自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

大村智教授ノーベル賞受賞/教育目標「人のために」

2015-10-16 | 体験>知識

教師志望の普通の人が、手に付いた油が抜けない夜間勤労学生の勉強振りをみて発奮、
志望を微生物研究にかえて病魔から無数の人を救い、ついには最高の栄誉に輝いた。
その動機に「面倒をみてくれていた祖母からいつも繰り返し、人のためになることを考えな
さい」と言われていたことがある、と本人が振り返っている。
人のために! 昔の人の言葉なのになんと新鮮に響くことか。
教養の狭さ、浅さが、先の大戦を招き*、今また戦争法を生んだ、と論じてきた続きとして、
教養の目標について考えたい。
*反自由主義、国粋主義が色濃い陸軍の一貫教育校、幼年学校、仕官学校、陸軍大学
   は、海軍の予科練、海軍大学とともに、学費無料で旧制高校、帝大を上回る超エリート
   校だった。戦争責任を問う識者の間では怨嗟の声が高い。

中央集権国家を創ったばかりの明治の教育目標は「国のため」 であった。
そのため教育は富国強兵に邁進する政治・行政・法曹と軍事、実業のスキル習得に凝縮
された。
エリート教育についていえば、法科と科学技術優位の教育だった。
成績さえ良ければ身分に関係なく誰でも出世できるので、出世主義が蔓延し、政治家、職
業軍人をふくめて官僚は民衆を見下し、庶民の生活と命を左右し、さながら法匪となった。
官尊民卑の目線は右上がりに上昇したあと敗戦後一時下がったが近年またひどくなった。

封建時代の教育目標は「志ある人間完成」 であった。
志とは士の心つまり武士道。
武士道の究極の姿は主君のために死ぬ忠君である。
維新時、 列強の脅威が迫ったとき、藩を国に、主君を天皇におきかえて、天皇を元首と
する中央集権官僚体制を築いた。
忠君は愛国、天皇崇拝となり、武士は国士となったが、本物のサムライは少なかった 。
すぐ名があがるのは私心の無い西郷隆盛、勝海舟  坂本龍馬であろう。
武士でなかった民衆の中の指導層の教養目標もまた「志のある人間完成」であった。
民衆の中から安藤昌益(農本思想)、 田中正造(足尾鉱毒事件 公害闘争のパイオニア) 
幸徳秋水(日露戦争 反戦運動の祖)、北里柴三郎(血清療法 予防医学)、宮沢賢治(世
界全体幸福)等が出た。
民衆の偉人は無数にいるがいつの世にも草莽に埋もれていてまれにしか世に出ない。

現憲法ができたころ役人は公僕であるとよくいわれていた。
いまでは死語となっている。
毛沢東が発動した反実権派人民大衆運動=文化大革命までは、中国共産党員は「人民
のために」を標語にしていた。
だから当時わたしは自分の無知で文革にシンパシーを抱いていた。
さらに告白するがわたしは「人のため」という博愛的目標をもったことがない。
生まれも育ちも自己中心なのだ。

 

 

 


戦争法を眠らせる法/憲法研究

2015-10-04 | 体験>知識

安倍晋三が信介、晋太郎の墓に悲願達成の報告をし、あらたに改憲の大願を祈願した。
改憲は岸信介の大願でもあった。
岸は首相退任後もその信念は揺らぐことがなく、経済一辺倒に舵を切った池田、佐藤両内閣に不満をつのらせ、改憲運動に努めた。
京大ブントもそれへの対応を迫られ、わたしが「憲法研究会」の責任者になった。

まず、戦後在野の「憲法研究会」を代表して「憲法草案要綱」を起草して新憲法GHQ案に骨子的示唆をあたえた先輩・鈴木安蔵の著作をもとに学習会をもった。
鈴木は1926年に治安維持法違反第1号「京都学連事件」で検挙され在野で憲法を研究していた。
かれは起草にあたって明治憲法成立前の私擬憲法20余を参考にした。
その内の一つ植木枝盛の名を聞けば受験で習ったと思い当たるのでは?
映画「日本の青空」(2007年)は鈴木の生涯を題材にしている。

ついでわたしはワイマール憲法の内容とその骨抜きの経緯を研究した。
ナチスドイス研究者・山口定先生を立命館に訪ね話を聞き、招いて講演をしてもらった。
この間学んだことを列挙すると・・・
1.インフレ、恐慌に苦しむ国民は、不況から脱出のために強権と変革を求める。
2.苦難の原因を他人種、隣国に帰し、攻撃し戦争も辞さない。
3.憲法は不磨の大典でなく、国権と民権の力関係によって解釈される。力関係のバランス次第で生かされもし眠らされもする。

したがって、国民が経済成長ボケになって政治に無関心になっていると、代議制民主主義に基づいて憲法が解釈され、骨抜きにされる。国民は高い代償を支払わされる。今回の戦争法成立は、だまし討ち、不意打ち、顔見知りのコンパ主宰者によるレイプみたいな違法行為である。
合意なき行為につき民衆の根深い憤激、遺恨をまねいた。
そのため民意のバネがはたらいた。
力のバランスが民権側に傾き力関係が正常化した。戦争法が適用しにくくなった。
先例がある。破壊活動防止法(1952)である。戦争法発動の動きに対してそのつどカウンターパンチで反撃するのが草の根民主主義である。
国権と民権、どちらにも一理ある。
その狭間で迷って当然。バランサーの左の皿に多数が乗れば憲法が生きる。