自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

総力戦=国家総動員体制づくり始動/軍国復活へ

2017-10-25 | 体験>知識
一次大戦の惨禍は、国際的に非戦と軍縮の気運を醸し出し、平和維持を目的とする国際連盟を作り出す一方で、列強の軍部に総力戦対策強化を促した。日本でも将来の総力戦を不可避と考える軍部を代表して宇垣一成がその任にあたった。本稿では軍縮を逆手にとって予備兵力増と武器近代化を推進した陸軍の軍政と軍国復活の道程を考察する。
『宇垣日記』1954年 朝日新聞社
第一次世界大戦では、空に飛行機、陸にタンク、海に潜水艦、地上に重機関銃砲、毒ガス等の近代兵器が出現するとともに国民皆兵と国家総動員が普通の事になった。
震災後、軍縮という外交課題と軍備近代化という軍政上の課題を同時解決する(ピッタリはまる昨今の流行語でいえばアウフヘーベン止揚する)使命を帯びて登場したのが宇垣一成陸相である。宇垣は軍縮で浮いた費用で軍備近代化を図り、退役将校、在郷軍人を活用して青年軍事教育の普及浸透を実行した。現役将校と旧式兵器で高等教育に軍事教練を導入したことについては前稿で述べたとおりである。

1926年、勅令により青年訓練所が設置された。 中等以上の学校に進学しないで実業補習学校で学び卒業した16歳から20歳までの男子勤労青年が対象で、その心身を訓練し、国体観念を習得させ、臣民としての資質を向上させて有事の際の予備兵力化することが目的であった。費用のかかる常設師団数を削減してもなお有事に即兵員を補給できる新体制を目指したのである。青年訓練所はのちに1935年実業補習学校と合体し年齢下限を12歳、小学校卒業時とし名称を青年学校に改めた。
訓練は4年間に、修身および公民科100時間、軍事教練400時間、普通科200時間、職業科100時間、あわせて800時間で修了とした。軍人上がりの教員と在郷軍人が教官役をつとめた。
月2回ほどの通所は義務だったが多少体が不自由な参加免除の若者も無理して通ったという。卒業しないとムラで一人前とみなされず嫁をもらえないからである。青年は何の疑問もなく軍事訓練を受け入れた。月2回ほどの訓練日は仕事を堂々と休めて同年代間で軍歌を歌ったり語らったりする楽しみがあったからである。この年齢幅の青年はムラの青年団に所属し修養、奉仕活動に従事するのが普通だった。
「軍人勅諭を憶えないと上等兵になれないぞ」と教官に肩を叩かれることはあっても殴られることはなかった。今の青少年がプロスポーツのユニフォームにあこがれをもつように青年たちは教官の軍装に憧れた。無事修了すると兵役6カ月短縮の特典があった。初年度だけでも全国でざっと15,000校が開校され、百万人が訓練を受けた。
この兵式訓練は今日の学校の行事、規律の中に色濃く残っている。私が日本の学校に上がった際最初に覚えたのは、キヲツケ- ナオレ- マエヘナレ- であった。いまだにナレーなのかナラエーなのか自問している。 

これだけの大事業がわずかな反対運動(下伊那郡青年会)だけで無難に扶植された。下伊那の反対運動は同郡政治研究会(都会から来たオルグ)が組織したものであろう。大正デモクラシーは都市中心のファッションに過ぎなかったのだろうか。これまで言及して来た社会運動は意識の高い労働者をふくむ都市知識層の跳ね上がりに過ぎなかったのか、あまりにも地方に浸透してないことに驚く。
軍縮の衝に当たった宇垣陸相は、人員整理される2000の先輩同輩後輩に恨まれたが「建軍以降の大問題たりし軍備の整理も多少の論難」ですみ「兵式訓練問題の如きは一波瀾を惹起すべき可能性」があったが無難に貴衆両院を通過した、と時系列の随想録上掲『日記』で苦衷と安堵をもらした。
極端主義からのクレームにも言及している。「聞けば右傾派と目されて居た縦横倶楽部の一団が今次の人事の取扱ひを不適当なりとして当局に迫ると云うて居るとの事、それが後には石光[中将]や福田[大将]、山梨氏[大将]もありとも伝へて居る」 かれら3人は「整理」され予備役編入となった。
宇垣陸相は、軍縮を実行したのは民意に先んじて応じることによって軍民融和を実現するためだった、総力戦を覚悟しなければならない有事に対応するには国民に愛される軍隊に再度もってゆくしかない、と事あるごとに強調した。
ではその隙間風が吹いている軍民関係に立ち戻ってみよう。

日露戦争後日本政府は戦費のツケと軍事費の増大に、民衆は慢性的な不況と税負担に苦しんでいた。そんな中、海軍が戦艦建造費を、陸軍が2個師団増設を要求して内閣をゆさぶった。海軍には薩摩の山本権兵衛閥が、陸軍には長州の山県元老閥が中心にいた。山県元老の下に田中軍務局長‐宇垣軍事課長がいて上原陸相を支持していた。師団増設を否決されると知った上原陸相は帷幄上奏特権[後述]を行使して直接天皇に辞表を出した。「陸軍のストライキ」によって西園寺内閣は退陣を余儀なくされた。両軍備拡張案を延期しようとした桂新内閣では斉藤海相がストライキを起こした。陸海軍と閥族のゴリ押し横暴に閥族政治根絶、憲政擁護を叫ぶ政治運動が燃え上がった。群衆が国会を包囲し軍隊が出動した。
世界大戦をはさんで次の原敬の時代は社会運動(労働、農民、、女性)が盛んになった。その共通要求が普通選挙だった。普通選挙実施となれば軍部に対する議会の牽制がさらに強まることを軍部は危惧した。同時期に田中陸相が深くかかわった大義なきシベリア出兵があり軍の威信は失墜した。

こうした背景の中、宇垣一成は田中陸相の引きで陸軍次官になり次いで3代の内閣で陸相をつとめ、陸軍の論理をやわらげ陸軍の要求を政党政治と民意になじませようとした。
山県、桂、寺内、田中と長州閥は続いたが大正デモクラシーの波濤に立ち向かい、それを乗り切ったのは田中義一である。元老山県が元気なうちは軍事と政事両方を閣外に居ても牛耳ることができたが、力が衰えた晩年には山梨、上原両将軍の硬派閥がそれぞれ陸軍の立場をさらに悪くした。
田中義一は大正デモクラシーの上げ潮に押し上げられた政党政治に自らも身を投じ国難を演出しつつ
力戦体制構築に奔走した。

 纐纈 厚田中義一 総力戦国家の先導者』 2009年 
田中は世界大戦前の1910年陸軍軍事課長として散在していた一万有余の在郷軍人会を糾合して帝国在郷軍人会(陸軍大臣所管)を組織した。総力戦が常識になる世界大戦前である。日露戦争における殲滅戦からヒントを得て後備軍の重要性にいち早く気付いたのであろう。

大戦後の仮想戦争は、陸軍は対米、対ソ、対華戦争だった。海軍は対米戦争だった。対米戦争の場合、国力差を考慮すれば短期決戦しかなかった。海軍は大陸戦、長期戦に消極的で国家総動員構想に積極的でなかった。
陸軍は仮想敵があいまいなまま田中義一を先導者として長期戦、消耗戦、総力戦を覚悟して国家総動員体制構築に向かって第一歩を踏み出した。
田中陸相の総力戦構想では「軍隊という国民の学校」を卒業した在郷軍人は有事の際に師団を支援する後備兵に位置付けられた。平時は地域社会における忠君愛国、勤倹力行の模範と社会主義を抑えるための「思想善導」の役割を期待された。在郷軍人は震災時の朝鮮人狩りで歴史に汚点を残したが米騒動、川崎・三菱造船所争議では軍服に着替えて下積み側に参加して世間を驚かせた。在郷軍人は一枚岩ではなかった。

これまで「軍隊の国民化、国民の軍隊化」「良兵は良民であり、良民は良兵になる」の信念のもとに宇垣、田中両大将が青年教練と在郷軍人活動に情熱を注いできたことを観て来た。
1925年、田中義一は国家総動員体制構築をさらに前進させるために在郷軍人票300万を手土産に政友会入りしその総裁におさまった。
[註]そのとき軍資金300万円を陸軍機密費から流用した、とスキャンダルになりかけたがもみ消した。平沼司法閥が盤石であるかぎりは体制側の巨悪は隠蔽されてしまうが、田中のケースでは真相は藪の中である。ロマノフ王朝の金塊がシベリア戦争で日本軍に渡ったが今日まで行方不明である。
総力戦対策は忠君愛国に燃えた学徒、勤労青年、在郷軍人を予備兵、後備兵としてプールするだけでは全然足りない。誰でも思いつくのは生産力の底上げと国家による経済統制である。田中義一は政友会総裁として当然のことながら「産業立国」を標榜したがまだ具体性にとぼしく宇垣陸相に「付焼刃」のご託宣と揶揄された。
1927年4月、田中内閣が誕生した。その年ソ連が統制経済に移行を始め、1928年10月、経済5か年計画を発動した。田中内閣が1929年7月に退陣しなければ田中総理も必然的に統制経済移行策を考えたと推論できる。それが総動員すべき国力の土台であるからである。宇垣も田中も「武力決戦を主とすべきも経済戦」を総力戦の核心にすえていたが、統制経済課題が俎上にのぼる前に両名の政治生命が尽きてしまった。
統制経済の実施は真の国難、1937年の日中戦争勃発までまたねばならなかった。1938年国家総動員法が成立し、議会の審議を経ずに、そのつど勅令で、あらゆる「人的物的資源を統制運用」できるようになった。まるでヒットラー独裁に道をひらいたナチス・ドイツの「全権委任法」をまねたみたいだ。
極めつけは対米戦争1年前に成立した大政翼賛会である。最後にそれについて考えてみよう。
究極の大問題、政党内閣制と議会は総力戦体制ではどう位置づけられるのか?平時の現状では内閣が軍政をコントロールする仕組みになっていて軍部が特権をもってそれに抵抗する形になっていた。つまり軍部大臣現役武官制によって軍部が大臣を出せぬとごねると内閣がつぶれる、組閣もできない。また帷幄上奏権により軍機・軍令に関して参謀総長(陸軍)軍令総長(海軍)陸海軍大臣等は閣議を経ずに直接天皇に上奏できた。議会制民主主義の今日から見ると、これにこそ国難の相があらわれていると思うが、宇垣陸相、田中総理は政党内閣と議会の在り方のほうに国難を観ていた。
政党内閣制では階級、階層の利害の対立を反映して政党、党派間の対立が必至であり、野党の存在は必要条件、前提である。ちなみに政党の語源part‐は分立、分けるである。国論の分裂と政争、これこそ総力戦国家構想が克服すべき最大の課題である。宇垣陸相、田中総理は国家総動員体制下では政党の居場所はないと認識していて、大政翼賛会という具体的大目標こそ掲げていないが万世一系の天皇の下の挙国一致を総力戦体制の究極の姿と考えていた。宇垣日記からそのさわりの部分を抜き出して総括とする。
「政党政治が憲政の常道たるべき観ある」が政党の本質からして政党首班は「挙国一致協心戮力の中枢にありて指導的役目には適当せぬ」「余は此の見地よりして平時は兎に角、有事の日に於ては陸軍が是非至尊輔翼の中枢として働かねばならないと数年来深く感得して居る所である」「二十余万の現役軍人、
三百余万の在郷軍人、五六十万の中上級の学生、84余万の青少年[田中が組織化をプッシュした大日本連合青年団]に接触する陸軍にして始めて此の仕事を遂行し得べき適性が存在する」
1940年末、日中戦争の長期化、国際的孤立化の国難の下、全政党が解散させられ,大政翼賛会に再編された。太平洋戦争開戦により1942年には
町内会や部落会、隣組までが大政翼賛会の末端組織と結びつけられ、諸産業、労働組合、文学、婦人会、青少年団、言論の「報国会」が傘下に入り、国民すべてが上から下まで余すところなく戦時体制に組み込まれた。