した。彼は高校教師をしながら部落解放運動の活動(夜学)で多忙を極めていたので多分もはや中核派ではなかったと思う。
わたしは自著『十月革命への挽歌』を書き終えて狭山事件の真相究明に夢中になっていたので、その縁で旧友を訪ねたのであった。話し込んでいるところへ、私の将来の伴侶となるハチキン(活発なおてんばの意)が故郷の手土産を持って年賀のあいさつに来た。富田小学校の同僚であったK君の伴侶Hさんを訪ねて来たのだった。初対面の印象はハキハキと自己主張する行動的な女性だった。
それからしばらくして、石川さんの犯行を自供に沿って再現する実験をするために人集めをHさんに頼んだ。5人ほど青年部の男女がアパートに来てくれた。善枝さんを後ろ手に手拭いで縛って首を絞めながらズロースをひざまで下ろしつつ強姦・殺害できるかの再現実験だった。赤いトレーニングウエアのハチキンが善枝さん役だった。石川さん役はなかった。いわゆる絡みの実演もなかったが、みなの結論は「考えられない」だった。鑑定した五十嵐県警Dr.も公判で問われて「困難」と答えている。
その後、私は単独で狭山を訪れ堀兼の雑貨店でお祝い用の白いビニール風呂敷を探しあてた。宝船の帆に寿の赤い文字が大書されていた。裁判で用途をめぐって論争されたものと同定できる風呂敷である。
10枚ほど買って、しかるべき所に数枚届けて喜ばれた。そこで、証拠開示された解剖前の死体写真の束を見せられた。既婚者かと訊かれた覚えがあるので結婚直後の事であることが分かる。
映像は六切のカラー写真だった。遺体は解剖前の裸体で、きれいに洗浄してあった。65~70時間(推定)経てば相当に傷むと思えるがそんな印象は受けなかった。遺体は発見時のむごたらしい映像との対比からは想像できないほどきれいで殺人以上の極悪性を感じられなかった。もちろん首に皮下出血が見えたが体に抵抗の痕跡が見えないのである。後頭部に二針縫うほどの痕跡約1.3cmがあった。
女性の大事な扉にいたっては荒らされた感じがなく、生死の区別がつく蒼白色ではなかったように想う。それとなく在った膜に小さなV字切れ込みが三つほどあったが警察鑑定どおり「陳旧性亀裂三条」を呈していて何かを物語る印象ではなかった。
参考  腐敗に関するCasper の法則:地上に比べて水中では2分の1の速度で地中では8分の1の速度で進行する。
もとより素人の半世紀近く前の印象である。自信をもって言えるのは、首を絞められて死亡した死因、窒息死だけである。扼殺(警察医鑑定)か幅の広い物による絞殺(弁護側鑑定)かは私の認識力では分からない。
自白と一審判決では死体を逆さづりにして近くの芋穴に隠したとあるが、足首に縄目の跡がなく、頭部に死斑、凝血塊(もしくは穴底に血痕)がなく、鑑定した五十嵐県警Dr.も「考えられない」と証言した荒唐無稽の作文である。現場の遺留品の意味がわからず取調官と石川さんが苦心して練り上げた(もちろん取調官が主導して)フィクションである。
芋[貯蔵]穴から発見されたビニール風呂敷が用途不明のため数多の憶測を生む素となった。遺体と共に掘り出された意味不明の玉石、荒縄、棍棒も同様である。
玉石は頭の右側上方に在った。
ビニールの切れ端は、芋穴の風呂敷の切り取られた角と一致する。見過ごすことのできない物証である。当然、犯行の一階梯にどう関わっているか説明を求められる。
自白は二転三転するが最終的には検事に対して「最初はビニールの風呂敷を引きしぼって縄のように丸め、それで善枝ちゃんの足首を縛りビニールの端を麻縄に結びましたが、一寸引っぱったらビニールが切れたのでやりなおします」と自白したことになっている。
これで風呂敷は検察にとって用済みになったが、亀井トムさんが地域の土葬風習に着目してそれを真犯人追究のよりどころとした。弁護団も高裁判決までは亀井説に沿って弁論を展開した。
さて対象のビニール風呂敷が「一寸引っぱった」ぐらいで切れるかどうかは、じっさいに実験したらすぐ分かる。私の実験では両腕の力では破断できなかった。その後京大工学部大学院のグループが電子顕微鏡を使って断面を観察したという記事を見た記憶があるが内容をすっかり忘れてしまって残念である。
引っ張り強度を強めるとビニールが伸びて薄くなりついに破断に至る。ただし堤防決壊と同じで一箇所が切れたら二つ目はない。このケースでは揃ってきれているところから見ると、切れたのではなく切った、切断したと考えられる。
次回犯人のこの一見不可解な行動の真の目的について考える。
資料 当時私が入手した写真

 ビニール風呂敷

 細引き縄と結合
 スコップと手ぬぐい

結婚 どう生きていくか目途がついて結婚を考えはじめていたのでハチキンに近づいた。読書が好きだというので石光真清の手記4部作を貸した。これほど読者を夢中にさせる長編はないだろう。おかげで話題が弾み一気にソーシアル・ディスタンスが縮まった。
サッカーの少年たちに紹介すると、間髪を入れず「激しい顔の女」とつぶやかれた。子供の直観と表現にはいつも感心させられる。
1972年の秋、京都四条賀茂川河畔にある東華菜館で披露宴を催した。「仲人役」の井ノ山さんが「母さんの歌」を唄って二組の両親の涙を誘った。
これで私は、一人息子に託した出世の夢をつぶされて「高い山から深い谷底に落とされた」とつぶやくように言ったことがある父親に幾分か親不孝のつぐないができたと思う。母親には105歳近くまで実の親同様に接してくれることになる嫁をプレゼントすることができた。この表現は不適切であるが他の言い方が浮かばない。ふたりは嫁姑的ではなく人格的関係で結ばれていた。
私は彼女と結婚しなかったら、うわすべりの人権感覚のままだったことだろう。人は生まれただけで尊い存在である、これが彼女の生き方の根底にある思想である。それは当時同和教育*に熱心に携わった教師たちが共有した思想であったと私は感じている。
*高校全入運動が叫ばれる一方で部落の高校進学率は20%に満たなかった。越境入学で高校間の学力差が社会問題になった。解放同盟は行政と教育の責任を激しく追及した。教師たちはいやおうなく人権思想の深化を迫られた。

 


狭山事件/万年筆が捏造の物証になった/三つの家族のエピソード

2020-07-21 | 狭山事件

5月23日別件逮捕、家宅捜索
6月17日釈放、すぐ殺人容疑で逮捕、18日家宅捜索
6月23日「三人共犯」自供、26日家宅捜索・万年筆発見 

1963年6月26日毎日新聞朝刊に「逮捕一週間前に会った石川」会見記が記者2名の名入りで掲載された。会見は5月15日の夜のことである。仕事帰りの石川さん宅にあがって石川さん、兄六造さん、父富蔵さんとテーブルを囲んで約1時間雑談した。いろいろ事件のことで水を向けたが特に変わったことは聞き出せなかった。
「私たちが帰るさい、石川はワザワザ玄関まで立ってきて≪どうもご苦労さん≫とカモイに手をかけていったとき、影になった彼の顔はすごく陰うつに見え、1m67~8cmの背丈のある彼から、背筋がゾーッとするほど冷酷なものを感じた」 
私がこの記事を掲載したのは、事件の最重要物証である万年筆の発見場所とされたカモイの場所と高さを示すためである。この件の「カモイ」は引き戸の上枠を指す。粗末な石川さんの家は、現代の家と違って、鴨居に手をかけて外に身を乗り出して声をかけることができた。ちなみにわたしの家は築23年だが、玄関の鴨居は背伸びしても届かないが、勝手口の鴨居はその上を手でかろうじて探れる高さである。
警察は逮捕まで二度家宅捜査をそれぞれ12名、14名で2時間以上かけてやったが何一つ証拠になるものを発見できなかった。裁判官は現場検証をしないで、一審判決では低くて「もし手を伸ばして探せば簡単に発見し得るところである」からかえって見落としたと云い、控訴審判決では背の低い人には高くて見えなかったという。誰しもこんな世間知に欠けるエリートに裁かれて冤罪で処刑されるのは御免だろう。
3度目の家宅捜索(たった15分の3名による家庭訪問)で勝手口の鴨居の上(床から176cm)から万年筆がみつかった。兄石造さんは捜査員から手渡された石川さんが描いた稚拙な図面(お勝手に同居する風呂場と文字「をかてのいりぐち」のみ記載)にしたがって勝手口の鴨居を見るとピンク系の万年筆があった。警部に促されて素手で万年筆をとった。これで捜査本部はその万年筆に喜枝さんの指紋も石川さんの指紋もついてないことを知っていたと疑われている。
石川家は、一雄さんたち地区の若者が少年野球チームの指導で世話になった近くに住む関巡査部長を疑った。川越署移送後も着替え下着等の受け渡しにたびたび石川家に来ていたからである。関部長は取り調べ室では石川さんの唯一の味方役を演じ最初の自白(3人共犯)を引き出した。また重大物証である自転車のゴム紐とカバンの「発見」に始終かかわった。


1970年の現地検証時に撮影 万年筆が在った鴨居
1992年元警察官の証言 
「後になって鴨居のところから万年筆が発見されたといわれまったくびっくりしました。発見された所は私が間違いなく捜して何もなかった所です」[責任者をふくめて証言者は7名いる]

このころ、私と知り合う前のパートナーが地区子供会を引率して上記現場を訪れている。石川さんの富蔵・リイご両親の表情をなくして沈みこんだ姿と何もしゃべらないことに、教師も子供たちも強烈なショックを受けた、という。「石川さんを返せ」と燃えている意識の高い行動的集団と対等に語るコトバを、ご両親はまだ獲得していなかったのであろう。
マルクスの歴史的評価を左右する「経済決定論」では貧困が向上心の程度を決定する。当時の石川家はその典型であった。石川さんは手ぶらで学校に行ったという。高学年になるほど出席が少なくなり、6年の出席は78日、成績は5段階評価でオール1、IQは平均値100であった。家計を助けるため仕事はしたがいっぱしの不良にもなった。
貧困の環境でも親の意識が高いと子供もシャンとなる例がいくらでもある。本人は憶えていないと想うが、狭山事件の現主任弁護士中山武敏さんは私が中学生の時小学生だった。目がくりくりと輝いていた利発な子だった。夜学で勉学し弁護士になった。その兄はわたしと同級でたがいに一目をおいていて仲がよかった。勉強ができ発言が明確だったからクラスの中で尊敬され指導格だった。
父親の影響であろう。お父さんは町長の不正事件を訴えてハンガーストライキを決行し、町民大会にこぎつけた。その後選挙で町長になった。私は父親に連れられてその大会の熱気にふれたことを憶えている。
中山兄弟のお母さんはリヤカーを曳いて廃品回収をしていた。よく我が家の縁側でわたしの親と歓談していた。何か買ったり売ったりした場面はみたことがない。わたしの父はあとで後ろ指をさす差別心理があったが、母が人を選ばない、誰とでもつきあう質だったので立ち寄りやすかったのであろう。
人間は国籍・人種を問わず貧しい人ほどひとを疑いひとを信頼する。その美徳は、恩義に厚く情に熱いことである。石川一雄さんはそれゆえに嵌ったと思う。石川さんは公判廷での無実宣言後もしばらく関巡査を信頼し続けた。

さて、押収された万年筆は被害者が当日も使用していた万年筆であろうか。被害者の所有物と証明されたならば、万年筆は石川さん有罪を決定づける物証となる。その逆であれば、公権力(県レベル以下の警察と検察)が冤罪をフレイムアップした証明になる。
被害者の兄は妹に買ってやって自分も時折借りて使ったものだと証言した。その際書き味*で確かめるために押収万年筆で書いたアラビア数字の羅列が同一物を否定する反証となった。
*「ペン先のかたさですね、そういったもの間違いなく善枝のものです」
押収された万年筆のインクはブルーブラック、善枝さんの日記帳、ぺん習字浄書の文字はライトブルーだったが、高裁は善枝さんが途中でブルーブラックのインクを注ぎ足す機会があったと推定して、実証せず、強引に無期懲役(死刑から減刑)に処した。最高裁は上告を退けた。
ところが第三次再審請求で証拠開示がすすんで科学的鑑定*が実施されると、善枝さんのインク壺インクと事件当日善枝さんが書いたペン習字からクロム元素が検出され、押収された万年筆で書かれた数字(兄の調書)からはクロムが検出されなかった。数字からは鉄分が検出された。補充可能性があったとされた善枝さん友人のインクと立ち寄り先郵便局のインクからもクロムではなく鉄分が検出された。
*「弁護団はインクで書かれた文字を分析したらどうなるかと考え、絵画や文化財などの顔料や資料を蛍光X線分析している下山進・吉備国際大学名誉教授に鑑定を依頼。検察庁へ閲覧手続きを申請し、検察庁へ蛍光X線分析装置を持ち込み保管されている証拠品」を分析した。
出典「えん罪 狭山事件」 https://sayama-jiken.jimdofree.com/

万年筆は被害者のものではなく、捏造された物証であることが科学的に証明された。2年経ったが現在のところ検察は、推測と可能性に始終する反論はしたが、反証の鑑定をできていない。 

狭山事件/脅迫状筆跡「時」の鑑定で浮かび上がった犯人像

2020-07-01 | 狭山事件

 左が真 中が偽 右が石川さんの時もどき 


わたしがブログで取り上げた事件はわたしが何らかの関わりをもった事件ばかりである。安保には教養部自治会役員として没頭したし、三池、水俣、三里塚には何度か足を運んだ。狭山も同様である。
狭山事件にかかわった経緯から始めよう。
私が少年サッカーの指導に有望な立地として選んだ学区がたまたま同和地区だった。同和教育指定校の校庭で職員室からもれる薄明かりに助けられて、塾の後に二組に分かれてボールを蹴った。おっちゃん、よせて、と地区の小中学生も加わった。わたしは教組青年部の教師たちの眼に「変な大人」がしょっちゅうボール遊びをしている、と映ったにちがいない。その中に3年後パートナーになる女性がいた。
当時、戦前からの水平社運動の流れをくむ部落解放運動がようやく政府と自治体を動かし、1969年に成立した同和立法を受けて、同和地区の生活環境改善と同和教育が燎原の火のように全国に広がっていった。それに油を注いだのが狭山事件の部落に対する集中見込み捜査と荒唐無稽の自白に基づいた死刑判決であった。
富田小学校は運動の渦中にあった。解放同盟大阪府連が呼びかけた「石川青年を返せ」の集会とデモがあり、同校の青年教師が地区の子供会と大人の識字学級を支援した。
大学時代部落研に関心がなかったわたしであったが、いつしか解放同盟発行の事件関連本と新聞で研究するようになり、三里塚に行ったのと同じ70,71年頃狭山に行った。案内者は情況社の三里塚の場合と同じ編集者だった。
地方紙『週刊埼玉』を営んでいた亀井トム氏と市職員の案内で、上赤坂の被害者宅と同じ並びに在る篤農家を訪ねて入植以来のムラの出来事、習わし等を訊いた。亀井トムさんは最初の本格的調査研究者で解放同盟による裁判批判の初期の筋書きに民俗学的影響を与えた。
『週刊埼玉』をとおして亀井トムさんとは10年間ほどコンタクトがあったが、すでに故人である。プライバシーの関係で彼が公表しなかった「証拠」話もふくめて、もっと詳しい話はおいおい織り込むつもりだ。
犯人追究の視点で思いつくまま献立を考えるが、アイテム間には時系列的あるいは論理的関連はない。

今回は、犯人の脅迫状と石川さんの上申書2通を比べて筆跡を鑑定する。

5月23日逮捕直後に書かされた上申書

出典   殿岡駿星『狭山事件50年目の心理分析』2012年

5月1日に届いた脅迫状 揺るぎない唯一の物証

wwwd.pikara.ne.jp/masah/symj009.htm 
上記、石川さんが逮捕された5月23日に筆跡を比べるために書かされた上申書と犯人が書いた脅迫状とをくらべると、検察がそれまで47年間開示しなかった理由が判然とする。
犯人の脅迫状は無知を装っているが筆者が事務で文書を書き慣れていることがバレている。
一方、石川さんは文章を書く知識がまるでなかったことがわかる。まちがいだらけ。普段必要とされる住所氏名は何とか書けたが番地二九08と名前一夫(正しくは一雄)は不正確。上申書の「書」、入間市の「間」、12時の「時」のように 画数が多いと見本をみて書いても奇怪な形になる。24才は書けたが、金20万円は、かね20まいん、きんに10まんいと2回とも間違った。日付5月23日は五月2  ❙3にちと書いた。上記の「に10」を引きずった「に13」の反映である。
7行の本文が句読点も段落もなくお経のように切れ目なくワン・センテンスになっている。行間はまちまちだが各行は直線並行でなく乱れて右下がりになっている。
本文で使用された漢字は五月二日12🈑と女の6文字のみ。🈑は時のつもりだが晴に似た時もどきである。これだけで石川さんは「時」を書けなかったとみてよい。

捜査本部が逮捕の根拠にした石川さんの時もどきは逮捕前のアリバイ書に綴られた三字である。

5月21日逮捕2日前のアリバイ上申書
wwwd.pikara.ne.jp/masah/symj009.htm 
捜査本部は、前々日5月21日に石川さん宅にてこの上申書を書かせて、すぐさま筆跡について科捜研の見解(鑑定が出たのは6月)を訊いた。そしてクロ説にもとづいて23日に逮捕した。決め手としたのが「時」の字である。左が脅迫状、右が上申書の時もどきである。

これを報じた東京新聞26日号は、違うともらしている科捜研の技官もいるというから、「よほどの特徴が無い限り絶対のキメ手とはいえず」とコメントしている。

これまで検察側、弁護側が比較鑑定して筆者の同一性を争った文字「時」は上記の二つのもどきタイプだけであったが、今では第三のタイプ(正しい字)が浮上している。

筆跡印影指紋柳田研究所の工学博士・柳田律夫鑑定人は、長年の日本刀銘鑑定でつちかった技に、最新のデジタル科学技術をプラスした鑑定法によって、脅迫状冒頭(左上)のカラスの巣状に抹消された箇所を解析し、消えていた「少時」の時の文字を鮮明に可視化した。

掻き消し痕跡調整写真  

第三次再審請求の為の柳田鑑定書から   www.kantei110.com/case.html

一目瞭然、この草書体の時こそ石川無罪を証明し真犯人の真の姿を映し出す物証である。[END]


上記の筆跡鑑定に関する一文に同意される方にお願いします。
前任者の退官を受けて着任した
大野裁判長に、脅迫状に浮上した偽りなき一字


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