自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

狭山事件/死体隠匿ではなかった/埋葬を偽装した「かくれんぼ」

2023-01-21 | 狭山事件

承前
主犯の思考、行動は単線ではなく複線complexであり、その表現法はときには伏線、あるときは露顕である。複線のあり方は、単純でなく絡みあい縺れているため捜査、報道を振り回し、世評を狂わせた。

警察が犯人を取り逃がした数時間後の5月2日9時ごろ、農家の男性がゴボウ畑の作業に来て農道の土が不自然に盛り上がっているのに気が付いている。3日の昼すぎと夕方には2人の若い人が散歩中に新しい土が盛り上がっているのを見たと新聞記者に話している。
3日に山狩りが始まったがその日現場は捜索対象外であった。農家の男性は3日も4日も現場近くで作業をし、4日には最初に発見した警防団に試掘のために農具のおかめを貸している。
通りかかった3人にすぐに異変が感じられる状態で死体は埋められていたのである。これで、隠匿の目的が秘匿ではなくほかにあったことが推察できる。
見つからないよう隠したのではない。適時に見つかってほしい。いつまでも見つからなかったら意味がない。かくれんぼ遊びと同じだ。
農道に埋めた目的は何か。雑木林ではなくリスクを冒して駅近くの開けた農道に埋めている。そのすぐ近くに石川さんが住む被差別部落があった。部落の不良による犯行をにおわせたのである。
公判で殺害地点とされた近くの四本杉の雑木林も部落の生活圏である。だからそこで殺害して農道に運び出して埋めたというストーリは成立しない。
もう一つ、農道は農道でも、その場所でなければならない理由があった。天蓋つき芋穴である。底まで3mの深さ、そこから横穴の貯蔵庫が伸びている。地下式横穴古墳を連想させる。芋穴を墓制に擬したのだ。

 芋穴   祝い用ビニール風呂敷と棍棒

すでに述べたように、殺害の動機は伝統的な家族制度(家督、家格、家産)の脅威となる家族の一員の謀殺だった。その背景に家父長制度があった。嫁は舅と夫に仕える家政婦であり農業労働力であり口答えの自由すらなかった。母の過ちから一家の団結にひびが入り、家族のぬくもり、一家団欒が失われた。
父母の不仲、母の死、自ら患った心身の傷、人手不足=進学の壁・・・、これらのトラウマは長子を苦しめた。思い返せば母の不倫相手である一人の男性(全く見当がつかないので便宜上X氏とする)に起因する。父に近い年齢、学校友達だったと想像される。
長子が殺害計画で遺体の処理先を思案したとき、恨みのあるこの人物に送ること以外は思い浮かばなかった。意趣返しである。これは亀井さんに聞いた身内説に属する。
農道よりか芋穴が犯人の目当てだったと前章で書いたが、農道と芋穴の所有者がX氏に該当するとは微塵も思えない。彼は後日被害者宅にお悔やみに行っている。
芋穴の所有者を名前しか分かっていない別人とする記事を最近目にした。そういえば農道試掘者にも別人(検察側証人)が居る。新聞はウラを取らずに速報するからだ。
犯人は農道周辺の数多くの地主の中の一人X氏に怨恨を抱いた。遺体が入った泥の棺(殿岡説)と遺品*の入った芋穴とをセットで見れば、他人はいざ知らず怨恨対象のX氏はたちまち返報に気づくと、犯人は心づもりした。無言のメッセージが届けばよいのだ。
*祝い用ビニール風呂敷と棍棒=墓標。長兄は5月4日立会人として現場で祝い用風呂敷と棍棒を被害者の物ではないと確認している。そして5日に正反対の確認上申書に「自分が書いたものでない」と言いながら渋々署名している。芋穴が墓制の隠喩であることを見破られまいと必死である。
犯人は埋め墓と詣り墓のイメージで遺体と遺品を送り出し葬送の礼を込めた。亀井さんはそこに犯人の仏心を見た。伝統の慣習、しきたりに忠実な人物像が浮かび上がる。トラウマから自己を解放するにはそうするほかなかった、と私には犯人の気持ちがわかる気がする。
最後に両墓制について一言・・・。
両墓制は学術用語である。民俗学者、僧侶は、土葬から火葬に変ったため、単墓制になった、両墓制はなくなった、と言うかもしれない。私もだが、庶民の多くはその用語は知らなくとも、その精神を代々実行している。火葬後の遺骨を墓石の土台空洞に納めて盆正月に花を供えて礼拝している。墓制の精神が分からないと「農道」の真の意味に到達できない。


サッカーの新しいトレンド/高校選手権とワールドカップ

2023-01-10 | サッカー育成

わたしは2016年度に監督を引退して時間に余裕ができたがTVで放映されるサッカーの試合を見る気が起こらなかった。ボールをとっても安全パスを後方に送ってパス回しにこだわるからである。縦への推進力でのみ評価されてきた自分には何ともまどろっこしい退屈なゲーム運びだった。どのチームも同じようにやるから後半にユニフォームを交換して戦っていても気づかないだろうと思っていた。
こと(トレンド)の起こりは2010年にスペインが絶妙なパス回しでW杯を制した新コンセプトにあった。それはポゼッションサッカーと称されて世界を風靡した。サッカーがチームゲームであり総力戦であるからそれなりの必然性があった。
W杯で決勝点を決めたイニエスタに代表されるように、複数の敵に囲まれてもなおボールを失わず攻撃的なパスができるチームだからこそ有効なコンセプトだったが、世界中で上も下も猫も杓子もパス回しにこだわった。
「従来サッカーでは90分持久力がもたない」[省エネ論]
「ボールをキープしている間は失点しない」[後ろ向き消極論]
「キーパからパスで組み立てよ」[安全パス論]
「やたらにボールをクリアするな」[確率の低いキック否定論]
・・・・・・。
これはJリーグの指導人のことばの一部である。だからといって私はポゼッション指導を否定はしない。それなくして日本代表が技術的戦術的に世界水準に達することはなかったであろう。

今年の全国高校選手権を選手層で地域レベルの(県内の2番手、3番手の選手で構成した)チームが制覇した。私が一目を置いている潮 智史朝日新聞記者が代弁してくれた(1月10日朝刊)。これ以上のまとめはわたしにはできない。
[優勝した岡山学芸館の]
「縦に速いボールポゼッション」。10年ほど前から掲げるコンセプトはゴールという目的を忘れてパスを回すサッカーへのアンチテーゼでもある。[同感]
隔年で足を運ぶスペイン遠征でバルセロナの試合を観戦して、高原監督は思いついたという。「もっとスピーディーにゴールに向かったほうがおもしろいと感じたので」。そのサッカーは、昨年のワールドカップ(W杯)で勝った強豪にも通じている。[同感]

新しいサッカートレンド! わが意を得たり、である。カタールW杯2022は決勝まで徹夜して観戦した。日本代表は上へ上へと螺旋階段を駆け上がった。真上から見たら世界のトップと同位に見える。横から見るとまだ一周遅れである。生きているうちに世界的スーパースターの誕生と活躍を観たい。