自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

満洲事変/戦時と泥沼へ

2018-01-27 | 体験>知識

微力ながらシベリア戦争、大正デモクラシーから研究を始めたことにより昭和の戦争への傾斜と道程が見えやすくなった。田中戦傾内閣は内政では治安維持法により共産党封じ込めに成功した。外交では関連機関の東方会議で満蒙経略の大綱(不干渉政策を棄て対米戦争まで覚悟した)を決定し、その個別の獲得目標を記録した満蒙における積極政策」を偽書「田中上奏文」に見せかけることに成功して具体的な実行目標を隠した。

1928年の張作霖爆殺事件は関東軍高級参謀が起こした暴発事件であったが、当の河本大佐が後日語ったとおり、東方会義で決まった積極政策の枠内に収まるものだった。
この「某重大事件」は、皮肉にも田中内閣の命取りになり、1929年7月濱口民政党内閣成立により幣原国際協調路線の復活をもたらした。それはロンドン海軍軍縮条約*に結実したが対満蒙不干渉政策にまでは戻らなかった。軍部は東方会議で意思統一した積極路線を走り続けた。
*それに憤激した右翼青年に狙撃されて濱口首相は後日自分と内閣の生命を失うことになる。1931年4月14日若槻民政党内閣が後を継いだ。

中堅幕僚が集った陸軍の横断勉強会一夕会が中央と関東軍で強硬路線の中心となった。関東軍では一夕会の指導的メンバーだった板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐の両高級参謀が入念に調査のうえ満蒙攻略の作戦計画を立てた。
石原莞爾は、満鉄線爆破直前の1931年5月に執筆した『満蒙問題私見』のなかで、次のように述べている(山田朗編『外交資料 近代日本の膨張と侵略』)
満蒙領土化は正義であり、かつ戦争計画策定にあたっては、その
動機は問う所にあらず、期日を定め、かの「日韓併合ノ要領ニヨリ満蒙併合ヲ中外ニ宣言スルヲ以テ足レリトス」
石原作戦課長の日記によれば、同年5月31日に、石原と板垣征四郎、花谷正奉天特務機関長代理、今田新太郎張学良軍事顧問補佐官は「満鉄攻撃の謀略」に関する打ち合わせをおこなっており、6月8日には「奉天謀略に主力を尽くす」ことで意見の一致をみている(Wikipedia:柳条湖事件)
この4人、石原と板垣が計画し花谷少佐と今田大尉が実行を指揮して、中央が思案している間に決行日を早めて9月18日午後10時過ぎに、奉天北方の満鉄の線路上を爆破した。日本では柳条湖事件、中国では9.18事変とよばれている関東軍の自作自演の謀略である。現場には軍装の中国人2人の死体が転がっていた。直後急行列車が何事もなく通過しているから軽微の爆破だった。物理的には軽微だったが、満州事変の発端として世界史に刻まれる大事件になった。
軍事行動は関東軍本庄繁司令官、三宅光治参謀長、土肥原賢二奉天特務機関長同意のもとで実行され、たちまち奉天、長春等、南満州の軍事拠点を占領した。陸軍三長官を成す南次郎陸相、金谷範三参謀総長、武藤信義教育総監もそれを当然の事と認めた。
事件をめぐって閣内で、また内閣、陸軍省、参謀本部、外務省と元老重臣、天皇の間で頻繁に折衝、やりとりがあった。天皇の意向どおり事態不拡大に落ち着くかにみえたが、若槻首相は陸相と参謀総長の辞任(それはとりもなおさず内閣総辞職を意味した)を回避するため、事後承認で決着した事後の「事」には、朝鮮軍(林銑太郎司令官)独断の鴨緑江越境満州出兵と関東軍部隊の吉林出動(謀略と居留民保護名目の満鉄沿線外出動)とがあった。天皇裁可によらない越境出兵は陸軍刑法では死刑に相当する。板垣参謀は奉天領事を「統帥権干犯をするか」と追い返したが、軍の独断専行は天皇の大権無視ではないか。関東軍にはブレーキ装置がない。政府にとって関東軍はコントロール不能になった。

9月19日ラジオは本邦初の「臨時ニュース」で、新聞は号外で事件を報道した。一方的な報道(暴戻支那軍が仕掛けた!だが張学良は何があってもあらかじめ無抵抗を決めていた)に国民は熱狂した。長年の排日、侮日に対する鬱憤を晴らした喜び、世界恐慌、昭和恐慌のダブルパンチから立ち直れるという希望や日露戦争の血であがなった満州をついに制圧したという達成感で、大正期には醒めていた軍国熱がふたたび蘇って来た。
11月6日、フーヴァー米政府の閣議において、スティムソン国務長官は、日本の軍事行動の拡大を討議する中で、日本国民が「軍国主義者になりつつある」と発言した。
北満占領は、内閣と陸軍首脳部の不拡大方針により、かろうじて抑えられていたが、安藤内相が与野党協力、挙国一致連立内閣を主張して閣議不参加、辞職拒否*をしたため、
若槻内閣が閣内不一致で突然総辞職した。
*内閣が陸海軍大臣武官制で進退きわまることがあるのは知っていたが、総理に閣僚罷免権がないことは初めて知った。一夕会の暗躍があったという疑いが生じる。
12月11日犬養内閣が成立すると、事態はふたたび動き出した。関東軍は北満のチチハル駐屯を承認され東支鉄道を越えて帝政露西亜勢力圏に侵入した。
1932年1月3日長城に近い南の錦州(奉天政府最後の所在地)を占領してイギリスの鉄道権益を脅かした。まったく法的根拠のないチチハル、錦州の占領は列強とくに米国ををさらに苛立たせた。

関東軍が劇的に日本を戦争モードに切り替えることができたのは軍師石原莞爾のブランキスト的行動原理*に負うところが大きい。前記の引用に続けて彼は述べる。国家にできないなら軍部が「団結シ戦争計画ノ大綱ヲ樹テ・・・謀略ニヨリ機会ヲ作製シ軍部主導トナリ国家ヲ強引スルコト必スシモ困難ニアラス」
*先駆する少数の前衛が突破口を開き後戻りできない動乱状況をつくって革命につなぐという思想。わたしはブランキズムについて研究したことはないが、全学連主流派の国会突入戦術がブランキズムと批判されていたので連想して上記のような表現を用いた。
その通りになったが、関東軍が独断専行できるように陸軍中央主要ポストを入れ替えたのは少壮幕僚の[軍国党ともいうべき]一夕会であった、と川田稔氏の受け売りをさせてもらう(論文「満州事変  昭和六年永田鉄山が仕掛けた下剋上の真実」[]内は自説である)
一夕会は満蒙領有、陸軍首脳人事刷新=守旧派の替わりに真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑太郎擁立、国家総動員体制を[綱領]としていた。一夕会のグランドデザインを実現に導いたのは総統的存在の永田鉄山大佐(遭難時中将・軍務局長)である。スターリン書記局にならったわけではないが、陸軍人事局を掌握(補任課長:岡村寧次と後任磯谷廉介)して、下記のとおり陸軍中央の主要実務ポストに自派勢力を配置した。[私から見て知名度の高い人物のみ掲載]
事変直前の若槻内閣時
〈陸軍省〉軍事課長永田鉄山、同支那班長鈴木貞一、補任課長岡村寧次 〈参謀本部〉動員課長東条英樹、作戦課兵站班長武藤章、支那課支那班長根本博 〈教育総監部〉本部長荒木貞夫、第二課長磯谷康介 
犬養内閣時 陸相荒木貞夫、軍務局長山岡重厚、参謀次長真崎甚三郎(総長は宮様)作戦課長小畑敏四郎
一夕会員ではないが満蒙積極方針の立役者森恪が犬養内閣書記官長に就任したことは積極策が政府の方針にもなったことを物語っている。

1932年1月3日 錦州入城 
無抵抗方針の張学良はこれで満州の軍事拠点と政治支配権をすべて失った。日本軍占領下の政治組織はどうなる? ここに至ってスティムソンは、日本の侵略行為による満州危機はクライマックスを迎えつつあると断定した。

1月7日 対日中通牒「スティムソン・ドクトリン」公表
「門戸開放政策[9か国条約]として知られる、中華民国における主権、独立あるいは領土的ならびに行政的保全の権利」を損なうようないかなる既成事実、条約や合意も認めることはできない。1928年の不戦条約に違反するいかなる状況、条約、合意も承認できない。

犬養内閣の成立後派遣軍の独断専行が内閣、陸軍首脳を「強引」する「下剋上」の異常状態が常態化しつつあった。それに伴って日本の大陸政策に大きな変更が加えられた。
満蒙[関外]では、中国主権から独立した親日国家樹立が目標になり模索と工作が始まる。
長城以南[関内]では、中国主権下での華北分離、「自主的」自治政府が目標になった。
天津では11月に2回土肥原賢二奉天特務機関長の謀略と日中両軍の衝突があった。この間ラストエンペラー溥儀の隠密天津脱出が甘粕正彦工作員によって決行された。
1932年1月18日 上海で日本山妙法寺僧侶を襲撃、1名死亡
1932年1月28日 上海事変、海軍陸戦隊と第19路軍交戦、激戦に空母、師団派遣*(5月5日停戦)
*この時、爆弾筒を抱いて突破口を開き軍神と賛美された「肉弾三勇士」(荒木陸相は爆弾三勇士と命名)は、久留米工兵大隊所属で、その兵舎を利用した私の母校傍の公園には大きな三勇士像があり、わたしの教室の窓から見えた。映画に着目して軍国フィーヴァを想像していただきたい。ゾロ目の2.22に戦死、3.3には映画3本封切り、さらに17日までに3本...。
3兵士は美談に祭り上げられた分、戦後おとしめられたが、今日では報道の捏造(爆発に巻き込まれた事故死を特攻死にフレームアップ)が有志によって解明され、ようやく安らかに眠っている。
上海事件は、
満洲独立の動きから国際連盟と米国の目をそらさせるために板垣司令官が上海公使館武官・田中隆吉少佐に命じて中国人を使嗾して起こした謀略(上掲)が発端となったが、逆にスティムソンの怒りに油を注いだ。
かれは日本軍をthe japsとよび、1月29日「上海事変の概要を閣議で説明し、中国都市の人口密集地への爆撃を実施した日本軍の残虐な行為*は決して正当化できない
(an unjustifiable attack)と厳し く批判した」(中沢志保論文「スティムソン・ドクトリンと1930年代初頭のアメリカ外交」)
*スティムソンは、陸軍長官として東京空襲と原爆投下にOK,京都原爆にNOのサインを出したことで日本でよく知られている。
1932年3月1日 満州国建国宣言
32年  5.15事件 海軍青年将校と陸軍士官学校生ら首相官邸襲撃、犬養首相を射殺 
後継の海軍出身斎藤実内閣、9月15日満州国を正式承認
1933年2月24日 国際連盟の対日満州撤退勧告採択(42対1)に抗議して日本代表松岡洋介退場  3月27日脱退通告

軍国主義は復活した。日露戦争では大英帝国と米国の力強い支持があった。今回は、理屈はあるが宣戦布告はなし、ただ一国の支持もなし。この孤立感、空虚感を日本はどう埋めるか、どう癒すか、次稿につづく。