自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

クラスノシチョコフとアレクセーエフスキー/極東共和国の夢まぼろし

2017-03-24 | 体験>知識


 出典 『
誰のために』 クラスノシチョコフ 石光真清 右端アレクセーエフスキー 

1919年、ちょうどムーヒンが殺害された翌3月10日、ウラル山脈の西でコルチャーク政府軍は、赤軍から中心都市ウファを奪い取り、1か月後にはモスクワを占領すると豪語した。
一方クラスノシチョコフは行商人に変装してモスクワに向けて逃避行中、5月ヴォルガ河東岸のサマーラで敗色濃いコルチャーク軍に捕まった。身分がばれず「死の監獄列車」で東へ移送されることになった。
コルチャーク軍は6月にウファで赤軍に大敗し以後クラスノシチョコフの後を追うように東へ東へ退却する。その後を赤軍が追撃し11月オムスク政府をイルクーツクに潰走させる。
そのイルクーツクでクラスノシチョコフは、年末に、反コルチャーク「政治センター」(エスエル、メンシェヴィキ)によって解放され、以後、武市から流れ着いた元アムール州長アレクセーエフスキーと共に緩衝国家・極東共和国樹立に奔走した。敵として別れ同志として出会う不思議な縁である。

1920年のシベリアは反革命軍の退潮のうちに新年を迎えた。ドイツは敗戦しチェコは独立した。帰心矢のごときチェコ軍は
コルチャークをボルシェヴィキに売って帰国の保障を贖った。日本軍と居留民は1月中旬にイルクーツクから撤退した。
3月西からバイカル湖までが赤軍とソヴィエト政府の支配下に入った。レーニン政府の自重により赤軍はさらなる東進をひかえ、日本軍とセミヨーノフ軍がチタに居座り続けた。

東シベリアではパルチザン勢力が日本軍と対峙しながら地方政権を回復しつつあった。2月浦潮、ハバロフスク、武市等に臨時政権が成立した。政権の赤色の濃淡は各都市によって違いはあるがボルシェヴィキ色が濃くなりつつあった。
日本軍は、ハバロフスク等沿海州と東支鉄道沿線を最後の防衛圏と位置づけた。「日本が自衛したいのは、〈帝国と一衣帯水〉のウラジオストク、〈接壌〉の朝鮮、北満州である」(麻田雅文 『シベリア出兵』 2016)
日本軍は、此処を防衛圏とすれば間宮海峡と日本海を制海、内海化できるという夢想を始終抱いていた。朝鮮、満蒙の赤化防止が焦眉の課題として軍部と政府に認識され始めていた。これが日本軍が居座り続ける理由、新たなシベリア戦争目的となる。


3月 尼港事件 パルチザン暴走による日本軍民の虐殺
アムール河を挟んで沿海州北端の対岸、サハリン州首府、金鉱と林業と漁業の街ニコライエフスクでは、優勢なパルチザン部隊(司令官トリャピーツィン)が白軍を圧迫し、アムール河と海峡の凍結で孤立無援となった日本軍守備隊に武器弾薬貸与を強要したため、3月12日午前2時日本軍の奇襲攻撃を招いた。明ければ革命記念日の丑三つ時、宴の酒で熟睡中だったトリャピーツィンは負傷しながらも難を逃れ、分散宿営中のパルチザン部隊をまとめて反撃に移り守備隊本隊を制圧した。

簡単に状況と経過に触れておく。主に山崎千代五郎『血染の雪』付録「尼港事件顛末」(1927)と石塚経二『アムールのささやき』(1972)に依存した。
当時人口=ロシア人8700 中国人2300 朝鮮人900 邦人居留民400(島田商会中核の自衛団含む) 日本軍370 白軍150(崩壊中) ロシア義勇軍若干(多くは在獄中) パルチザン2000~4000 
1月24日 市を包囲しているパルチザンの和平協議軍使オルロフを石川大隊長と憲兵隊長は白軍司令官に引き渡し殺害 
2月5日 市外で両軍攻防戦 陸軍砲台要塞と海軍無線電信所放棄 以後パルチザンが利用 在ハバロフスク山田旅団長は石川大隊長との通信手段喪失 伝言を双方向ともパルチザンに依頼 
2月28日 旅団長指令「交戦は避けよ」により
和議成立 市長は歓迎白軍司令官自決
2月29日 パルチザン部隊入城して治安維持を担う 白軍武装解除 パルチザンに多数の「支那人及び朝鮮人」   入市後再編成した連隊に「無政府
共産主義支那人連隊/バルサン第四連隊」名あり 白軍将校、官吏、有産知識階級数百人を逮捕 白軍将校自決か処刑 パルチザン志願者増大・武器弾薬不足
3月11日 パルチザン、日本軍に武器弾薬「借り受け」強要 翌12日正午期限 
12日 石川大隊長・山野井憲兵隊長・副領事・自衛団協議し部隊配置、作戦決定の上未明の奇襲を決死敢行 動員兵力413 憲兵隊準士官1下士兵卒13と日露義勇軍50含む 大隊長区処下になかった憲兵隊長は蹶起不同意、憲兵隊は庁舎に籠ったまま捕虜となり銃殺された

パルチザン部隊反撃 石川大隊長戦死 防衛拠点島田商会と領事館燃える 副領事一家自決 動員兵力4000 中国人900・朝鮮人400含む
「在ニコラーエフスク日本人全部は主として支那人及朝鮮人に因り惨殺セラレタリ」(参謀本部『西伯利出兵史』) 
中国五四愛国運動・朝鮮三一万歳事件鎮圧の遺恨を受けた意趣返しが見て取れる。参謀本部の「満鮮人」に対する異常な警戒心と監視が目を引く。
3月17, 18日 山田旅団長両軍司令部に「戦闘中止勧告」電報 堅固な兵営に籠城中の守備隊、武器弾薬兵舎を引き渡し捕虜として旧露兵舎に移動 19日囚人とされ140名・居留民13名内女性7名監
獄へ 
パルチザン部隊、労農兵ソヴィエト*を組織開始 徴発委員会等行政機関設置 チェー・カー作成の有産階級名簿により逮捕、裁判 処刑か釈放の二処分のみ 上記日本人捕虜、
囚人労働に従事(陣地構築あるいはアムール河に航行妨害物を設置)
*極東共和国成立後は極東ではソヴィエト化は不可とされ、できる所ではパルチザンと白軍兵士はまとめて人民軍に改組された。

海路と水路の結氷が溶けて日本救援軍が近づいた5月下旬以降パルチザン軍は、日本人捕虜をすべて惨殺し、市街を焼き払い疑わしき市民を皆殺しにし、従う住民を引き連れて上流に退避疎開した。焦土作戦は広大な国土をもつロシアならではのアイデアである。
無政府主義を自称する司令官トリャピーツィン
と参謀長ニーナは仲間の反乱で銃殺され、避難民の多くは日本軍政下に入った。審問で「過激派」として獄入りした100名の運命については記述がない。
尼港事件の日本人軍民犠牲者数は外務省の記録で735名、目撃体験記録は香田昌三日記と萩原福寿手記のみ。生き残りはいたが中国人等の妻妾であった4名とほかに男女各1名子供2名と考えられる。
日本軍は北樺太を保障占領して石油、漁業、林業、鉱物等の戦利品を得た。

沿海州4月事件 派遣軍謀略暴走
4月、日本軍の動きを牽制していたアメリカ軍が浦潮から撤兵するのを待っていた日本軍は内政不干渉の法衣を脱ぎ捨てて浦潮臨時政府に奇襲攻撃をかけた。公然たる内政干渉である。以下引用は主として参謀本部『西伯利出兵史』に依存。
その背景には「社会革命党ガ過激派ノ傀儡タルニ過ギザルノ実情」(大井軍司令官)あるいは、もはや沿海州には「我ニ好意ヲ有シ又ハ我支持ヲ受クル」べき「穏健団体ナルモノ皆無ナル実況」(稲垣軍参謀長)という現地の危機認識があった。犬が先祖返りしたという認識である。
大井軍司令官は、沿海州の政治不安定が「累ヲ朝鮮及満州ニ及ボス」ので、危険政治団体[狼]はその存在、武装、宣伝、を許さず、排日朝鮮人の扇動についてはとくに注意するよう、指示した。そして3月末までに武装解除の綿密な要領を各指揮官に極秘伝達した。狼は牙を抜くか殺すしかない、という本音が読み取れる。以下要領の骨子を記す。
「武装解除」予定日4月上旬 浦潮臨時政府に「要望」を突き付け応じなければ「武装解除ヲ疾風迅速的ニ決行、一時之ヲ拘束」 敵に先んじられた場合には機を失せず「迅速果敢ノ措置」 伝書バト用意 駆逐艦手配
3月31日に発した撤兵に関する日本政府声明は、4条件つまり沿海州政情安定、鮮満地方に対する危険除去、居留民と交通の安全保障が得られれば、チェコ軍撤退完了後「成ルベク速ヤカニ」撤退するというものだった。
4月2日
大井司令官が政府声明を受けて浦潮臨時政府に対して突き付けた「要望」は撤兵ではなく駐兵に重点を置く6カ条だった。全権代表(エスエル)は4日修正合意した。5日に議定書に調印する運びとなった。その内容は抽象的で下記の「武装解除」を臭わせるものではなかった。
が・・・
4日午後10時ちょっと前、外交を謀略によって覆す現地派遣軍の悪しき伝統劇がシナリオどおり幕を開けた。当日は陰暦十六夜、ためらいがちに上がる色鮮やかな月の光を浴びて日本軍は果断に行動した。
浦潮で巡察中の第58連隊第1大隊副官の小隊が革命軍衛戍司令部前にさしかかったとき突然どこからか銃撃を受けた。1時間後旅団長命令で全域で戦端を開き、計画どおり
浦潮等ウスリー沿線7地域のうち6地域で5日昼すぎ「掃討」を完了した。ハバロフスク制圧は5日朝開始で市街戦になった。
5日夕刻、浦潮臨時政府代表が恐る恐る軍司令部を訪れ前日合意した日本軍駐留を保障する議定書に署名し政権の安堵を得た。シベリアのロシア人の気持ちは恐怖から安堵へ、やがて遺恨に変わった。

「日本軍はこの奇襲攻撃により各地で圧勝し、約七千人を武装解除し、数千人を殺害、併存状態だった革命派を殲滅して、ハバロフスクと沿海州を事実上支配した」(麻田雅文 前掲書)
その上極東共和国設立委員で共産党極東政治局員ラゾ達3名を生きながら機関車の
で焼き殺してロシア人に永く消えない記憶を焼き付けた。殺害方法には異論もあるが、ロシア人に定着した記憶がもたらした結果は重大だった。
児島襄は『平和の失速』で55ページにわたって逐一「掃討」の状況を記述し地区毎に戦死者のバランスシートを添えている。日本側が1桁、多くても2桁なのに対してロシア側は3桁である。23年後のスターリンによる満州占領計画もかくや、と思いつつ読んだ。シベリア抑留では倍返しならぬ百倍返しだったと考えるのは飛躍し過ぎだろうか。
なお浦潮では、抗日「不逞鮮人の策源地」であったスラム新韓村を「掃討」し放火した。ニコリスクでも同時に抗日朝鮮人「掃討」を実行した。これが「武装解除」の欠かせない目的の一つだった。
最大の目的は地方政権の軍権と武器を奪うことだった。浦潮臨時政府は少人数の警察隊しか保持を許されなくなった。
ウスリー沿線ではパルチザンは地下に潜り、極東共和国の意を体するゲリラ、馬賊が姿を現すようになる。

1920年4月6日 極東共和国樹立宣言 クラスノシチョコフ首班兼外相を擁する連立政権
ポーランド軍、デニーキン軍、ウランゲリ軍に対して西部で戦っていたレーニン政府は日本軍を武力で追い出す国力をもっていなかった。それゆえ日本軍の平和的撤退に道を開くために緩衝国家を樹立する必要があった。
レーニンは、ブレスト講和の時はドイツ軍の進撃を食い止めるために領土(ウクライナとバルト海沿岸)を差し出して平和を贖った。今回はシベリアのソヴィエト化を急がないことで譲歩し、シベリア、サハリン、カムチャッカにおける利権を提案した。緩衝国家案はシベリアのボリシェヴィキとりわけ日々死と直面しているパルチザンに受けが悪かった。「革命への裏切り」という痛罵も聞こえる。

レーニンの政治局は緩衝国のデザインをアメリカの弁護士資格を持つクラスノシチョコフに委ねた。彼が起草した憲法は世界でもっとも民主的な憲法であった。アメリカでさえ女性に選挙権が認められたのはこの同じ1920年だった。その全文がはじめて和訳され我々にも閲覧可能になっている。堀江則雄著『極東共和国の夢』(1999) 
18歳以上の普通選挙で選ばれた「有産制」民主主義が基本になった。レーニンは憲法と経済政策の基本に関するクラスノシチョコフの質問に「共産主義が小さな特権を持った民主主義が許容される」と回答している。
首班クラスノシチョコフは、
体刑死刑の廃止、大赦、集会結社の合法化、言論出版集会の自由回復を進めた。食糧徴発の代わりに現物税の導入、商業の自由を認めた。本国では農民の反乱が繁くなったとき極東共和国では新経済政策を先取りしていた。
シベリアの農民はボルシェヴィキを支持したが共産主義は支持していない。この微妙なバランスが制憲議会選挙(1921年1月)に表れた。農民代表が多数でボルシェヴィキ、エスエル、メンシェヴィキの順だった。
クラスノシチョコフは首班の地位は保ったが、彼の自由共産主義はボルシェヴィキ強硬派の反感を買った。
鉄道の復旧、協同組合事業、人民軍の募集・維持は財政基盤が弱いため困難を極めた。極東共和国人民軍が「チタの栓」を抜いて日本軍を沿海州「自衛圏」に封じ込める頃クラスノシチョコフは徐々に孤立、失脚しモスクワに呼び戻された。
ネップを推進するレーニンに高く評価され融資銀行プロムバンク設立等で能力を発揮したが、スターリン粛清を逃れられるわけがなかった。
1937年11月26日 銃殺 57歳

1956年4月28日 フルシチョフのスターリン批判(2月)で名誉回復

ムーヒン、クラシノシチョコフと肝胆相照らす仲のアレクセーエフスキーは、極東共和国樹立後、家族を呼び寄せるためにパリに旅行した。そのまま支持者の農民の元に還ることはなかった。1957年、パリで交通事故で亡くなった。

1922年10月25日 日本軍浦潮撤退 人民革命軍入城
同年11月14日 極東共和国、本国合併決議でみずから幕引き


ムーヒンとクラスノシチョコフ/パルチザン戦/アムール州事件

2017-03-07 | 体験>知識

出典 石光真清『誰のために』

調書「ムーヒン」(手書き 第12師団司令部 複写)によれば、ムーヒン(電気工、妻帯、41歳、左足凍傷痛)は変装のため理髪しヒゲをそった。その前は栗色のほほヒゲと帽子で変装していたという。隠れようとした学校で捕まったが捕らえたのは日本兵である。上掲の写真はコザックを主役に配して日本軍を脇役に見せる効果を狙った広報用のものである。
審問者はアベゾルーコフで「隠していることがあるがムーヒンを信ぜんことを請う」とコメントして署名している。日付は1919年3月8,9日である。隠し事「塗抹」とは仲間の名前、居所であろう。たとえば、クラスノシチョコフは知っているが「グラベリソン」なるクラスノシチョコフは知らない、といっているようなことを指すものと考えられる。
私見では「逃走を企てたため路上で射殺」は背後に写っている主役日本軍の捕虜殺害を正当化しようとする口実である。捕らえて白軍に渡して処分させるのも日本軍の常套的やり方だった。
【註】史料中の地名人名のカタカナ表記の微小な相違を統一する能力は私にはない。想像を働かして読んでほしい。

1918年8月16日第一陣を浦潮に上陸させた日本軍は赤衛軍の抵抗を排除しつつハバロフスクを目指して破竹の勢いで進撃した。シベリア出兵中唯一戦争らしき会戦があったクラエフスキー会戦でボルシェヴィキは旧軍の装甲列車と砲艦を出動させているが、兵士は制服もなく訓練が効いていない住民兵が主力だったから、その部隊は赤軍ではなく赤衛軍(元の守備隊とか艦隊のソヴィエト派)とパルチザン部隊とみるべきであろう。沿海州にはまだトロツキーの赤軍の兵制、兵備は及んでいなかったと思う。
日本軍とコザック・ウスリー支隊(アタマン=カルムイコフ)は2週間でハバロフスクを占領した。これ以降ボルシェヴィキはパルチザン部隊で戦うことになった。

1918年8月末ハバロフスク会議で極東人民委員会議(ムーヒンも参加)は撤退して再起を図ることを決議した。議長クラスノシチョコフはアムール州ゼーヤ市に逃れ人民委員会議を解散し変装してタイガに身を隠した。
ムーヒンはアムール州全域で労働者、農民を組織して日本軍とコザック部隊に対する反乱とソヴィエト政権の再建を準備する活動に入った。日本軍は下掲の写真をもとに手配書をつくって二人を捜索した。
真ん中巻紙を持つ二人がムーヒンとクラスノシチョコフ 1918.7.20

出典 http://www.a-saida.jp/russ/sibir/vetvi/ishimitsu_muhin.htm
原典『欧亜列強 大戦写真帖』 帝国軍人教育会編、大正通信社、大正8年

ムーヒンは、ハバロフスク陥落の教訓を生かしてアムール州でパルチザンの隊長を糾合して将来の一斉反乱を準備した。活動地域はゼーヤ河両岸と東のザヴィタヤ河両岸に挟まれた沃土地帯である。かつては清国領で「江東64屯」とよばれた所か。1918年当時はロシア人の移住村になっていた。


出典  児島襄『平和の失速 〈大正時代〉とシベリア出兵』

ムーヒンは、調書によれば、ガーモフ率いるコザック隊と日本軍が武市に進軍して来た1918年9月半ば以後も変装して市内に潜伏していた。
石光は部下が「来た」と慌ただしく報告しに来たとき「ほっといてやれよ。なあ・・・立場こそ違うが、彼も愛国者だ。日本軍との衝突を避けたのも彼の努力だよ」と抑えている。その時10月半ばに撮られた写真に、宣撫説教師太田覚眠に耳を傾け質問しようとする大男ムーヒンが写っている。

 
出典  石光真清『誰のために』 原典  太田覚眠『露西亜物語』(1925)

ムーヒンはアムール州を2区に分け北部の「バヴーリ」村と南東部のイワーノフカ村を二大根拠地として4カ月間村々を巡回しながら宣伝し募兵した。
1919年1月上掲地図各地で蜂起と討伐が頻発した。1月7日マザーノワ、12日ポチカレオ、17日アレクセーエフスク、25日イワーノフスコエ、26日チェレムホ-フスコエ、27日チワーノフスコエ、2月6日タムポフカ、等の付近で蜂起・討伐戦があった。
2月16日イワノフカから武市に潜入して全体を指揮統率した。信頼する石光真清とアレクセーエフスキーが武市を去った直後である。もはや武市は微温的政治環境ではなかった。第12旅団が司令部を置きいわば戒厳令下に等しかった。
武市の「避難所ガ包囲ノ状態ニ陥リ日本兵ノ現ルルヤ」遁れて転々と避難先を替えた。
3月8日学校に着くとここは監視されていると言われた。2階に上がって窓際から外を見ると日本兵が入ってくるのが見えた。1階に降りて捕縛された。

反乱は、日本軍とコザック支隊の討伐行との絡みで、統一を欠き散発的な蜂起に始終した模様である。一般に動乱は強硬派の蜂起で燃え上がる。
以下は「調書」にあるムーヒンの無念の表明である。
武市での今回の反乱準備はムーヒン抜きで行われた。自分は労働組合に個別の決起を戒め続けて来た。ムーヒンが留守している間は強硬派軍事委員が主導した。振り返って言えば前年の武市3月事件の拘禁中の決起も軍事委員会が指導した。
農民はムーヒンを父と慕い頼みにしていた。「父トハ余ノ綽名ナリ。余ノ予期シタル反乱決起ハ余ノ通知ヲ待タズシテ開始セラレタリ」 
農民はムーヒンが「常ニ事ヲ案出シ自ラ遁レル」と批判した。ムーヒンは自分が司令部、市中に居たのは「コトヲ挙グルノ際、ソノ場所ニ居ランガ為ナリ」と応じた。
しかしこの反乱は時期尚早につき起こせなかった。蹶起の時期を決定すのは難しい、とムーヒンは言う。それは主として「露国及ビ外国トノ政治的関係如何ニ因ルモノナリ」

日本軍は浦潮から発してたちまちのうちにシベリア鉄道沿線を占領しながら西進しザバイカル州チタのセミョーノフ軍と合流した。総数73000名を出兵させたが延べ員数だろうから半分と見積もっても広大なシベリアの鉄道の点と線を抑えた程度であっただろう。日本軍は、ナポレオンを退却させた冬将軍を味方にしたパルチザン部隊のヒット&ランの攻撃に悩まされた。
ムーヒン指導のアムール州の抵抗がもっとも強力で最後まで執拗であった。蜂起して討伐隊に追跡されるパルチザン主力部隊と拠点の村々の戦いをみてみよう。
[註] 参考史料は児島襄前掲書と高橋治『派兵』である。高橋氏が出版を勧めた松尾勝造『シベリア出征日記』に負うところ大である。冷たい統計に熱い血を通わせてもらった。

ムーヒンは調書でマザーノア事件にちょっと触れている。日本兵たちがウオッカを求めて酒商とその家族を殴打したのがきっかけだと知った、と。
1月7,8日、同村の農民は蜂起しソハチノ村のパルチザン隊の協力を得て日本軍守備隊兵舎を占領した。梶原守備隊50余名は「戦死6, 負傷7, 行方不明4, 凍傷34」の不名誉を記録した。蜂起は討伐隊によって鎮圧され逃げ遅れた村民は殺された。日本軍は参謀本部出兵史によれば膺懲のため「過激派ニ関係セシ同村ノ民家ヲ焼夷セリ」 
2月11~13日、日本軍はザウィタヤ河東部のインノケンティエフカ村を拠点とするパルチザン部隊の討伐に向かった。第1陣米谷=高野隊100人はゲリラの待ち伏せ戦術と零下30度の厳寒、疲労で敗退した。戦死行方不明4、負傷10、凍傷26・・・出迎えた当番兵松尾勝造は死傷者の惨状に驚き怪しみ復仇を誓った。
凍傷患者は激しい痛みのために泣き叫ぶ。
死体は頭部粉砕、シャツ1枚。この様子は以下の負け戦に共通していて日本軍の報復心をいやがうえにも燃やした。貧しい農民兵には日本軍の防寒具は宝物に等しかった。パルチザンは武器や武具を戦利品で補充した。
第2大隊代理末松少尉率いる討伐隊150名はギリシア正教徒の村インノケンティエフカを早朝野砲2門で攻撃した。パルチザンは馬や橇で逃げ出した。主力は前日に離村していた。「斯クテ討伐隊は終日村内ヲ捜索シ、小銃15挺を押収シ・・・」 同夜そこに「宿泊セリ」
参謀本部出兵史が一方的な勝利をこともなげに記した陰に、渦中で虐殺の実行者、目撃者になった松尾勝造一等卒の阿鼻叫喚を記した『シベリア出征日記』(1978年)が在る。
燃え盛る村で逃げ損なったものが盛んに撃ってくる中、抜剣した士官、曹長を先頭に、兵士が着剣して怒涛の如く突撃した。「硝子を打ち割り、扉を破り、家に侵入、敵か土民かの見境はつかぬ。手当たり次第撃ち殺す、突き殺すの阿修羅となった」
両手を挙げる者拝む者を容赦なく殺害。数名居た正規兵は本部に連行し審問の上突く刺す斬首のなぶり殺し。ガラスや戸の壊れる音、屋根が焼け落ちる音、家が焼ける風音、豚の焼け死ぬ泣き声、走り回る馬の足音、妻の泣き叫ぶ声、擬音語入りで真に迫った描写が続く。
ここで私ははっと気づいた。その時心が鬼だったと述懐する記録者が目や耳に一生焼き付いて消すことのできない光景と号泣にまったく触れてないことに。それが何であるか、また記録者の掻きむしりたい胸の内は、想像に任せるしかない。

完全な敵場内に乱入したときの誰が敵か分からない恐怖心、復讐心、「露助め」がという侮蔑感が勝利の高揚感で勢いよく燃え上がったときの異常心理と行動はいつの時代でもどこの国においても世界共通である。記録者は元寇による壱岐対馬の虐殺もかくや、と想像した。私は島原の乱の原城落城を想った。 
2月17日堀大隊は「アンドレーフカにて約一千の敵と交戦し死者[堀少佐以下]将校2名, 負傷将校4, 下士卒22名戦死、行方不明18名なり」 村は焼かれ無人化した。
2月20日高橋少佐支隊、周辺で一番大きいビッシャンカ村宿泊。零下44度、凍傷患者多し。「一週間前、二千の兵を連れてムーヒンが来たが一夜泊まって何処かへ行ったと言ってゐた」 ちなみにムーヒンが武市に潜入した日は2月16日である。
2月26,27日、日本軍はパルチザンの主力部隊数千名(指揮官ドルゴシェーエフスキー)を追った。ユフタで遭遇して香田小隊45名、ついで田中大隊支隊162名が全滅した。続いて森山小隊58名と西川砲兵中隊35名全滅。貫通銃創と刺創にもかかわらず生き返った森山小隊山崎千代五郎の著著『血染めの雪』(1927)の戦死者名簿による。
山崎は慰霊碑建立に生涯をかけた。著書販売と講演会で全国を巡って資金をつくった。その間137回憲兵に連行された、と作家高橋治は書いている。
3月3日高橋大佐大隊と高橋少佐支隊が追い続けていたパルチザン主力部隊をハサミ討ちにして形勢逆転、総崩れにした。敵はパーロフカ村から逃げ出し橇で追撃を振り切った。参謀本部出兵史は当夜そこに「宿泊セリ」とだけ記録したが、村は焼き払われて無人になった。皆殺しだった。
高橋治は『派兵』(1976)で、老兵たちにインタヴューを試みたが、この件だけは表情を硬くして語りたがらなかった、と云う。ヴィエトナム戦争の「ソンミですよ、南京大虐殺ほど大規模ではなかったようだが、ま、ソンミそのものといえるでしょうな」(第14連隊谷五郎)

3月9日 武市でムーヒン密殺
上掲松尾日記では同郷友人の話として、夕方「釈放」と偽って「走って逃げかけるところを第二中隊の兵2名が後方より射撃したら、4発の弾丸を背に食らって即死せり」と記している。松尾日記に従えば捕虜は銃殺か斬殺が当たり前だった。疑わしい者は殺された。
3月22日、日本軍はアムール州パルチザンの巣窟視していたイワノフカ村に帳尻合わせの清算に出撃した。
「犠牲者は無力な村民だった。村の記録で死者は300人を超える。小屋に閉じ込め36人を焼き殺した跡に炎の碑が立つ。257人の銃殺現場にも慰霊の碑があった。
作詞作曲者不詳の〈炎のイワノフカ〉は、高齢の女性が無伴奏で歌う録音が村の史料館に残る。
♪ 生きてて良かったね/私みたいにならなくて/小屋の中で焼き殺された/屋根に逃げても弾の雨/日本人のやったこと/日本人のやったこと...」( ロシア住民虐殺で追悼式典 イワノフカ事件90年 共同通信社 2009年7月12日配信)

3月28日、山田旅団長発の「過激派掃討計画」は「去就に迷える農民」の信頼を得るため「家屋の焼夷破壊」を禁止し「老若婦女に対する言動を慎み」略奪を戒めている。新たな敵をつくることを懸念し始めたようだ。
短慮浅慮と言おうか、上記の焼き払いはそれまでの派遣軍大井師団長、山田旅団長の〈敵か味方か判別できないから敵対するものあるときは容赦なくその村落を焼棄すべし〉という指令に呼応していた。
大虐殺は指揮官次第だ、と私は結論し持論としている。

ムーヒンの死とイワノフカ村壊滅をもってアムール州パルチザン戦は調整期を迎えた。主力部隊は帰村派と継戦派に分裂し、戦士も千人位に半減した。さらにパルチザンは大隊、中隊規模の編成をやめてそれを小さなゲリラ隊に細分化した。その分大きな戦闘がなくなる。
いよいよバイカル湖東西の戦場に目を転じよう。そこにクラスノシチョコフが居る。コルチャーク政府の囚人として。

【出会いと和解と鎮魂】1994年シベリア抑留者の慰霊碑を建てようとイワノフカの埋葬地を探していた全国抑留者補償協議会斎藤六郎会長「日本人の墓はありませんか」 ゲオルギー・ウス村長「あなたはこの村で日本が何をしたか知らないのですか」
翌年日露合同の慰霊碑が建立された。今なお不完全な名簿を補充しようと努めている日露遺族の執念と鎮魂の思いに頭が下がる。

 
出典  http://www.amur.info/news/2012/08/27/6052

 


石光真清とムーヒン/ブラゴヴェシチェンスクの謀略戦

2017-02-21 | 体験>知識

  出典 http://www.a-saida.jp/russ/vetvi/muhin.htm  原典 アムールスカヤ・プラウダ  2010.5.3

石光真清の手記第4部『誰のために』は私にとっては戦場での「類は友を呼ぶ」物語である。第4部は内容ゆえに真清が公表をはばかったものである。ご子息の真人が戦後編集出版した。

ソヴィエト政府の誕生によって激変した世界とロシアの情勢は極東に無政府状態を生み出した。政権と軍事力の希薄もしくは空白である。日本はこれを好機と捉えつつも英仏両国とりわけ米国の鼻息をうかがいながら単独先行出兵を自制していた。いわば待機状態であるが、最大公約数的目標に向かって準備をした。
その目標は「露国人をして、我支援の下にまずバイカル以東の地方をして、独墺に対抗する独立自治の地区を形成せしむるにあり」(田中義一訓令草案)
それを緩衝国家に発展させ、その政府と交渉してシベリアと満蒙の利権を維持、拡大するという満州国樹立につながる構想の最初のスケッチがこれである。

参謀本部は田中義一次長直々の指名で真清をブラゴヴェシチェンスクに派遣した。武市こそ「独立自治の地区」候補であった。1918年1月15日真清は武市に入った。追いかけるように10余日後に日露協会会長を名乗って情報部長中島少佐以下武官等6名が隠密旅行で来武した。
来武の目的は、東西両州からボルシェヴィキ勢力に包囲されつつあるアムール州と武市の共和制政権を現状維持すること、崩壊中のコザック部隊を立て直すこと、将来の構想実現に向けて工作機関を設けることだった。真清にとっては新任務である。諜報から謀略への任務拡大である。
石光は自分の意見を述べた。「私の乏しいロシア知識によっても、有力な国の武力干渉さえなければソビエト革命は成功すると信じていた。革命が成功すればスラブ伝統の軍国主義は官僚的共産主義と結びついて世界の脅威になることは確実である」「諜報の経験はあるが謀略についてはまったく知識も経験もない」
シベリア出兵の首魁は、山県元老の懐刀田中義一中将、参謀本部諜報・謀略のナンバーワン中島正武少将である。真清は田中に恩義があった。迷いに迷った末、そんなに期待されているのならば、と承諾した。頭から謀略任務なら真清は受諾しなかっただろう。
中島は武市を去る時石光に短いメモを遺した。「蜀を守ることは一に老兄団の御奮闘に信頼す」 アムール州武市を三国志劉備の本拠地蜀にたとえて、我等まさに漢中に鹿を逐[追]う(極東の覇権を争う)と結んでいる。
策士田中義一はこの年9月原敬新内閣の陸軍大臣となり、出兵を推進した。9年後策に溺れて長閥最後の総理大臣の座と自らの命を失うことになる。満蒙に関する外交と謀略の二途作戦が制御不能な満蒙独立計画となって張作霖爆殺を引き起こし昭和天皇の不興を買ったためである。
真清は6名の雇員(久原鉱業の鳥井肇三が先鋭活動家)で石光機関を立ち上げた。後日積極論者中山蕃武官が加わった。参謀本部から軍資金が出るが肝心の機関長の身分は退役の嘱託、国士扱いである。事務所を財閥久原鉱業の事務室に置いた。

東シベリアは3州からなる。沿海州、ザバイカル州、両州の間にアムール州が在る。それぞれの州都はハバロスクと武市とチタである。武市のほかはソヴィエト政権下にある。武市のみが社会革命党(エスエル)温和政権である。
その市長は州長を兼ねるエスエルのアレクセーエフスキーである。革命の闘士で1905年の革命後日本亡命の経験があった。共和主義者で憲法制定会議に出席してそのまま首都に居残っていた。

各州の特務機関の共通使命は「独立自治政府」の首魁となる人物を発掘することである。首領たちの中から将来の緩衝国家の大統領を立てねばならないがまだ武市においても頭領たる器が確かでない。
石光は大胆にもアムール州・武市ボルシェヴィキの指導者ムーヒンに会いに行った。ムーヒンは無警戒にほかの数人とあばら家に居住していた。治安について考えを問うと「平和を望みます。平和を。同邦の間で血を流すほど悲惨なことはない。戦争よりもっともっと悲惨です」それを避けたいためにアレクセーフスキーが首都の憲法制定会義から帰還するのを静かに待っている。ロシアでは民主主義の基礎が弱く、共和制は向かない。「強力な統制力を持った政治機構でなければならない」と筋道を立てて力強く弁じた。

1月19日 レーニン政府、憲法制定会議を解散

当時の武市の情況をみておこう。市庁とアムール州政庁は州のコザック部隊2000名(アタマン=ガーモフ)の武力を頼りにしているがコザック部隊は脱走兵続出で崩壊しつつある。ほかに市民自衛団1000名、旧帝政将校団、資本家団(金鉱山業中心)、官僚団がある。そのほか中国人7000名、日本人350名(3分の2は女性)と、もちろん35000のロシア人市民がいる。ボルシェヴィキ側には地方ソヴィエト、守備隊、水兵団、帰還兵農民団がいるが、それらの構成員はソヴィエト支持者であるが共産主義者とはかぎらない。
市内に敵味方が混在し、しかもかならずしも旗幟鮮明ではない。たとえば代理市長はソヴィエト出身だがエスエルでコザック幹部ともども日本の出兵を懇願している。双方武器が足らない。互いの武器庫から武器を奪ったり奪われたり小競り合いしているがまだ戦闘には至らない。

ムーヒンは自重する一方で市と州政庁に対してソヴィエトに行政機関と銀行を引き渡すことを要求した。職員は二派とも職場を放棄した。沿海州からボルシェヴィキの応援が来始めた。市当局とコザック部隊の要請もあって石光は居留民に働きかけて自衛義勇軍を編成し対岸黒河鎮からも応援を求めた。特務機関指導のもとに両義勇軍合わせて70名がもっとも先鋭で勇敢な部隊となる。一触即発の非常事態となった。

ムーヒンは不慮の衝突を避けるために護衛2人を伴って深夜石光を訪問した。護衛は事務所の階段を緊張で震えながら登った。彼は石光に言った。砲火を交える日が来ても外国人の生命財産の安全を守る決心だ。「その日が来たならば、日本人は各戸に日本の国旗を掲揚してください。万一、同志の中に無頼の徒があって、貴国人に危害を加えたならば、このムーヒンが無限の責任を負います」
ムーヒンを送り出したあと石光は部屋に戻って無量の感にうたれた。「ムーヒンに値する人物が一人でも共和国派や保守派にいるだろうか、と。いや、日本においても彼のように、己を棄て身を張って国家、民族のために闘える人物が幾人いるだろうか,と。もし彼がシベリア共和国建設のために身を挺するなら、私は現在の地位を去って、彼に一肘の力をかしてもよい、と考えた」

3月3日 ブレスト独露講和条約調印

3月5・6日、極東ソヴィエト代表クラスノシチョコフとムーヒン、シュートキンが政庁で代理市長と州会シシロフ議長に政権移譲を迫る。庁舎の外で砲兵隊(守備隊)、武装労働者が市民自衛団と日本義勇軍、それにコザック部隊、将校団とにらみ合いもみ合いを続けた。中山武官がこれらの部隊の戦術指導を行っていた。
「閃光と一発の銃声を合図に」どっと黒い波が市庁舎に殺到して3人のほかボルシィキェヴ10数名を捕縛して引き揚げた。これは「ガーモフの反乱」と称されることもあるがガーモフ指導の任を帯びていた石光機関が煽った蜂起であった。ムーヒンは「日本軍」が来た(次稿:ムーヒン調書)と供述している。砲兵隊も武装労働者も実力で取り戻すことをしなかった。水兵団は姿を現さない。
3月7日、石光はコザック幹部、代理市長、州会議長に会ってクラスノシチョコフたちの処置を問うた。処刑とコザック部隊の再出動を勧告したが応じて来なかった。石光はその理由を政権が温和なエスエルであることに求めている。
それだけではないと思う。ソヴィエト側が連合軍の派兵を恐れて平和的に政権交代を求めているかぎり、市民も、日本人会さえも、流血を望んでいないことは、石光もよく承知していた。クラスノシチョコフたちを人質にすると「赤軍を誘」って事態を悪化させるだけだ、と石光は脅かし扇動したが、処刑すればかつて石光が目撃したアムールの大虐殺の二の舞になることを想像しなかったのだろうか? 
大虐殺が起こるかどうかは指揮官次第だと私は思う。謀略は思考を麻痺させるようだ。流血をいとわないのが武人コザックなら納得できるが、そうではなく石光と武官と義勇軍であることに唖然となる。

3月7・8日、反乱側、停車場占領に続いてゼーヤ河港の水兵団を攻撃する。 
3月9日、それまで防戦していた水兵団が反撃を開始してコザック、将校団、日本義勇軍に死傷者が出た。反ボルシェヴィキ側は、百にも満たない(と義勇軍は自嘲気味に少なく言う)水兵団に苦戦した。氷点下40度に近い夜間の厳寒が休戦をもたらした。停戦会議は義勇軍鳥井代表の抵抗で散会になった。危うく義勇軍、自衛団解散の合意が回避された。
日本義勇軍3人の葬儀で反ボルシェヴィキ側は盛り上がった。
3月11日、コザック連隊は赤衛軍討伐の宣戦布告を発した。代理市長の非常訓令に応えて武器庫から銃を手にした大勢の市民がバリケードを築いて配置についた。
3月12日、クラスノシチョコフ、ムーヒン、シュートキンたちボルシェヴィキが獄中から奪回された。午前8時ごろ意外にも要所要所の大きな建物の窓が一斉に開かれ潜んでいた赤衛軍が路上を掃射した。「銃は棄てられ、雪は血を吸い、負傷者はもがき、死体は黒く散らばって、全市は一瞬のうちに地獄になった」
逃げることのできる者は皆凍結したアムール河を渡って対岸黒河鎮に避難した。コザック武隊は銀行から金塊(主に砂金)を取り出して「まっ先に」対岸に逃れた。
石光は赤衛軍の増援を得て優位に立つ敵と戦えばこうなるのは分かるべきだった。石光は戦の勢い、成り行きにずるずる流された。
義勇軍結成を容認した罪、武官と義勇軍の勇み立ちを指導しきれなかった罪、居留民総引き揚げの機会を失った罪、温和なエスエル政権を維持できなかった罪を背負って中島少将の居るハルピンに向かった。「日米間の微妙な外交交渉に不利を招き、陸軍が国から責任を問われるようなことがあったら・・・」自決しよう。

結局慰留されてまた黒河鎮に戻った。石光はハルピンで、シベリア共同出兵が内定していること、アタマン=セミョーノフ、東支鉄道長官ホールヴァトが反革命政府樹立を準備中であることを知った。
対岸の武市では市庁でムーヒンが、州庁でクラスノシチョコフが初めて統治の困難と闘っていた。コザックが避難するとき国立銀行から金塊3000万ルーブルを黒河鎮に運んだためムーヒンは給料の支払いに窮した。コザックは昔から特権で、農民は2月革命で、私有地を得ていた。武市は飢えていた。結局レーニン政府同様の共産主義的政策をとるほかに打開策はなかった。集団農場化と食糧徴収。政策が発せられるとムーヒン市長兼州長の人気が陰り始めた。アムール州26ケ村の村民大会は自治と赤衛軍解散を求め、農産物の供出を拒否した。
人気のあるアレクセーフスキー前市長が帰還と同時にソヴィエトに逮捕され裁判にかけられた。先の3月事件で市民自衛団を結成し3月事件を発生させた責任を問われた。かれは3時間におよぶ反レーニンの弁論で傍聴者をを熱狂させた。「昨日の友たる日本に刃を向け、勝ち見なき戦いを挑み、この上さらに同邦の血を流させんとするはレーニンだ。ロシアを亡ぼすもの、その暴君はレーニンだ」 裁判長シュートキン、陪席ムーヒンがひそかに姿を消すほどの名演説だった。アレクセーフスキーは4年の刑を宣告され下獄した。
石光によればシュートキンら強硬派による暗殺をさけるためにムーヒンがアレクセーフスキーを病人に仕立てて入院させたそうだ。ムーヒンは声明した。「彼は学識深く高潔な人格者である。このような人物はロシア広しといえども得がたい」
石光は80日ぶりに黒河鎮事務所から武市に赴きムーヒンと会見した。各地の反革命の烽火についての意見を聞くとシベリアをとられてもいつかは本国の手に戻る、と楽観論を述べた。この楽観論はロシア人に広く共有されているように私には映る。ナポレオン、ヒットラーを追い出した史実を思い浮かべた。

5月14日チェコスロヴァキア軍がチェリアビンスク駅構内で独墺軍捕虜と些細な衝突をした。独墺捕虜4万の内3万はボリシェヴィキ寄りである。チェコ軍6万は祖国の独立のためロシア側で独墺軍と戦った。レーニン政府がブレストリトフスク条約でドイツと講和を結んだため浦潮回りフランス経由で西部戦線に復帰する予定だったが不幸にも途次シベリア鉄道で「宿敵」独墺捕虜団とすれ違って喧嘩になった。武器に関する移動条件に違反していることをレーニン・トロツキー政府がとがめると、チェコ軍団は武装解除要求を拒否して蜂起し、瞬く間に西シベリア鉄道沿線を占領した。それが列強を連合させて干渉させる口実とはずみになった。
どのみち連合軍の干渉は避けられなかったと思うが慎重なレーニン政府打った不用意な一手だった。ボルシェヴィキがシベリアでも優位に立った後だけに軽率な判断が悔やまれる。
7月 チェコ軍浦潮ソヴィエト政府を打倒 赤衛軍西へ潰走 
   アムール・コザック(アタマン=ガーモフ)が黒河鎮に終結
   東支鉄道沿線のハルピン、チチハル、満州里にも日本軍と白軍集結
   (ホール
ヴァト臨時政府とセミヨーノフ頭領)
   西シベリア騒然 チェコ軍団猛威 ウラル・ソヴィエト皇帝一家を
   処刑
   
   アムール州騒然 農民・コザック村動員・供出拒否 鉄道従業員職
   場放棄 
中国人商人反抗 「ムーヒン紙幣」価値下落
9月1日 ムーヒン、ハバロフスク極東人民委員会議(議長クラシニチョコフ)から帰還し、西も東も戦況不利につき「東西から挟まれたアムール州の運命は迫っている。この際いたずらに州民の血を流さず政権を農民団に譲って一時退き、将来を期すべきである」とソヴィエトと軍事革命委員会に提案した。武市周辺の農民・コザック41ケ村代表がソヴィエトに対して政権移譲を要求した。エスエルのアレクセーフスキーが政権を引き継ぐことになる。

石光の使命は終わった。「蜀」(武市)は守ったが「漢中」(シベリア)での覇権争奪戦はこれからである。ムーヒン達政権側は戦わずに撤退しアムール州でのパルチザン活動に入る。石光は一人黒河を渡って州庁にムーヒンをたずね、別れの挨拶をした。ムーヒンは「一本のローソクでもモスクワ全市を焼くことができる」という諺を引いて勝利への信念を述べ真清に敬意と謝意を表した。真清は「私の生涯において、こんなに胸をうち魂をゆさぶられた経験はなかった」と友誼と邦人保護に感謝した。
「もし皆さんのうちで、将来窮境に落ちることがあったら、必ず私の名前を言って救いを求めて下さい。私は責任をもって保護いたしましょう」
ムーヒンはクラスノシチョコフにもらったステッキを記念に真清に贈った。

 ご子孫伝承のムーヒン形見のステッキ 

9月18日コザック・アムール隊と日本軍先遣隊が武市に無血上陸した。州会の推薦を受けてアレクセーエフスキーは市長兼州長に返り咲き、治安維持をコザック軍に依託し、州の独立を宣言した。日本軍の最低目標「地方穏健政権の維持、頭領の擁立、独立宣言」は達成した。かくて極東三州はボルシェヴィキから奪回された。
が・・・。
石光は任務解除を申し入れて逆に招集されてしまった。アレクセーエフスキー政権を盛り立てる任務を授けられた。
ところがハナから日本軍は占領軍のように振る舞い、やることが支離滅裂だった。
家宅捜査を行い暴行、金品略奪で市民の不信を招いた。武力で鉄道を占有し船舶と物資を徴発して市民生活を圧迫した。
アレクセーエフスキー政権はムーヒン政権と同じ苦境に陥った。奪われた国立銀行の準備金はホールヴァト政府に渡り還って来なかった。政権は、コザックと職員の給与支払いにも窮しムーヒン紙幣を増刷する始末だった。日本政府の経済援助は得られなかった。政権は崩壊するほかない。
石光は直接浦潮の大井師団長に以上のような事情を報告し崩壊を食い止めることができないならいっそ撤兵すべきだと越権の進言をした。
「君は誰のために働いとるんだ、ロシアのためか?」
「任務を解除して戴きます。不適任です」
「よかろう、辞め給え」
1919年2月11日、アレクセーエフスキーと石光真清は敗残兵のように寂しくブラゴヴェシチェンスクを去った。
アレクセーエフスキーはイルクーツクでオムスク政府最高指導者コルチャークの審問と極東共和国の創設にかかわったエピソードを遺して晩年をパリで過ごし交通事故で亡くなった。石光真清は事業の整理と借金返済に追われるも晩年を念仏三昧で過ごし機密書類を燃やして静かに激動の生涯を閉じた。
ムーヒンとクラスニシチョコフは・・・?

 


石光真清の手記/百年読み継がれる魂の自伝

2017-02-07 | 体験>知識

 石光真清 1868.10.15~1942.5.15 

「シベリアの冬は暮れやすく、人の生涯は移ろいやすい。青年将校の軍服を脱いでブラゴヴェシチェンスクに初めて留学した日から二十年の歳月が流れている」 石光真清は足掛け五十歳の身をふたたび諜報勤務員として同地に投じた。十月革命直後の1918年正月のことだった。
宿泊することにしたホテルは暴漢達に荒らされて支配人のほかにひと気はなかった。そこへズックの小袋を持った背の高い電気工が入って来て故障した電燈を直した。
「ポルコーウニック(大佐)よ、視察に来たのですか」 意外にも、短いほほヒゲのなかの顔が微笑していた。
「・・・・・・」
「大佐よ、貴方は私を知らないと思う。私も貴方に会うのは今夜が初めてだから・・・」
「・・・・・・」
「大佐よ、ロシア市民は苦しんでいます。・・・しかしわれわれには希望がある。大佐は帝政時代のわれわれの生活をよく知っていると思う。ロシア市民が今なにを求めているかもおわかりだろう。大佐は必ずわれわれを激励してくれるものと思う」
電気工は虚を突かれた石光をのこして微笑を浮かべて立ち去った。
「革命の嵐の中で幾たびか彼の頑丈な大きな手を握る日が来ようとは思わなかった」
アムール州ボルシェヴィキの指導者ムーヒンが石光の首実検に来たシーンである。
手記第4部『誰のために』の一場面である。

菊地先生に薦められていっきに読み通した手記4部作にはそれぞれに半世紀余り経った今でも鮮明に想いだすことができる情景がいくつもある。

第1部『城下の人』の城は熊本鎮台である。人は、官軍であり賊軍であり、あるいは真清と周囲の人々である。真清が10歳のときに西南戦争が起きた。真清が髷を結って朱鞘の刀を差して西郷軍の陣地に遊びに行った光景は鮮やかに憶えているが、この1冊が今行方不明のため会話までは確かめられない。官とか賊とか分類されても真清には双方に顔見知りがいる。世間が区分けしても、真清にまず見えるのは人間という大本の類、核である。真清の波乱万丈の生き方に流れるのは幼少年期のこの体験から発するヒューマニズムである。
もう一つ脳裏に焼き付いているのは真清が長じて青年将校として日清戦争中、台湾征討に従軍したときの一場面である。戦火の中を子供を背負って戦う母親の姿を真清がとらえて記録に遺した。女性子供も参加したゲリラ戦が石光の真心に響いたと思われる。生死を賭けた戦いの中で犠牲者さらには抵抗者に思いをはせる真清の生来の優しさをわたしは強く印象付けられた。この優しさが後年シベリアと満州で、ときには敵将兵に敬意を払う寛容な態度、時々頼ってくる馬賊、海賊の頭領、からゆきさんを親身になって匿い助ける温床となる。

  日清戦争 1894~1895

第2部『曠野の花』  馬賊・からゆき編
コリアをめぐる日清戦争で一番得をしたのはロシア帝国だった。三国干渉を経て旅順、大連を租借し、ザバイカルから浦潮を結ぶ東清鉄道敷設権を確保した意味は大きかった。シベリア鉄道のショートカットが満州を横断する。小さな寒村に過ぎなかったハルピンの一本の楡の木を目標に東西(浦潮~満州里)から鉄道建設が始まった。
日清戦争後、時代が要請するロシア語を学ぶために真清は参謀本部付予備役としてアムール河[黒竜江]北岸ブラゴヴェシチェンスク[略称武市]に留学した。軍役でないので私費である。真清の妻は借金返済のため生活に窮した。
武市はシベリア・ロシア軍の最大根拠地で、支配下に置きつつある満州に東清鉄道建設用資材・要員と軍需品・兵員を送る軍用港、貿易港だった。真清はその人と物資の流れを監視報告する情報員を兼ねていた。
列国の華北侵蝕に無論清国は抵抗した。瑞郡親王が「攘夷」を決行した。攘夷農民と義和拳法による義和団の乱が起こると日本軍が列強連合軍の主力となって鎮圧した。その後攘夷派官軍が黒竜江省の馬賊と結託して愛琿で蜂起を企図し武市に砲弾を打ち込んだ。その頭目が後述する女馬賊お花の主人宋紀である。チチハルを根拠に配下800名をもつと評判の宋紀はこの戦乱で落命した。お花によれば確かではないが武市に潜入して蜂起準備中に大虐殺に遭ったらしい。
これを機にロシアは大々的に満州侵略を強めた。武市の清国人3000人を全員「支那街」に封じ込め、安全地帯に誘導するという口実でアムール河岸に連行しカザック兵に虐殺させ老若男女一人残らず濁流に流した。真清の寄留先ポポーフ大尉一家のボーイもロシア官憲に指し出された。
ロシア軍は対岸の清国黒河鎮、愛琿城を焼き払い逃げ遅れた清兵、住民を虐殺した。愛琿の歴史陳列館には黒竜江に押し込まれる清国人の画像が展示されている。
撮影者の了解を得て掲載する。ロシア人の残虐性を読み取らないでほしい。ヒトの性は善である。状況次第で鬼にも仏にもなる。・・・と私は思う。日中ロ友好万歳!

チチハル公路を逃げる避難民の中にいたお花は、はてしなく続く一本の羊の群れのような避難民の列に追いかけて来たカザックが馬上から射撃を浴びせた、と語った。
「アムールの波」というワルツの名曲には罪はないが、万単位の犠牲者を出した「アムール流血の大津波」と名付けて記憶すべき大虐殺だった。
北満のロシア支配が確定した。同時に日本では恐露症と国難意識が深く広く浸透した。

官が国内流通を仕切れない時と所では馬賊、海賊が闇で流通を仕切る。割拠する馬賊が連携して「通行料」をとって道中を保護する漉局ルーチーとよばれる仕組みがそれだ。同様の賊はシルクロードにもシーレーンにも瀬戸内海にもいた。官が強くそれが途切れると集団強奪、群盗に変わる。鉄道沿線でロシア守備隊の手薄なところを狙って義和団を名乗る清兵と馬賊がロシア人を虐殺することもあった。
満州の馬賊は、清軍に、義和団の乱後はロシア軍にも、追われ、捕まれば即刻殺された。この第2部には馬賊のさらし首の写真が載っている。皆血を啜りあう盟約をして拷問にも口を割らず平然と斬られたと真清は云う。真清は馬賊の頭目を庇い尊敬と信頼を得て友誼を結ぶ。

真清は乱後浦潮に帰還し参謀本部に武市と北満の激変の情況を報告した。同時に現役に復帰してロシアが東清鉄道支配の拠点にしていたハルピンに潜行を命じられた。女郎だけでも100人居たハルピンの日本人だが乱後みな東に避難して、在留邦人は13名を残すのみだった。ハルピンの荒廃は推して知るべし。そこに至るルートも山地あり密林ありで険しい上に住民がみな避難していて鉄道工夫とそれを保護するカザック兵の他は馬夫か馬賊しかいない。
真清は決意する。「身を寄せる高い樹のない満州では高粱の陰に身を伏せ」ようと。ハバロスクで出発の手づるを求めている時に馬賊の愛妾お君と出会い、その頭目増世策を紹介されて同志となる。東清鉄道沿線と松花江沿岸で配下2000名を従える増頭目とお君の実行力がなかったら真清は単独行の任務を果たせなかったであろう。馬夫も支那宿の主人も増の賓客といえば跪座の礼で応対した。行路の情報も、ロシア軍洗濯夫になりすました旅券も船券も馬賊の人脈で入手できた。
途中金鉱から避難中の女郎3人の行倒れを助けた。自分は任務が大事だから、と私なら非情になるところだ。縁とは不思議なもので女郎の一人お米が後に瀕死の真清を牢獄から救出する幸運の女神になる。
ハルピンに着いて菊地正三の変名で洗濯屋になった。開業にあたり韓国人スパイがロシア軍に口利きをした。ロシア軍人を得意先として洗濯屋は大繁盛し、訪ねて来た女馬賊お花を番頭にすえた。義和団事件以来の再会だった。
余裕ができた真清はロシア士官にもらったパスポートで商人を装って視察旅行に出かけた。情報を収集するためだけでなく人脈を広く太くするためである。増頭目の護照とパスポートが効いて馬車もカザック兵の哨舎も利用できた。
だがその先は通行厳禁で1週間以上逗留している時清兵と馬賊らしい部隊が哨舎を襲った。露清の争闘に巻き込まれた真清は日本人を名乗る韓国人露国スパイと疑われて獄舎に放り込まれた。そして1日5個の饅頭と一杯の水を与えられる以外はまったくの放置状態に置かれた。衰弱死を待っていたのであろう。
痩せて骸骨みたいなって朦朧としてぼんやり格子越しに外を見ていた時一人の婦人が通りかかった。行倒れを救われた後行方不明になったお米だった。お米は戦乱の中真清を探し回るうちに拉林馬賊の頭目宋の妾婢になっていたのだった。事情を聴いて宋頭目は間違いを謝罪し、真清が持つ増頭目の護照をみてかしこまった。頭目はお米の旅費を出して帰国を勧めた。
真清も同意見で諜報の報告と相談を兼ねて一時浦潮に帰還することにした。
浦潮に行くには厳冬の老爺嶺の嶮を越えねばならない。真清は闇夜の密林の中で焚火用の枯れ枝を探しているうちに命の恩人お米が失踪したことを知る。自身の体力の限界を知って真清の身を思っての行動であろう。大頭目増の処刑を耳にした後だったので真清は二重に打ちのめされた。

大病をはさんで、牢獄、難旅行でいくたびか死線を越え死地を脱した末、真清はひとり浦潮に帰還した。命の恩人お米をくにに還してやれなかった真清の無念が思いやられる。
浦潮は当時ロシアの動向をにらむ日本の情報機関、商務官、商人、大陸浪人の根拠地であった。町田少佐、武藤大尉に石光大尉が満州情勢を報告して協議の結果つぎの結論に達した。「ロシア軍の満州占拠は既に経営時代に移って本格化して来た」 情報網を黒竜江北岸のロシア領と全満州に張り、中心をハルピンとし、そこに商館を設ける。
かくて石光の新任務は単独情報収集行から諜報網組織者に変わった。

第2回ハルピン行きである。ハルピンは避難していた人々が帰還しロシア商人も来始めて騒動前の賑やかさを回復していた。日本人も200名を優に越していた。真清は文字通りの軍資金3000円で写真館を開業した。ロシア人の信用を得て軍と東清鉄道の御用も務めるようになった。洗濯屋はお花に任せた。

ハルピンの菊地写真館は繁盛し館員10人の大所帯になった。横河・沖の志士、二葉亭四迷等の浪人、駐露武官を離任した田中義一が寄宿し、小さな梁山泊の観があった。大庭柯公が日本人会に事務員として寄宿していた。
要所大連に写真館支店を置いたのをはじめ、ほぼ満州全土と武市に諜報網を張り巡らした。ロシア軍の守備地と東清鉄道の写真、地図、満州経営の進行状況を参謀本部に逐次送った。

真清は再度南下の旅に挑戦することになった。洗濯屋を日本商人に売却した譲渡金と儲けの金をお花に渡して帰国させることにした。旅の手配はお花がした。ロシア軍の請負馬車隊の炊事係という触れ込みだった。カザック兵の護衛付きである。視察しながら南下したが長春、奉天に近づくことはできなかった。列強のスパイに漏れてはならない第一級のロシア軍事機密がそこにあったからである。
西に方向転換してチチハルをまわってハルピンに帰り通常のルートで浦潮に還った。お花とは永久の別れとなった。お花といい山塞に潜伏しているお君といい何とたくましい生き方であることか! 真清はこの逞しさを「無知の胆力、実行力」と敬意をこめて表現した。 

1904年が明けるころにはハルピンの邦人のうち婦女子はほとんど引き揚げてしまった。
増世策、宋紀は道半ばで斃れてもういない。石光はひそかに傳家旬の頭目・王尓宝を訪ねた。延吉の孫、五常の唐、呼蘭の高と鳴りを潜めている大人の名を挙げて開戦時の決起を促した。「私の考えは彼らが団結して蹶起するならば、帰国を見合わせて、彼らの一団に身を投じ、ロシア軍の輸送を妨害する計画であった」

第3部『望郷の歌』  日露戦争~海賊編
日清戦争に勝って韓国支配を強める日本であったが、清国はさらに弱体化し、三国干渉により地歩を固め満州を制したのはロシアであった。義和団事件でも日本がロシアのために露払いをしたことは上記で観たとおりである。
ロシアが満州を軍事支配すれば日本の韓国支配が危うくなる。日本が韓国を軍事支配すればロシアの満州支配がヤバくなる。にらみ合いの末国交断絶となった。
   日露戦争 2004~2005

そして物力で劣る方にありがちなサプライズ・アタックで火蓋が切られた。
1904年2月11日 対露宣戦布告
真清はハルピン写真館を閉じて帰国の途に就いた。日本は桜が満開の季節だった。
石光は帰国と同時に召集され第2軍司令部付副官として参戦した。緒戦の激戦南山戦を詳しく描写している。機関銃対銃剣に象徴される「肉弾戦」だった。「さっさと逃げるはロシアの兵 死んでも尽すは日本の兵」と数え歌で歌われ、わたしも親が子守唄代わりに歌うのを聞いて育ったが、戦勝国のおごりが歌わせたものだ。日露戦争はまさに死屍累々たる死闘だった。石光の筆の運びには始終おごりがない。

1906年正月に石光は凱旋した。石光が心の中の空虚に気づき始めたころ、参謀本部の田中義一大佐が石光の諜報活動に報いるためか、対満方針が決まるまでしばらく関東都督府陸軍部で通訳として待機してもらえないかと勧められた。
後の関東軍となる司令部に出頭すると「書類の整理でもやってもらおうか」と命じられた。即辞表を出して旅順の街にさ迷い出た。軍は戦前とは「較べものにならないほど組織化され規律化されていたのである」

真清は軍が満州で市民を敗戦国民扱いしているのをみて心を痛めた。そして自分のみじめさにも嫌になった。両手に余るほどの商売に手を付けたが一つも生業にならず無一文になった。「満州ごろ、満州浪人・・・あゝ嫌だ」
そして渤海湾の海賊を匿った縁で海賊の客人になった。その間ルーチーに替わる日支合弁の海上保険公司を作って海賊を真っ当な生業に就かせようと夢のような企画を立てて清国奉天政庁に働きかけた。そして頭目2人の名を不用意にもらしたためにその一人高景賢を誘殺されるという取り返しのつかない大失態をやらかした。
さらに戦前写真業をロシア軍に売り込んでくれた大恩人の東清鉄道庶務部長アブラミースキーの信頼を企画の頓挫で2度裏切って絶交された。
絵に描いた餅では算盤を弾けなかった。自信も信用も失った真清は失意を抱いて日本に帰るしかなかった。

1909年 世田谷村で三等郵便局長
1910年 韓国併合
1914年 第1次世界大戦
1917年 十月革命
 

日本は、第一次世界大戦が勃発してアジアで欧州列強の力が手薄になった隙をついて中国に対して屈辱的な対華21カ条の要求を突き付けて中国侵略の大きな一歩を踏み出した。
世田谷で日々これ好日の幸せに浸っていた真清にまた関東都督府から渡満の誘いがあった。満蒙貿易公司の錦州商品陳列館開設事業である。その事業が成功し繁盛していたところに参謀本部次長に出世した田中義一の直々の指名で出頭命令が来た。用件は十月革命直後のロシア潜入だった。[次稿 手記第4部 に続く]


大庭柯公『露国&露人研究』(1925)/久米茂『消えた新聞記者』(1968)

2017-01-21 | 体験>知識

 大庭柯公 1872.8.30~ 1923? 1925年1月遺族・知友150余名参列追悼会開催 同年全5巻柯公全集刊行
『露国と露人研究』については元外交官佐藤優氏が「外交を読み解く10冊」に推薦している。世界のヤルタ体制秩序が危機にさらされている今日政治・外交人と経済人と一般市民が押さえておくべき世界常識が詰まっている古典である。上記の巻をわたしは《一人で編んだロシア百科》と思いながら読んだ。

明治時代は列強帝国主義の時代である。日本帝国は南下政策をとるロシア帝国を将来の「深憂大患」ととらえた。志ある若者が将来に備えてロシア語を学んだ。石光真清もそうだし、上記引用語を用いた二葉亭四迷とその後輩大庭柯公もロシア語に堪能だった。三人ともヨーロッパから極東まであちこちに足を踏み入れていて国際事情に詳しいだけでなく情報通、軍事通なかでもロシア通だった。仕事もそれと固くつながっていた。
柯公は通訳のキャリアをウラジヴォストーク(浦潮)で始めた。日露戦争に参謀本部通訳として従軍した。以後大阪毎日特派記者として巡洋戦艦「生駒」に乗船して北米を除く四大陸を視察している。ブラジルの記事もある。
第一次世界大戦では東京朝日の特派員としてペトログラードを起点にロシア軍に従って西部戦線を視察した。世界初の大戦は人類史上最大の惨禍をもたらした。柯公はドイツ軍が撤退したワルシャワ郊外の林間でドイツ兵の仮埋葬の跡を見て「正視にたえない」むごたらしい状況を見た。そして削った木片にドイツ語で記した「ロシア兵戦死者此処に眠る」の標識を頂く大きな土盛りを二か所発見してその感動を「特記」した。
かれは野蛮な戦争の最中のあわただしい瞬間にも文化の花がちらりと垣間見えるのを見逃さなかった。人類学者が洞窟でネアンデルタール人の化石と一緒に大量の矢車菊の花粉があるのを見落とさないごとくに。
 

 彼の思想はいかに? 富国強兵を目標とする教育の中で育った明治知識階級の青年と同じ思潮の流れに彼が逆らうはずもない。当然かれにも国家主義的時代思潮に浴した半生があった。時代の風に応じて自由民権、ついで民本主義、社会主義、共産主義の空気を呼吸しても不思議ではない。
人道主義だけは一貫していると思う。トルストイとレーニンを対比した政策論「杜翁と露国革命」を参考にした。
大正デモクラシー時代、長府出身の柯公は言論人として元老山県有朋率いる長州閥を弾劾した。彼が所属する朝日の大坂本社が大正デモクラシーの先頭に立って立憲主義・憲政擁護の旗を振り、藩閥政治を攻撃した。山県がごり押しして擁立した寺内内閣のシベリア出兵と米騒動の報道禁止を糾弾している中で白虹日事件(1918年8月末~12月)が起きた。
うっかり、白虹[白刃]日[
始皇帝]を貫けり、の故事を用いて、国体の虎の尾を踏み、新聞紙法による発行禁止の危機に直面した朝日新聞社は政府に屈服した。柯公は長谷川如是閑、大山郁夫と共に朝日を退社した。そして雑誌『我等へ』を1919年2月に発刊した。
1919年9月 読売入社
1919年12月 黎明会創立をリード(民本主義)
1920年8月 日本社会主義同盟創立大会発起人[弾圧厳しく21年5月末解散命令]
1921年 雑誌『改造』に維新論掲載
「攘夷派成功の維新」から断片を引用して柯公の思想の到達点を知る手がかりとしよう。明治維新では攘夷を掲げて朝廷を動かした薩長土がより開明的だった幕府を倒した。維新の精神は「単に王政復古にすぎない」 新政府は「ただ泰西文明の皮相外形のみ」をとって「実は依然たる旧式の専制政治であった」 「広く会議を興し万機公論に決す」のご誓文に違反して、出版、言論の自由を封じて、世界思想である「世界主義、科学主義、民権思想」を踏みにじり、それは大正の今日まで続いている。
国権党の腐敗堕落はひどい。東京遷都の翌月に築地に新 島原遊郭を築いたことが待合政治の濫觴となった。民権派、世界主義派、文化主義派も堕落豹変し「帝国主義の宣伝者」「軍国主義の謳歌者」となった。黒船から半世紀余の今、二大潮流が再度「その海岸を洗うとしたならばどうであろう?」

1921年5月15日 読売特派員としてソヴィエト・ロシアに向けて出国
2か月後読売紙上に第一報「見たままの極東共和国・・チタを発するに臨みて」が載った。彼の極東共和国観はモスクワ政府の「出店」でも独立共和国でもなくその合体「共産主義政治といわゆる民主政治の両頭の蛇」であった。それより前にも求めに応じて機関紙「極東共和国」に同趣旨の寄稿をしている。議会制民主政治を標榜する共和国の面目丸つぶれである。
外相ユーリンとの会談では、三井と大倉両財閥について詳細に尋ねられたことをもってチタ政府が外資導入に熱心である証左としている。柯公は極東人民の忍耐力、協同組合の実情を述べたあと極東露人が「耐久的にある新しい政治及社会組織を打ち立てること」に邁進しているから、日本も遅ればせながら外交・経済の代表団をチタに派遣すべし、と勧告し、いきなり、[消極的な日本政府を念頭に置いて] 「ウンゲル*などは問題でない」と記事を結んでいる。
*1921年2月、ウンゲル男爵率いる白系露人とモンゴル系諸族の軍がウランバートルを一時占領した。軍人含む日本人「国士」数十名が満蒙「独立」を目標に日の丸団なる隊を組織して参戦した。日本による満蒙独立工作の一環として初期に起こった闖事。
これが柯公の最後の記事となった。とってつけたようなデスクの編集がかえって柯公の悲痛な心情を際立たせていないだろうか?
柯公はアメリカ帰りのクラスノシチョコフ共和国首相[後稿に登場]に面会できなかった。首相にしてみたら自ら主導して建国した民主共和国を「モスクワ政府から派しておるが独立の共産主義を実行せんとするものと観察」する記者に用はない。真正直に述べるあたりに柯公の真骨頂と露西亜革命への真情を感じて痛ましい。

柯公の革命に対する入れ込みようは尋常でない。彼はロシア革命を世界革命史の枠組みの中で縦横に叙述している。唯一の柯公伝記を著した久米茂は、柯公のこうした叙述法を「過去を論じて、現在と未来に及ぶ筆鋒である」と書いている。
縦の軸はフランス革命の影響を受けたロシア士官達のデカブリストの乱が原点である。ツアーリに処刑された男女革命家の逸話が登場するが私の世代はすでに名前までは思い浮かばない。ゲルツェン、バブーフ、クロポトキン、トルストイと後になるほど思い当たることが多くなる。
横の軸は幕末の革命運動、明治維新である。ここではかれが吉田松陰に心酔し、萩の乱で散った前原一誠を尊敬し、乃木夫妻を親しく敬慕したこと、それに『貧乏物語』の河上肇の影響を受けたことを記すにとどめておく。
柯公はロシア革命と明治維新をともに革命と規定して、わかりやすい対比でしかも肯定的に叙述している。たとえば、プレハーノフ=佐久間象山、吉田松陰=ケレンスキー、レーニン=高杉晋作、トロツキー=前原一誠、という風に。名が挙がっているのは世界主義者ばかりである。
柯公の松蔭論から類推すると、彼が長生きしていたら、彼の両革命論はより現代的な様相を呈しただろうと私は想像している。
内戦終結=新政府勝利、レーニンの死→「世界革命」路線の挫折・党内闘争でトロツキー失脚→スターリンの独裁→ソ連の工業化→独ソでポーランド分割→独ソ戦・世界大戦Ⅱ
松蔭の死、戊辰戦争終結=新政府勝利→征韓論敗れて西郷の下野・伊藤初代総理
→藩閥専制→富国強兵→日中戦争→太平洋戦争・世界大戦Ⅱ
安保闘争の前後日本ではレーニンの革命はスターリンにより裏切られたとする裏切り史観が一部で有力だった。柯公は松蔭を敬愛し、その門下生が創った長州閥が軍閥、財閥としてシベリアに出兵し腐敗堕落したことに我慢ならなかった。とくに立憲政治の陰で国政を牛耳った元老山県を松蔭魂を裏切った大悪人として弾劾した。十月革命裏切り史観に通じる維新裏切り史観として面白くはないだろうか。
 

  久米茂  1923.7.11~
忘れられた新聞記者のままで終わらしてはいけない、戦前戦後の優れたジャーナリスト 『深夜通信』主宰者
  

今回久米茂『消えた新聞記者』(1968)を読み返して自分の有効視野の狭さを痛感している。著者とは『深夜通信』をとっていたつながりで交信があったが、当時私の関心が大庭柯公の消息に絞られていたため、大庭柯公の業績と消息を伝えようとする中で著者がみずからの元新聞記者としての体験に基づいて論じた明治大正期の言論人の心意気と奮闘をまったく読みとれなかった。
この本は大庭柯公の唯一の伝記であるばかりでなく日本言論通史としても秀逸である。憲政擁護運動、米騒動、白虹事件の章からは著者の高ぶる興奮を感じ取った。
さて柯公の消息を調べた人は多いが『消えた新聞記者』に付け加えるべき足跡を遺した人はゼロである。この本に収められている以上の証言、資料はまだ出ていない。終焉の地も没年も死因も不明のままだ。百千の知友をもつと云われた柯公が経験した救いのない孤独死を想うとやりきれない。

柯公の長所が暗転した環境、タイミングに一言しておく。
1)柯公が入露した1921年夏は中平亮が予言した農民反乱の鎮火に赤軍とチェー・カーが最後の攻勢をかけていた時期と重なる。大飢饉で数知れない餓死者が出ていた。レーニンは反乱側に団結した政治指導部がなかったことがボルシェヴィキ権力の維持に幸いしたことを誰よりも本能と予見力によって理解していた。
世界に飢餓救援を訴える一方で同夏知識人大追放を号令した。帝政時代の将校、官吏、僧侶、学者、立憲民主党=カデット、メンシェヴィキ、社会革命党=エスエル、アナキスト
・・・つまり将来反革命の頭脳、中核になりうる階層の予防粛清である。西側と中国、日本への大亡命がこのころ起きた。想像の域を出ないが柯公の不運をレーニンの脳卒中(21年5月)がダメ押ししたかもしれない。
2)そこへ信任状を持たない、日露戦争、世界大戦の戦場を経験した軍事記者が疑わしい日本人二人とやってきて、知己の帝政時代の軍人やスイス時代のレーニンの同志であったメンシェヴィキ=チュジャーク、エスエル系外務要員ポポーフと会っている。物怖じしない、無邪気に誰とでも友好を結ぶ彼の記者としてのコスモポリタン的長所が禍に転じた。
3)チタに居た日本人8人の内3人は柯公達で、他の5人は特務機関員だった。柯公は足止めされている1か月の間に暇つぶしにたびたび彼らと懇談した。悪いことに、同姓の大庭二郎中将*が2年前第3師団長としてチタの在るザバイカル前線で革命軍と交戦していた。
*後述するチェキスト・トリリッセルがシベリア軍事委員、ザバイカル前線参謀長として大庭師団と一時戦った可能性がある。トリリッセルは大戦中露軍観戦団に大庭武官と大庭記者がいたことも当然承知していたと思う。

やがて柯公はチタでの疑いが薄れて21年夏モスクワに移った。途中イルクーツクでも取り調べを受けた。ほぼ同じころシベリアから特務通のトリリッセルがコミンテルン極東課とチェー・カーの主任に抜擢されモスクワに赴任した。モスクワでは柯公は共産主義インターナショナル(コミンテルン)指定のホテル・ルックスに宿泊した。「プラウダ」紙に原敬暗殺と日本政界に関する記事を寄せた。それがコミンテルンの機関誌等に転載された。「コミュニストでないのに何で厚遇・・・」と周りから見られた。
そして1922年1月の極東諸民族大会に通訳なら、と出席を認められた。このころ日本共産党はあってなきが如し、日本からアナキスト、サンディカリストが優勢で6人、コミュニストが2人、アメリカから社会主義者4人が日本代表として大会に参加したが、だれも柯公を信
認できない。在米コミュニストでコミンテルン役員の片山潜、田口運蔵とて同様だったので柯公サポートに積極的でなかった。
22年3月外国人によるヴォルガ飢餓視察団に加わりカザンで「生き地獄」を観ている。その帰途、駅員に一人だけ切符の件で無視されて視察団から取り残されそうになった。柯公にとって不都合な何か決定的なことが起こったのだろうか? シベリア出兵の前兆期(1918年前半)に出兵を推す論文を発表していることが響いたのか?
柯公と最後に別れた同宿者アナキスト和田軌一郎『ロシア放浪記』に拠ると柯公はただならぬ気配を察知して帰国をあせった。外務省からもコミンテルンからも厄介者扱いされた。4月末ようやく旅券が下りたが出発間際に駅で逮捕された。てっきり出国したと思っていた和田の元に、5月中頃、ブティルカ監獄に居る、パンの差し入れなりとも頼む、という走り書きの手紙が届いた。
和田は後から入露したアナキストの高尾平兵衛と共に田口と片山に働きかけた。ゲー・ペー・ウー[チェー・カーの後身]外国課長トリリッセルに掛け合った。高尾の抗議書と片山、田口の請願書を提出して、すぐ釈放する、出獄後の責任は日本の同志が負え、という言質を得た。だが柯公は還って来なかった。22年7月末のモスクワを最後に柯公の消息は途切れてしまった。11月15日出獄、移送の証言もあるが真偽不明である。

田口運蔵の著作『赤い広場を横切る』(1930)に前稿でふれた元仏空軍パイロット新保清
との出逢いの記事がある。

  出典 土井全次郎『西伯利亜出兵物語』(2014)
21年の夏、ブティルカ監獄から釈放されたばかりの新保清がボロボロのルバシカをまとった恰好で、ルクス・ホテルに田口を訪ねて来た。
「・・ね、旦那いや同志、私を日本へ帰してくれませんか?」と哀願した。田口は「私はロシアの役人ではない」「コミンテルンに責任がある身体だからめったなことはできない」とすげなく断った。田口が記した、猿、ネズミ、浮浪者、日本人の恥さらし、とかのひどい形容表現の奥に権力者対困民の構図が見える気がする。
柯公も新保も、帰る旅費はおろか食費に事欠き、孤独のうちに衰弱死したと考えられる。
モスクワの文書保管局には両名のファイルがあるはずだ。究明が俟たれる。


 

 

 

 


中平亮『 赤色露国の一年』(1920)/百年検証に耐えるルポルタージュ

2017-01-01 | 体験>知識

2017年 めでたくもありめでたくもなし
昨年4月少年サッカーの指導から引退した。時間の余裕ができたかと云えばさにあらず、103歳近い母親の介護を妻と分担しなければならなくなった。私は丸一日は外出できない。身長148足らず、体重40未満の寝たきりの母を座らせたり寝かせたりする困難を毎回実感している。誰もが通る道、老々介護は厳しい。介護士の苦労が思いやられる。
2017年はロシア革命100周年である。世紀の歴史的事件だから各方面で大所高所からの論評があってしかるべきだ。
わたしはブログで1964~68年頃の自分の研究を主幹にすえて体験的枝葉を綴るつもりだ。
ロシア研究会で菊地先生が推薦した大阪朝日中平亮記者の十月革命実記をその後読んだ。実記といえば学生時代に読んで青年のロマンティシズムをかきたてられたジョン・リード『世界を揺るがした10日間』 トロツキー『ロシア革命史』 ショーロホフ『静かなるドン』*だが、いずれも革命の悲惨と艱難を乗り越えていく指導者と民衆群像をリアルかつ肯定的に描いている革命賛歌である。

おっと、これはノンフィクション風大河小説だった。
賛歌だからといって食わず嫌いはいただけない。勝者が編纂した歴史例えば維新史をわれわれは飽きもせず常食しているのだから。
児童文学『ツバメ号とアマゾン号』シリーズの作者アーサー・ランサムのルポルタージュ3部作は一冊に収めた単行本で読んだ記憶があるが優れた記録文学である。
ロシアの真相(1918年4月末執筆)は文学の香りがして一味違う。
一九一九年のロシア、六週間 (1919年6月) 旅行日誌風政治的論文ロシアの危機』(1920年初夏~執筆) 経済危機を扱った論文

 中平亮  1894.1.1~1981.3.8  土佐のイゴッソ  忘れられた新聞記者  ニコヨン生活  新聞訃報無
中平亮『赤色露国の一年』もまた優れたルポルタージュである。復刻が望まれる。
若手記者として1919年5月末にウラジヴォストークから入露した。白軍と赤軍が戦うシベリア戦線を突き抜けて、銃殺寸前の死線を越えた末、モスクワに入ったがすぐ非常委員会チェー・カーの尋問、尾行を受けた。
スパイ嫌疑から逃れるために西のポーランド軍と赤軍が戦っている前線=「国境」に向かって徒歩脱出した。鉄道と鉄橋は検問に引っ掛かるから徒歩、渡渉による逃避行だった。逃避行ゆえに彼の体験記は取材制限を受けてない稀有の記録となった。
ロシア農民の親切に救われたり狡猾に金をかすめ取られたりしながら前線近くでついに拘束を受けた。連行する民兵から銃を奪って一度は逃れたが結局当地方ソヴィエトに逮捕された。そこはボルシェヴィキ支配下のリトアニア[現バルト3国の一つ]だった。
その間1か月半1000キロを歩き、着の身着のままで垢と南京虫にまみれた幽鬼のような恰好だった。
結局モスクワに護送されブティルカ監獄に拘禁された。そこでチフスにかかり死線をさ迷った。
レーニンとトロツキー政府の対外政策が変わりつつあった。日本人としての利用価値が出て来たのだろう。地方のサナトリウムに送られた。そこで、5か月ぶりに、風呂に入り着替えて散髪した。
3か月間療養の後3月1日モスクワに戻った。陸軍大学で日本語を教える「お役人」としてささやかな衣食住を与えられた。そこでかれは東大卒の日本研究家エリセーエフと懇意になった。彼は流暢な日本語でボルシェヴィキは「(赤いから)金魚のようなものです。煮ても焼いても喰えません」と批判した。
白軍の脅威が遠のくと政府の方針が変わり、中平はスパイ容疑者から外国通信員、時には「日本革命家グループ代表」として、遇されることになった。
1920年6月3日、日本の新聞記者として初めてレーニンに面会した。レーニンの主たる意図は、シベリアを念頭に置いて、戦争を望まない政府の姿勢を日本にアピールすることだった。レーニンとトロツキーの承認のもと、シベリアに共和制の緩衝国家「極東共和国」が建国されたばかりだった。
クレムリン内のレーニン執務室の隣室では女性ばかり20人ほどが執務していた。それと、執務室の入退案内係が背骨が湾曲した婦人*であることに中平は強い印象を受けた。
上掲赤露記では「せむしの女」となっている。 インタヴィユーの原稿見本では「せむしの老婦人」だったのを目を通したレーニンが削ったが中平が復元させて出版したことを『レーニンと会った日本人』の著者、ソ連記者アルハンゲリスキーが確認している。記者によると老婦人ではなく愛くるしい気立てのよい30歳に満たない女性で名前はグリャッセルである。
案内係ではなくすべてを手配する秘書である。レーニンに指示されて人民委員会と党の公文書に付けるプロファイルの様式を作成したのは彼女である。何時、誰が、どう遂行したか、後日検証し責任を明確化できるようになった。歴史を探求するわれわれも恩恵を受けている。
中平記者は「兵卒上がりの低級な人々」「低級な民衆」とかいう言葉*を使うこともあるが赤露記に関するかぎり人種、国籍、貧乏に対する偏見がほとんどない。
*差別語「露助」「土人」も注意して読み返したら一つ二つあった。
私がこのたび中平亮を記事にする理由もそこにあるが、ほかに彼の特異さもある。表現が誠実で冷笑的でない。自分のイデオロギーで対象をみるのではなく事象をありのまま描こうとしていることに好感がもてる。
かれはロシアで主として辺境と末端を見聞していたためボルシェヴィキのコアな支持者にほとんど出逢っていない。だから食料徴発と飢餓、配給制度と行列、物資の横領、担ぎ屋と闇商売、それに労働意欲の低さと規律の紊乱、反ボル感情の蔓延をおもに記事にしている。
一例をあげる。彼はたまたま元地主の息子が指導者である共産農場コミューンに行き遭っている。政府の援助で物質的に別世界であるが恩恵を受けている当の百姓たちは収穫を向上させても私有、商売ができないことと自発的でない義務労働に不満を抱いていて自立、個人農の制度を夢見ている。

 彼はまた政権の看板「労農同盟」にはほとんど触れていない。工場労働の現場を見聞、体験していないからかもしれない。かれは労働者に労働意欲がなく規律がないから工業もかならず衰退するだろうと想像し、その根拠を、モスクワで当時出逢った飛行士新保清の模範工場体験談をもってしている。
ちなみに新保清はフランス軍パイロットとして大戦に従軍してドイツ軍の捕虜生活を経て帰路ソヴィエットに入ったらしい。2年後(1922年) スパイ容疑で逮捕され消息不明第一号となった。第二号は逮捕されたあと(1922年)行方不明になった読売記者大庭柯公である。真相追及が待たれる。文書保管局に中平ファイルがあるのだから両名のファイルもあるはずだ。 
第十八章「過激派とは」は冒頭2ページ弱を残すのみで6頁近くが内務省検閲の結果白紙になっている。全章にわたって掲載された事実項目(ほとんどが失敗に終わりそうな制度、政策)だけでも大正デモクラシー下の社会運動を刺激する*に足りると思うが、それ以上に見過ごすことのできない、削除しなければならない危険な主義主張、論評、事実が原稿にあったのだろうか? 
8時間労働制、男女平等、無料の普通教育等は十分に刺激的だった。
中平はボルシェヴィズムは「日本の国体と国民性」に合わないと断言している。天皇制には直接は言及していない。だがレーニンが会見で質問書に答えるより先に開口一番「日本には地主的権力階級があるかと問うた、それから日本の百姓は土地を自由に持っているか・・・」と問うたことに中平は強く反応している。地主-小作制が天皇制の揺るがぬ基盤だったことを考えると、このテーマを赤露記原稿で掘り下げたために国体に抵触したかもしれない。
中平は1918年1月にウラジヴォストークに記者として赴任しているから日本軍のシベリア出兵を最初から取材していると考えられる。また白軍が民衆の支持を失って敗退していく過程を目の当たりにしてその敗因を記事にしている。だが日本のシベリア出兵には触れていない。レーニンが会見で口にした緩衝国家についてもやはり一言提言して国策に触れたかもしれない。実際官憲が目を剝くような中平の署名入り反戦ビラの長文原稿がロシア文書保管局にあることを記者が発見した。
「同志日本の兵士諸君! 1918年の秋、諸君らはチェコスロヴァキア軍団救援という口実のもとにシベリアへ派遣された。だが実際には専制政府とロシア人、外国資本家による搾取から自国を解放するために闘うロシアの革命家を弾圧するために派遣されたのである。・・・」(1920.3.23)
ルシェヴィキ政府は、内戦勝利の見通しがついても、極東の日本軍を武力で追い出す余力がなく、平和的撤退を求めていた。中平はシベリア出兵には大義がないと確信していた。両者の思惑が接近して上記の反戦ビラ原稿となったと思われる。もちろん外国通信員は政府の管理下にあったから原稿の内容は中平の本心ではないということもできる。
そして6月3日にレーニンとの会見が実現した直後に帰国の途についた。

 1920.8.10 ハルピン帰着

中平亮は何者か?菊地先生は、戦後の中平を指して侘び住まいのナショナリスト[国家主義者]と言った。かれの思想は共産主義ではない。理想はよいが民度が低いロシアでは実現できない、「労農政府」は外圧がなくなると民衆暴動により内部から崩壊するだろう、と結論している。運輸(鉄道、荷馬車)の障害もあって食料と燃料の不足が極限に達し、ロシアは来るべき冬を無事越せない、と正しい状況判断をしている。
敗戦日本では物資はあるところにはあったが、勝戦ロシアにはどこにも何もなかった。象徴的な表現だが、種子も釘もなかった。内戦続きと徴発と徴兵で農村は荒廃の極に達していた。工場も操業停止状態で、農村からの食糧の対価となるべき工業製品も払底していた。労働者も飢えていた。
中平はまた赤軍がポーランド軍に大敗したことが長期の従軍で疲弊した兵士の不平を充満させ暴動の契機になると分析している。「暴動が勃発し得るのは此の時である」
中平の観測通り、1920年から21年にかけて、ペトログラード労働者のヤマネコ・スト、「十月革命の栄光」クロンシュタット水兵の反乱、タンボフの農民反乱、黒軍マフノの反乱が起きた。レーニンはそれらを反革命と断罪し赤軍を動員して厳しく鎮圧した。
ボルシェヴィキ政府は穀物等の割当徴発制より現物税制への移行、小規模経営の復活、いわゆる戦時共産主義から新経済政策NEPに方向転換した。

 中平亮は1931年、満州事変の後、朝日「局内の右翼と衝突して」(記者前掲書)朝日新聞社を去った。事件との関連は不明である。事変が軍部の陰謀だったことは今では常識だが、たちまち世論が沸騰した。一夜にして「朝日」が戦争扇動に変身した。知識階級は沈黙させられた。中平はそれらを正常化したと歓迎した。出典 中平亮『大亜細亜主義』(1933)
わたしは大アジア主義を研究したことがない。中平によれば「まとまった理論として発表されたもの皆無である」 日本が先導して西欧帝国主義のくびきからアジア人民を解放する、という中平の大アジア主義の大義名分は、右翼から軍部、政府、新聞・ラジオ、民意まで共通である。それは西欧帝国主義の言い分と大同小異である。文明人が東洋の野蛮人を教化する、武力に訴えても、という点で。

同著書によれば、中平は大アジア主義のひらめきを決死の逃避行の最中で得た。わたしはその体臭を彼の帰路の記事ではじめて嗅いだ。帰りはオフィシアル・コースだ。日本外務省の用命した馬車で蒙古平原を突っ走った。使命を果たした満足感からか、歴史の検証に耐えうる記事を書こうとする緊張感から解放されて、遊牧民について垂れ流しの与太記事を書いた。
モンゴル遊牧民は旅人をパオに泊めて歓待する。妻や娘を提供する。都会でも淫売は細君連の内職仕事だ。性風俗が乱れて99%が梅毒に罹っている。
文明のない辺境は中平には文化がないと映るようだ。当時の知識人はみなそうだった。西欧のキリスト教徒が幕末の江戸の銭湯(階下で混浴、階上で湯女のサーヴィス)を観察して抱いたのと同類の感想だ。

記者がじかに聞いたところによると、中平は満鉄調査部でロシア担当として働いた。戦後妻の里和歌山で農夫になった。1977年現在83歳、失業対策事業労働者・通称ニコヨン、収入月6万円、中野区の文化アパート2階の小さな部屋に老妻と二人でつつましく住んでいる。
中平亮はイデオロギーにとらわれず終生レーニンを尊敬していた。私心のない点でふたりは共通している。
二人の国際主義にも共通点がある。大亜細亜主義も共産主義インターナショナルも世界を文明化すれば人類の幸福を実現できると信じていた。


ロシア史研究会/松田道雄・菊地昌典両先生のこと

2016-12-20 | 体験>知識

ロシア史に興味があるアマチュアの研究会に入れてもらった。人文研の飛鳥井雅道氏(日本近現代政治/文化史)が事務局を担当し、松田道雄氏が座長役だった。松田先生は小児科医をしながら執筆でも幅広く活躍されていた。『私は赤ちゃん』『私は2歳』はベストセラーで世のお母さん達の育児の心配に分かりやすく応えていた。その後出版された『定本 育児の百科』は結婚祝い品の定番の一つだった。今なおロングセラーであり、その中の名言がSNSで飛び交い、悩める女性たちを感動させ癒し続けている。
研究会でも先生は物言いも文章も穏やかで優しかった。毎回欠かさず出席して私みたいな素人がするレポートにも耳を傾けてくれた。原書でロシア思想史を研究されていてソ連時代の歴史までカバーしていた。『安楽に死にたい』(1997)を出版された翌年幸運な自然死を迎えられた。先生は亡くなられたが人生の不滅のテーマを扱う先生の本は時代を越えて生き続けている。

研究会にはロシア関係の専門家はいなかったと思う。専門家は東京にあった同名の研究会に集中していた。こちらはアカデミックでフルシチョフのスターリン批判、ハンガリー動乱に衝撃を受けた世代が中核となって若手研究者を多く輩出した。
京都の研究会は会員の研究分野が多様であったので例会の報告も多種多様だった。私にとって格好の耳学問になった。専門家をゲストとして招くこともあった。
東京ロシア研の菊池昌典先生の話はロシア革命に焦点を合わせていた私の目を大きく開かせた。ロシア革命につながる日本人群像の幾人かについて感想を漏らされた。二葉亭四迷、石川啄木とロシア文学、消えた新聞記者大庭柯公、新聞記者中平亮のレーニン会見記、諜報機関石光真清と革命家ムーヒンの友情、シベリア出兵とニコラエスクの悲劇、ソ連リュシコフ大将日本亡命と消息etc. 
二葉亭四迷と石川啄木はスルーしたがそのほかのテーマは後年かじることになる。
色川大吉氏の『明治精神史』(1964)の紹介もされた。
わたしは、両先生から、民衆みずからが担う埋もれた史実を掘り起こす研究者の喜びと、歴史にアプローチする民衆史観という方法論を学んだ。個人のエピソードや群像のストーリをいくら集積しても歴史にはならないがそれらを欠く歴史書は興味に乏しい。

 


大学卒業は東京オリンピックの1964年/三つの活動領域

2016-12-13 | 体験>知識

卒業式に出た。活動家ばかり後方に群れていた。野次馬気分だった。実際に総長が欧州共同市場を共同イチバと言い間違えたとき野次った記憶がある。ほかに記憶は卒業式後友人たち6,7人と四条河原町に飲みに行ったぐらいである。

卒業後、大まかな方針にしたがって動き出した。

ロシアの十月革命とは何だったのか? 
ブントは十月革命をモデルに考えていた。ソ連への共感はなかった。スターリンがレーニンの死後書記長として党組織を支配し、トロツキーを排除して、巨大な官僚体制を築いて革命を裏切った、という考えに立っていた。
十月革命後、都市の工場委員会→労働者評議会(ソヴィエト)→武装蜂起というロシア的組織形態を志向する革命運動はことごとく失敗に終わっていた。
毛沢東の中国革命は辺境の農村根拠地から再出発していた。
カストロとゲバラのキユーバ革命はモンカダ兵営襲撃[失敗]に因む7.26運動という一握りのインテリのゲリラが市民、農民の共感を得て山岳地帯から首都まで攻め上がった革命だった。
十月革命の金科玉条、党組織をもたなかった。その爽やかさ、風通しの良さが安保世代と新左翼を魅了したが、日本で山岳ゲリラを考える者はまだ誰もいなかった。
とにかく十月革命とソ連の実態を正しく知りたかった。マルクスとレーニンの著作を読み通すこと、革命と動乱の書物を読み漁ることを日課にした。手っ取り早く邦訳に頼った。原書は考え付かなかった。その素養、能力もなかった。
アカデミーに入ることも同じ理由で考えなかった。

京都府立資料館近くのしゃれた洋風の離れを借りた。下宿と資料館と大学の図書館がわたしの読書の場になった。
大学には附属図書館のほかに学部図書館があるが、附属図書館と法経図書館の書庫に潜り込んで関連図書に当たりを付けた。満州鉄道調査部が出版したソ連、中国に関する全印刷物がパンフレットに至るまでカビ臭い法経地下室の書架に裸電球に鈍く照らされて眠っていたのが印象的だった。
対ソ、対華の国策に従って印刷したものをすべて漏らさずに大学図書館に納入する仕組みがあったと推察できる。そこにあった大冊の『支那抗戦力調査報告』は客観的な研究書として戦後復刊された。

まだブントの労対部に属していた*ので労働学校の試みを始めた。京都市南部の工場地帯でチラシをまいてスクール生を募集したが集まりが悪く間もなく立ち消えになった。属していたと言っても時折の下働きに過ぎず、交通費、宿泊費自分持ちでヴォランティアだった。
*わたしが恰好をつけているだけだろう。同盟費を払っていないし会議によばれていない。社学同を抜けたらブントも抜けた、とされていたらしい。
三菱広島造船に泊りがけでビラまきに行ったが反応を感じなかった。
前夜に渡されたチラシを持って早起きして奈良県吉野下市口の郵便局にビラ撒きに行って争議中のピケ隊員とスクラムを組んで気勢を上げたこともあった。当時は紹介がなくとも飛び込んですんなり受け入れられる余地があった。
これがきっかけで後に吉野から大峰山と大台ケ原の山歩きと渓流釣りにたびたび行くことになった。
労組書記という職業につくことは考えなかった。

生計は別に考えた。西陣織の町中で寺の一室を借りて小学生の学習塾を始めた。その活動についても後日稿をあらためて書くが、塾がすくない時代だったので結構塾生が集まった。友人二人に応援を頼まなければならない時もあった。


労組結成の試み

2016-12-06 | 体験>知識

  1963年夏 琵琶湖

学生時代最後の夏休みに、進路模索活動の一環として組合づくりを試みた。
洛南の従業員・数十名の合金会社に長期アルバイトで入った。
砂型に溶融アルミを流し込んで「ナショ」*ブランドの電気釜用内鍋を作っていた。わたしは場内の雑用(主に運搬)係だったが作業用安全ブーツを貸与されていた。
*下請けが常用していた表現
従業員は集団就職で入社した若い男が多かった。憶えている出身地は前橋市である。会社が募集に行ったのか群馬県の会社が京都に進出して来たのか分からない。
若い従業員たちは寮住まいだった。
彼らの悩みは将来にわたって希望を見出せないことだった。若い者のなかにも会社に目をかけられている者もいたが、その他おおぜいは会社の言いなりの低賃金で上司の指示通りにルーティンをこなすだけ、進歩も創造もない日常に不満を抱いていた。
組合づくりの話をすると目が輝いた。外の世界に一歩踏み出す目新しさ、自分もエキストラでない出演者として主体的に動く喜びを感じたのではなかろうか?
賃金と労働条件で会社に対して自分の主張をする場を作ること自体、かれらにとって非日常であり、何か期待を膨らませるできごとであった。
日曜日に保津峡や琵琶湖に遊びに行ってミーティングを重ねた。
そして具体的な段取りについて京都地評に相談に行った。
地評のオルグの指導で結成大会を開くところまで行ったが私は前日に雇止めになり結成に立ち会えなかった。
組合は結成されたが、事前にばれて、会社主導で完全な御用組合ができあがった。
友情を育むいとまもなく、わたしにはささやかな体験しか残らなかった。
形が有るものが一つ、今も残っている、ありがたくない水虫!






カストロ死す/2016.11.26

2016-11-26 | 体験>知識

リアルタイムでブログを書いている。午後2時半、TVのニュースで訃報を知った。私はカストロが90歳なので覚悟をして記事を書くための資料を集めねばと思いつつできなかった。
奇しくも60年前のこの日カストロは同志82名と共に親米独裁政権打倒を目指して亡命先のメキシコからキューバに向かってヨット・グランマ号で船出している。1956年30歳だった。

私たちはカストロとよんでいるが、キューバ国民はフィデルと愛称で呼ぶ。かれは両親が名付けたとおりの生涯を生きた。
FIDEL忠実! 人民に忠実だった。革命の大義に忠実だった。
もともと社会主義路線そのものが維持困難なのに、アメリカによる経済封鎖の中でよく持ちこたえた。普通ならとっくに極端にはしり国民に大惨禍をもたらすのが革命史のならいである。カストロは死後の個人崇拝の危険まで知悉していた。火葬を遺言している。
 1853.1.28~1895.5.19  ラテンアメリカ希望の星
フィデルは「人民に忠実であれ」という思想をキューバの思想家ホセ・マルティから受け継いだ。詩人でもあったホセ・マルティはキューバ独立戦争でスペイン軍の銃弾に斃れた。キューバ独立の使徒として国民に敬慕されている。
革命前からホセ・マルティの思想はキューバ国民の魂に触れていた。国民歌「グアンタナメラ」にホセ・マルティの歌詞ヴァージョンがあった。それを革命直後ピート・シーガーがカーネギーホールで歌ったのがきっかけとなって全世界で愛唱されるようになった。私は幸運にもそれをピート・シーガーが来日したときライヴで聴いた。
歌詞のさわり Yo soy un hombre sincero・・・[わたしは椰子が繁るところから来た正直な農夫です]・・・「大地の貧しきものたちと運命を分かち合いたい」

カストロと日本との関わりは革命以前にさかのぼる。
1953年、ホセ・マルティ生誕100年に、青年弁護士カストロはモンカダ兵営を襲撃して捕らえられた。首謀者は誰かの尋問に「ホセ・マルティ」と応えた。そして
法廷ではみずからを弁護した。その記録『歴史は私に無罪を宣告するだろう』でカストロは10万人が亡くなった東京大空襲無差別爆撃をアメリカによる戦争犯罪として断罪している。
ヒロシマについてもしかりで、かれは2003年に広島を訪れて献花し「人類の一人としてこの場所を訪れて慰霊する責務がある」と語った。

練りに練った弔辞を書くつもりでいたが間に合わなかった。革命後どういう哲学でどんな社会をつくろうとしたのか、グローバリズムによる格差の拡大と地球にかかる負荷の増大にどういう生き方を対置したのか、遅ればせながら、駐キューバ大使・田中三郎著『フィデル・カストロ 世界の無限の悲惨を背負う人』を読むことから始めたい。

追記1 ホセ・マルティの墓の横にカストロは埋葬された。墓碑にはFIDELとだけ刻まれた。
追記2 革命は自壊し得る。破壊するのは彼らではない。我々自身だ。
マルクス、レーニンの理論はそれぞれの時代の諸条件のもとで成立したものであり普遍化できない。新しい社会主義像は君たちの創造にかかっている。2015年11月 ハバナ大学大ホールで講演




三池炭塵爆発事件/CO裁判闘争

2016-11-09 | 体験>知識

  1963.11.9 撮影 植埜吉生氏 酒店勤務 19歳 故人 

私のCO中毒体験。4回生の寒い昼、活動家仲間数人とAの下宿で練炭ストーブを囲んでダべっていた。それまで何の異常もなかったのに立ち上がった瞬間大きくよろめいた。それから半日ほど頭痛がした。CO中毒は亜急性間歇型疾患であった。
素人の理解だが、体を動かすとエネルギー補給のため血流が速くなり血中のヘモグロビンが酸素運搬を急ぐ。ところが一酸化炭素中毒になっているとCOがヘモグロビンと結合して酸素運搬を邪魔する。
酸欠になると真っ先に脳神経が、ひどい場合には不可逆的な、ダメージを受ける。体を動かしたら悪化し後遺症が出る。初期治療の要諦は、元気でも動かさない、すぐさま酸素を補給する、である。
関係ないかもしれないが、私は原因不明の耳鳴りで24時間セミがジー・・・と鳴き続けている。この瞬間も途切れることはない。

三池三川鉱炭塵爆発ー原因と被災状況・・・
1963年11月9日午後3時12分、金属疲労した粗悪材質の連結リンクが破断して巻き上げ中の炭車8輌が逸走し脱線、坑道に積もった石炭の粉じんを巻き上げ、電気ケーブル破損スパークで大爆発を起こした。粉塵は、小麦粉でも誘爆するが、清掃か水撒きをしていれば容易に爆発を防げる。
救助の遅れが被災を大きくした。現場到着に早くて3時間、遅い場合7時間。なお救助隊員からもCO患者が出た。坑内には1,403人がいたが、昇坑できた939人中歩けるものや希望するもの527人が会社あるいは会社の天領病院から家に帰された。救助のため再入坑した者もいた。安静の指示はどこからもなかった。
その後、おかしな行動、激しい頭痛、めまい、吐き気、しびれ、ふるえ、発作、粗暴、物忘れ、無気力、不眠等に襲われ、多様な身心症状、重篤な脳神経障害、精神異常の後遺症を患った者もいる。

死者458人、うち爆死による死者20名。CO中毒患者839名、53年後の2016年現在、今なお入院中13名。通院者については情報がない(2013年は80名以上/ 京都新聞)

三池労組が闘争に敗れて安全確保上のヘゲモニーを失い会社の生産第一主義の全開、保安サボをゆるしたことが事故につながった。通産省鉱山保安監督局は保安チェックをサボった。長期間坑道に炭塵が積もり放題だった。
三池労組は就労後「1.保安確立 2.差別撤廃 3.組織介入撤廃」の3要求をかかげて闘ったが組織力の低下(第一と第二の勢力比逆転)はいかんともしがたく保安チェックができなかった。
争議前労組は職場管理闘争で安全面を仕切り安全要員を出していた。それが敗北後、たとえば事故が起きた第一斜坑の安全要員は17名から2名に減らされた。削り取った要員を採炭増産に振り向けた結果、全鉱員一人当たりの生産効率は3倍を超えた。
正式鑑定人として三日後に坑内に入った炭塵爆発専門家荒木忍九工大教授の調査鑑定書(炭塵爆発認定)に基づき福岡県警、検事局が業務上過失致死傷と鉱山保安法違反で会社幹部訴追に傾いたが人事異動により潰され不起訴が決まった。
その際、事故原因については政府技術調査団団長・山田穣九大元学長の珍妙な「風化砂岩/揚炭ベルト上の原炭」説に基づいて「原因不明/爆発不可抗力」と発表された。師弟対決に最高裁(民事訴訟)で決着がつくまで30年の歳月と患者の険しい裁判闘争を要した。

死者・遺族の闘い・・・
死者の弔慰金40万円、葬祭料10万円。同じ「魔の土曜日」に発生した横浜市鶴見区の国鉄二重衝突事故の賠償金の十分の一ほどの弔慰金だった。災害が多い炭鉱には事故は自己責任の悪慣行があった。三池労組の異例の要求があったから特例の弔慰金が取れたと言われている。遺族のその後の暮らしは想像を絶する。

CO患者とその家族、遺族の闘い・・・
労組はCO患者家族の会と共に3年期限の法定労災補償の打ち切り反対闘争に取り組んだ。期限の3年が切れようとしていた。
患者の労災上の治癒認定をふくむ等級付けは政府「三池医療委員会」が行った。厚生省の影すら見えないのが奇異に感じられる。医療委が労働大臣に提出した意見書は、長期療養継続26人、職場復帰可能738人、経過観察療養58人とし、治癒にもかかわらず自覚症状を訴える者は多くが組合原生疾患である、と示唆した。医療委は労災打ち切り、職場復帰の道筋をつけるとさっさと解散してしまった。
それを受けて労働省は738人に治癒したとして労災打ち切りを通告した。会社は職場復帰等会社の指揮下に入ることを要求した。
後遺症で入院が必要な患者も仕事どころではない患者も途方に暮れた。労組は異議申し立てをして治癒認定者を会社の指揮下に入れず組合の財政で生活を丸がかえした。労組も患者家族も背水の陣を敷いて必死の出撃をするほかなかった。労組と患者の会は立法化による救済に賭けた。
CO特別立法の制定を求めて坑内座り込みや労働省玄関ハンストを敢行した。坑口から1800mの坑内最奥部に座り込んだ患者家族会員たちに、目をつけられていない第二組合員や下請け組夫がこっそり差し入れをしたという感動的な逸話も記録されている。
1967年7月、同法が成立したが、家族が求めていた解雇制限」「前収補償」「遺家族の生活補償」は盛り込まれなかった。
三池労組と三井鉱山は「CO協定」を締結した。得体のしれない「裏協定」もあった。多分補償責任は団体交渉で解決する(裁判ではなく)ということであろう。
1968年4月、「CO協定」により現場復帰が始まった。数字が逐年流動するので三井鉱業所CO患者現況調べ 1978.7.31から三池労組の分だけ抽出して実情を考えたい。
治癒認定=坑内復帰16+坑外復帰16+造成職場*75+退職**154+死亡10=271
 *「造成職場」は現場復帰できない治癒認定者を収容する作業所。「CO協定」に    
 より開設。生活保護受給のほうがましな低賃金職場。
 **異常に多い退職154人は「労災打ち切り→復帰か退職しかない」という患者   
 の切実な心配が現実になった証左か。退職者はどのように暮らしをたてたのか?
治癒せず認定=傷病補償年金給付16+傷病補償年金で退職***26+同死亡1+経過観察中死亡1=44 
  ***退職したら傷病補償年金は賃金の60%に減額されるはずだが、何故退職?

造成職場と退職の数字をみて、下記の裁判を起こした松尾蕙虹と村上トシがなぜ組合にあらがって裁判を起こしたか、謎の一端が解けた。両名の夫は認定級が低く軽症者扱いだった。松尾修さんは造成職場、村上正光さんは定年退職で労災療養所を追われて自宅療養。夫たちの異常行動で家庭は滅茶苦茶、妻たちは逃げ場がなかった。
労組は「軽症者と退職者を切り捨てた」「労組は生きている本工が大事なのだ」と時々聞こえてくる家族、遺族の怨嗟の声と不満の意味が分かった。

1972年11月、CO患者2家族の夫婦4人が組合の制止を振り切って三井鉱山を被告とする損害賠償請求訴訟を提起した。妻が原告に名を連ねる人権裁判としても画期的だった。先行中の水俣裁判に勇気をもらったという。「私たちもできる」と。【家族訴訟】
頻発する労働災害で損害賠償裁判を起こすことは企業あっての労組にとってタブーだった。労災裁判は「物取り主義」で階級闘争にそぐわないというイデオロギーもどこかにあった。家族訴訟にさらに2家族が合流し、雪崩現象を恐れた労組は、やむなく、遺族161人、患者259人を原告とする損害賠償請求訴訟を提起した。【マンモス訴訟】
かくして4家族に増えていた家族訴訟とマンモス訴訟によって事故の実態と責任が、延々と続く裁判の過程で、明らかになっていく。

1987年7月、三池CO中毒マンモス訴訟原告団が福岡地方裁判所の和解案を受け入れた。死者と1級認定患者400万円、その他等級に応じて330万円~65万円。

会社の責任を不問に付した和解に応じない原告32人が新原告団を結成した。【通称 沖裁判】
CO共闘会議が全国に組織され、 支援を受けた。労組は除名で応えた。

1993年3月26日、 家族訴訟と沖裁判に対する判決が下りた。 その判決は、三井鉱山の過失責任を認めるとともに、原告全員をCO中毒後遺症と認定した。賠償額は和解案に準じて低額だった。かつ妻の慰謝料は認められなかった。
家族訴訟組は、控訴し最高裁まで争ったものの判決は覆らなかった。
しかし人権を声高に叫ぶ過程で、人間性の尊厳と美しさを記録した文化遺産(文章、映像)を産むネタを存分に遺した。

1997年3月30日三池炭坑は閉山した。

まとめ・・・
三池炭塵爆発事件をめぐる40年間の攻防は体制と反体制の攻防であった。
水俣でもフクシマでもそうであるが、国策護持のため体制側は政・官・産・学・医がタッグを組み、事故原因と被害の矮小化、事故責任と賠償の回避につとめる。
反体制側の中核は三池労組だった。事故が起こった時すでに過半が差別待遇に耐えかねて第二組合に脱落して体力不足だった。そのうえ労組は最大公約数を要求目的とし、かつ共倒れをおそれる企業内組合である。
したがって労組は企業責任の追及でも補償要求でもしんがり走者だった。そして突出した極大値要求者を除名した。先鋭な組合でも片足は体制側にあるということか。先駆者の突出によってCO闘争は文化革命を起こした。

「家族訴訟」の松尾蕙虹の述懐「組合でも何でも権力を持ちすぎると組織は腐る」
原田正純医師「裁判があったからCO中毒を詳しく調べ、教科書の間違いも分かった。制度や慣例を打ち破り、道を切り開くのは少数派だ」
原田正純医師「松尾さんたち四家族が裁判をしなかったら、三池の炭塵爆発事件はこれだけ深く,トータルで歴史に残らなかった」

足尾、狭山、水俣、三池と反体制裁判闘争を跡付けて来て感動するのは共通して「人間だぞ!」と叫ぶ底辺の人々の先頭を走る少数の人徳のリーダー、そう先駆者が生まれていることである。 

依拠文献(主要なものだけ記載)
・星野芳郎/飯島伸子論文「三池炭塵爆発事件」(『技術と産業公害』所収)
・奈賀悟『閉山ー三井三池炭鉱1889~1997』
・森弘太/原田正純共著『三池炭鉱ー1963年炭じん爆発を追う』
・CO裁判をめぐる家族訴訟と労組の対立について要領よくまとめたBLOG
 http://blog.goo.ne.jp/mitsumame7427/d/20150723
   http://blog.goo.ne.jp/mitsumame7427/m/20150728

これからの研究者向け史料目録(世界歴史文化遺産となるべき労作)
・「大牟田市立図書館が所蔵する 三池炭鉱関係資料とその目録について 大原俊秀」
   http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1515778/p083.pdf

上掲BLOGから無断借用

 


就職活動/進むべき道みえず愚行を演じる

2016-10-26 | 体験>知識

1963年の初夏、わたしは就職活動を始めた。進むべき道がまだみえなかったためとりあえず就職試験を受けておくか、という結果を考えない安易で無責任な行動だった。両親の不安をおさめる狙いもあった。
2,3受けて造船会社から内定をもらった。関西電力を受けて落ちた気がする。
なぜ造船かというと三菱長崎造船に「社研」という新左翼の組織があって頼もしい指導者と聡明な青年たちの活動を交流会や出版物を通してみていたからである。
それに造船は鉄鋼、電力、鉄道等と並んでマルクス主義者が重視する基幹産業だった。
しかしあいまいな気持ちで臨んだ就職活動が破綻するまでに時間はかからなかった。
人事課長が興信所の調査書をもって京都まで飛んで来て事実かと問いただした。とぼけていると内定を辞退してほしいと言われた。諾否を保留していると、2回目に来たときゼミのHT先生に私の説得を依頼した。学究肌の先生はにべもなくことわった。
3回目があったかどうかはっきりしないが、私は瀬戸内から数回足を運んで来た課長の窮状に同情した。わたしの倍ほどの年齢の温和で実直そうな課長に私は背中をまるめてとぼとぼと歩く父親の後ろ姿を見た。
このあたりで決着をつけなければ・・・。
「興信所の調査書をみせてほしい。そのうえで進退を決めます」
調査書には調査の足跡のほか私の所属と活動歴が詳しく記載されていた。社学同所属、教養部自治会書記長、同学会会計。
その場で内定を辞退した。自分のせいで罪なきひとを振り回してよいのか。
これで会社に勤めながら何か活動をするという選択肢はなくなった。
両親には電話で内定を辞退したこと、卒業後は塾で自活しながら労働学校をやることを報告した。電話の向こうで父親が絶句していた。
年末年始に帰省したとき自分のいい加減さが両親の不安を煩悶に高めてついには絶望に至らしめたことを知った。
父の言葉「高い山から深い谷に突き落とされた気がする。夢も希望もない」
わたしは卒業したら小学生の英数塾を開いて自活しながらブントの労働運動を手伝うことに決めた。メインは自分の進むべき道を探求する在野の研究活動である。

アカデミックな研究生活とか結婚とかは念頭になかった、というよりそれを考える前提、自分の拠り所とする生き方の哲学、一歩を踏み出すための目標と将来像がなかった。


正木ひろし弁護士を囲む会/狭山事件「造花の判決」

2016-10-14 | 体験>知識

わたしは、迷宮事件、冤罪事件に深い関心があるが、それは新聞、ラジオ、TVの報道と関連本読書の影響だと思う。ちょうどこの時期、大学の法学部自治会が正木ひろし弁護士を呼んで講演会をもった。講演の後法経教室地下で囲む会があった。
そこで正木氏が日本の良心であり体制の司法部に喰い込む能力と実行力の持ち主であることを知った。
かれは戦時中個人月刊誌「近きより」を発行し交友を広げながら巧みに時局(東條内閣)批判をつづけた。購読者に法曹関係者をはじめ政府・軍部の要人もいたらしい。発禁と廃刊圧力はあったが潰されなかったことからの類推である。

映画にもなった「首」なし事件の話には驚いた。一炭坑の現場主任が微罪嫌疑で拘束され警察署で死亡した。家族には脳溢血による病死と知らされた。
依頼を受けた正木氏は東大法医学教室の古畑教授と謀って深夜墓を掘り返して首を切り取って持ち帰り鑑定した。そして死因は暴行による脳出血であると「近きより」でキャンペーンを張り、巡査部長と警察医を告発した。
権力中枢の一角を占める裁判所と検察の最上部を相手にする戦いだからふつう勝ち目はない。個人の告発が通るはずもない。曲折と挫折があったが節々で「近きより」のコネとバネが働いて起訴に持ち込むことができた。コネの中に岩村司法大臣(検事総長から転任)や軍部の切れ者石原莞爾、国粋会の大立者頭山満の名前がある。
かれは戦後まで続いたこの裁判で勝ち、拷問が常態であった時代に拷問者を法で罰することができた。
「義を見てなさざるは不義なり」 かれは座右の銘どおり職を賭して正義を貫いたのだった。ちなみにかれの思想は反全体主義で共和主義であった。座右の書は聖書であった。

正木ひろしは1955年に起きた「丸正事件」では在日韓国人トラック運転手(無期懲役)と日本人運転助手(懲役15年)の再審請求にも献身した。被告は強盗殺人罪で起訴された。裁判中に「強奪された通帳と実印」を被害者の母親が押し入れで発見したにもかかわらず、一審有罪、控訴、上告で上記の刑が確定した。
運転助手の一時の自白がすべての反証に優先した。再審請求から関わった正木弁護士は青木弁護士とともに最高裁の開かずの門の前で身を切る非常手段に訴えた。被害女性経営者の身内3人を真犯人と特定、告発し、逆に名誉棄損で訴えられた。
わたしたちが囲む会で話を聞いたのは名誉棄損の裁判進行中だった。その裁判は敗訴し、丸正事件の再審請求も叶わなかった。運転手は22年後仮釈放となった。助手は19年後!満期出獄した。二人の出所までの期間は異常である。正木ひろしが存命していたら、コナン・ドイル同様、「出所理由を明らかにせよ」と法務省に迫ったにちがいない。
運転助手は、自白は「血を抜く」拷問による、と翻意を説明した。まさか、と疑うのがふつうだが、担当の静岡県警紅林麻雄刑事は拷問と証拠捏造の手法を考え出すアイデアマンで、幸浦事件、仁保事件、赤堀事件で被告の死刑判決、小島事件で無期懲役判決を引きだしている。最終的に4事件すべて無罪が確定している。

正木氏が実験により真相を究明してゆくくだりは知的興奮を刺激しないではおかない。丸正事件は本にもTV映像にもなっているので見てほしい。


http://televisioninfo.blog.fc2.com/blog-entry-11.html?sp

正木ひろしが狭山事件の弁護団にいたら、社会経験の乏しい検察や裁判官の荒唐無稽な推論に、別人には思いつかないような実験をして痛快な反撃をしただろうと確信する。
それにしても、わたしが足尾鉱毒事件の田中正造翁以来の偉人、弁護士の鑑とする正木ひろしの狭山裁判判決批判が、ネットで下記のように歪曲援用されるのを黙視することはできない。援用者は石川有罪判決支持者である。
設問そのものにも誘導がある。差別裁判か、と設問すべきだ。特殊と一般。

Q.狭山裁判が差別裁判だというのは本当でしょうか? 
A.[一部省略]数々の冤罪事件の弁護で活躍した正木ひろし弁護士も狭山事件を差別裁判と言わなければならないとしたら、すべての事件が差別裁判だということになると批判しています。

設問そのものにも誘導がある。差別裁判か、と設問すべきだ。特殊と一般。
かつ引用記号「」を作為記号として利用している。作為の証拠がコレダ!➷

  1974.11.1 朝日新聞記事 
 

狭山女子高生殺人事件

2016-10-07 | 体験>知識

1963年は、私にとって忘れがたいだけでなく大学を卒業してからもずっと関心をもって追い続けた大事件が三つ発生した。三事件に対して私はほぼ傍観者だったが、いづれの事件についても連日ニュースを報道するTVや新聞を穴が開くほど熟視熟読した。

4回生になって自活の道をどう選ぶか考え始めたとき最初のそれが起こった。

1963・5・1 狭山女子高生殺人事件_第一の事件
高校1年の女子高校生が16歳の誕生日の日に学校から暗くなっても帰宅せず、まもなく自宅に身代金要求の脅迫状と愛用の自転車が届けられた。狭山警察と埼玉県警が犯人指定の場所に張り込んだが犯人を取り逃がしてしまった。三日後女子高校生の遺体が農道に無惨な姿で埋められた状態で発見された。
ここまでは、3月31日に東京で起きた吉展ちゃん誘拐殺人事件に類似している。吉展ちゃん事件は、日本ではじめて報道協定が結ばれ、犯人取り逃がし後は、大々的な公開捜査となり、録音された犯人の声がTV,ラジオで繰り返し放送されて全国的関心事となった異例の事件だった。
2度の大失態で警察の権威は地に墜ち柏村警察庁長官が辞任した。国会においても追及必死となった。後日、池田首相も答弁し、夫人が被害者宅を慰霊訪問することになる。
5.4 善枝さんの農道に埋められた死体が発見された。
5.6 発見現場近くに家を新築したばかりの作業員31歳が挙式前日に農薬を飲んで古井戸に飛び込んで自殺した。
金繰りとアリバイと血液型に容疑があった。
報告を受けて篠田国家公安委員長が緊急記者会見で「こんな悪質な犯人は何としても生きたままフンづかまえてやらねば・・・」と発言した。このとき吉展ちゃん事件もまだ公開捜査継続中だった。
県警はマスコミと政局レベルからのプレッシャーで焦った。篠田委員長は参議院本会議がある8日までに犯人を挙げろと督促した。
県警は近くの被差別通称菅原4丁目(正式名称入間川)世帯数59に見込みをつけて捜査を集中し120人の筆跡を集めたことが狭山裁判で明らかになっている。もっとも疑われた養豚場関係者の筆跡とアリバイ調査も27名にのぼった。
5.11 もう一つ離れた被差別の農業男性31歳が、薬研坂の森で用を足していた時不審者3人を見た、と通報し、逆に2日間絞られて憔悴して帰宅、「警察は怖い所だ」と家族に語り寝込んだ。翌日午後8時ごろ心臓を一突きして自殺。狭山裁判で弁護人が警察を追及したが「記憶にない」とかわされた。
5.23 県警が不良じみた作業員石川一雄青年24歳を別件逮捕した。

それから53年、石川さんは死刑判決、無期懲役を経て、服役後現在仮釈放中である。公民権はない。解放同盟を中心とする再審要求で現在も係争中である。
有名無名の多くのインテリが書籍で無罪論を展開し、いくつかは映画化されTVでも映像化された。今なお書籍、ネットで真犯人追究が絶えない。
わたしも数年後無罪追究にほんの少し関係する中で生涯の伴侶を得たが、そうした体験については時系列に合わせて時期が来たら記事にしたい。
再審請求中の中山主任弁護人は、私の中学時代3年間の級友の弟である。
ここでは書きたい気持ちを抑えて、代わりに、ルポライター伊吹隼人氏が長年取材してまとめた狭山事件についての最新記事を紹介しよう。記事そのものではなく記事掲載雑誌。読後、謎解きにハマっても、恨まないでほしい・・・。
別冊宝島「昭和史開封!」 2016年1月発行 別冊につき現在発売中 436円+
二大記事 20頁 戦後最大の宰相「田中角栄」の肖像 
     12頁 狭山事件:「差別」と昭和最大のミステリー 

 


二重国籍問題/英国大列車強盗1963年

2016-09-24 | 体験>知識

大統領、首相が二重国籍では国民が容認しないのはわかる。
民新党代表選にからんで蓮舫二重国籍問題が浮上したのも意外ではない。
コトが起きる前に早々に浮上するところは国民性だろうか、特殊日本的である。
以下垣間見た限りではどの国の法務機関も国民の二重国籍については関係国の内政に関わるためほとんどOFF状態で規制法も情報管理も極めてaboutである。

今回私の国籍問題を振り返る気になった。
ブラジルは出生地主義をとっているからブラジル生まれは生まれながらにしてブラジル国籍に属する。
だからロンドン郊外大列車強盗団の一人がブラジルに逃げ込んで子を生したことによりブラジル国籍の子の親ということでイギリスに引き渡されることなく公然と市民生活をおくることができ世界的なニュースになった。
ペルーのフジモリ大統領も二重国籍だった。彼は大統領として人権侵害行為の責任を問われて日本に亡命した。このとき二重国籍であることが両国内で判明し政治問題となった。日本政府はかれの日本国籍を根拠にペルー政府の引き渡し要求を拒否した。

私は出国するとき当然パスポートを取得した。両手の指紋をとられた記憶がある。
出生直後に親が在サンパウロ市日本総領事館に私の出生届を出したためその時から二重国籍になった。
親からは出国して10年経つとブラジル国籍はなくなると聞いた。どうしてかは聞いていない。総領事館でそう言われたにちがいない。
日本の国籍法では22歳になる前に日本の国籍の選択の宣言をし、外国の国籍の離脱に努めなければならないという努力義務規定がある(第16条第1項)が私は何もしていない。ブラジルはこの件に関与する義務も権利もない。日本の役場も法務省も何もしていない。そして今日まで私の二重国籍が一度たりとも浮上したことはない。
要するに国も私も必要に迫られない限り放任、怠慢、黙認、責任逃れのいづれかをしているということだ。

13歳児の私には国籍などどうでもよかったが落ち着き先の久留米の役場には普通に戸籍があり小学校に編入された。戸籍には出生地欄はあるが国籍欄はなかった。
数十年後いとこ夫婦が訪日したとき弁護士であるその夫に私のブラジル国籍がどうなっているか現地で調べてくれるように頼んだ。まもなく返事があった。役所で調べたが記録がいっさいみつからないということだった。
あるはずのものが無い。おかしい? ブラジル憲法でも私は生まれながらにしてブラジル人であるはずだ。記録はなくてもブラジルには国籍離脱法がないので私は二重国籍である。
どうでもよい、利害関係のないことなので私はそれ以上追究することをしなかった。[後記] 後日ブラジルでの出生届証明書がみつかった。
もともとわたしは国籍、人種、民族、言語、宗教、年齢、出身にこだわりが薄い。ブラジル育ちのせいだと思う。自分のことを日本人のコスモポリタンだと思っている。
愛国、愛郷を出身、宗教、言語、人種、国籍で決まると考える人には同意できない。
わたしは日本もブラジルも共に好きだ。ロンドリーナ、久留米、京都、高槻の四都市に郷愁をおぼえる。どこでも住めば都である。