1927年4月20日、震災恐慌につづく金融恐慌を受けて田中義一内閣が成立した。田中義一を首相、外相とする政友会内閣は、かつての政友会のポリシー(憲政擁護、進歩主義)と打って変わって国粋主義、対華積極主義で際立つ。
内と外で強硬路線をになった面々を挙げておく。個々の経歴に通じている人なら田中内閣が戦傾化内閣であることに同意するにちがいない。
鈴木喜三郎(内務)、原嘉通(司法)、森恪(外務政務次官 山東出兵、東方会議を推進 中国で山本丈太郎の部下・実業家 東洋のセシル・ローズを自認)、小川平吉(鉄道、始終強硬論者)、久原房之介(逓信=交通・通信・電気 田中の援助財閥 鉱山王の異名)。閣外では政友会幹事長・山本条太郎(満鉄社長 元三井物産重役 中国通)
金融危機と蒋介石の北伐最中の南京事件(3月、日米英の公館襲撃、在留外国人に対する暴行略奪事件)に対処できなかった若槻内閣に代わって成立した田中内閣は、勅令を用いて強引に金融危機を収束させ、矢継ぎ早に対華強硬政策を推進した。
1927年5月、第一次山東出兵につづき、6月末から7月初めにかけて東方会議を開催した。日清・日露戦争で血を流した満州について、満州特殊地位論を立てて、既得権の維持、拡大を協議した。田中首相は、満州における特殊地位、権益、特権、居留民の生命財産を侵犯する勢力に対しては、それが[山海関内外]いずれの方面*から来るかを問わず「機ヲ逸セス適当ノ措置**ニ出ツルノ覚悟アルヲ要ス」と、会議最終日に、訓示し、積極主義「対支政策綱領」を宣言した。
*強硬意見の関東軍は、内=蒋介石軍、外=張作霖軍と解釈した。
**関東軍は、張・蒋いずれの軍の入満も山海関で武装解除する、と解釈した。
宣言は、満蒙領有論・傀儡独立論から合法的分離論までの最大公約数であった。しかも米国の中国市場門戸開放方針を刺激しないようにオブラートに包んだ表現になった。
東方会議の1年後、つまり1928年5月、居留民保護名目(眼目は済南、青島の権益擁護)で山東出兵していた日本軍と蒋介石率いる北伐軍が局地的に衝突した。発端は双方の憎悪から生じた虐殺の応酬だったが、日本軍が集中砲撃を加えて済南城を占拠し、市民をふくむ数千人の死傷者を出した。ボヤを火事にした責任と影響は大きかった。
蒋軍の本隊は戦をさけて迂回し北伐を続けた。蒋介石はこの屈辱を忘れないために「雪恥日記」を綴り、記事に倭、倭寇の語を用いた。日本では済南事件と言うが、南京国民政府は済南惨案と言い、国恥記念日にした。つまり蒋介石はそれを日本軍の中国侵攻の嚆矢としたのである。
東方会議における対支政策綱領宣言が引き起こした重大事件は、済南事件1か月後の1928年6月4日に起きた張作霖爆殺事件である。わたしは関東軍による謀略とする従来の通説に従ってきたが、当稿では、河本大作大佐のテロ戦術の結果だたと改める。関東軍首脳部の誰一人知らなかったかについては保留する。
関東軍は田中外相の訓示を、北伐の結果、張作霖軍の満州への退却、蒋介石軍の追尾がおこれば、そのいずれに対しても、山海関で武装解除する、と解釈して、陸軍省・参謀本部に具申し、待機していた。だが対外関係を考慮して田中内閣は動かず、奉直命令はくだらなかった。
機を逸した関東軍に代って、河本大佐らが、田中訓示にある「万一動乱満蒙に波及し治安乱れて同地方に於ける我特殊の地位権益に対する侵害」起こるのおそれある場合と看取して、個人の意思で、爆殺を決行した、というのが、「満州某重大事件」(当時の呼称)の真相である*。ただし、関東軍首脳が黙示した可能性まで排除するものではない。
*出典は以下のとおりである。要約と用語の責任は私にある。
白石博司「張作霖爆殺事件ー河本大佐関東軍高級参謀の真意」Web Site
田中首相は、軍人の関与が確認されれば犯人を厳重に処罰することを天皇に上奏したが、関東軍だけでなく軍民有力者による河本ら擁護が広がり、処罰どころか事件概要の公表すらできなくなった。上奏は延び延びになり、トーンダウンして「田中の言うことはちっとも分からん」と天皇の不興を買った。田中首相は恐懼して、1929年7月2日、ただちに総辞職し、浜口雄幸内閣が成立した。
浜口内閣は、幣原外相を復活させ、協調外交、海軍軍縮、緊縮財政に取り組んだ。田中内閣の積極主義満蒙政策は、一見元の木阿弥に帰したかに見える。ところがどっこい、田中内閣は総辞職したが、東方会議に集った強硬派はかえって満州の要所に結集する観を呈した。少なくとも満蒙対策を粛々と進めた。
関東軍では、1928年10月、石原莞爾中佐が参謀に、ついで翌年5月、板垣征四郎大佐が河本大佐の後任として高級参謀に着任した。両参謀は2年数か月後の1931年9月18日、陸軍の実権を掌握していた省部の課長級幕僚の支持を得て、満鉄線路を爆破する謀略で満州事変を起こした。行政処分で済んだ爆殺事件が尾を引いていることに異論はないと思う。
さらに、後の実権幕僚になる永田鉄山ら陸軍佐官将校たちが研究会を始めた状況も無視しえない。
1929年5月、陸軍中堅将校が一夕会を結成し満蒙問題の解決を申し合わせた。名の知れた陸士を15期から25期までそれぞれ1名以上あげておく。×は参加者なく欠番である。
河本大作 永田鉄山・板垣征四郎・土肥原賢二 東条英機 山下奉文 × 根本博 石原莞爾 鈴木貞一 × × 武藤章・田中真一
一方、森恪をリーダーとする強硬論の同志は、東方会議の直後から、微温的で折衷的な「対支政策綱領」に代る直截的な対支満蒙分離政策のマニフェストに取り組んだ。強硬論者が仲間内でふだん使う過激で乱暴な言葉で田中訓示を敷延し具体化してロードマップ化した。
その結果、マニフェストは田中訓示と比べて長大な文書になった。それでも両者の構造、骨格は相似である。それは偶然ではない。両文書とも森恪がリードして作成したからである。決定的な違いは精神である。田中訓示は積極主義だがマニフェストは鉄血主義を謳って、武力に訴えないと満蒙の分離政策は実現できないことを明確にした。
マニフェストは、田中訓示、対支綱領とちがって、内容、表現どれをとってもその過激度ゆえに上奏も公表もできる代物ではなかった。作成に携わった森恪たち数人しかその存在をしらなかったと思う。侵略という言葉こそなかったが、満蒙侵略計画にほかならなかったから、秘匿目的で、多分その内の一人が管理する金庫に厳重に保管したに違いない。
当然、誰もその文書に付いていた表題を知ることはできない。便宜上、文書の内容から推して「鉄血主義 対支満蒙分離政策宣言」としておく。
マニフェストが作成された期限については、1929年6月に拓務省が発足し田中首相が大臣を兼務した事実によって確認できる。「田中首相覚え書」では拓植省設置提言がなされているからである。往年の主張から提言者は小川平吉鉄道相と考えられるが、当時彼は鉄道疑獄の被疑者(のちに服役)であった。本来なら拓植省と小川大臣が誕生するはずだった。
1929年9月、田中義一元首相が突然死去した。同10月24日世界大恐慌がウオール街で勃発した。その前後の10月~11月に開催されたNGO環太平洋学術会議(正式名称 太平洋問題調査会[IPR]京都会議)において、中国代表によって「田中上奏文」を議題にするよう提案がなされた。いわゆる「田中上奏文」問題の初登場である。
京都会議の主要議題は満蒙問題であったが、「田中上奏文」の読み上げは、偽書を理由に、満鉄副総理松岡洋介らによって阻止された。なお、この時提出された文書の名称はTANAKA MEMORUNDOM(田中首相覚え書)である。
「田中上奏文」はまた、TANAKA MEMORIALの名称で 戦後極東軍事裁判でも議論され、昭和天皇は見てみたいと周囲に関心を漏らした。
近年では、平成天皇が、著名でしかも最も信頼できる昭和史家半藤一利と保坂正康両氏との鼎談で、満州事変の話を切り出し、「完全な偽書が定説」としてスルーされかかったが、推測ですがベースとなったメモ書きなどは日本側から流れたのかもしれません、という保坂氏の説明に、「田中メモランダムは誰が書いたんですか」「石原莞爾は関与しているんですか」とたずねている。出典:DAIAMOND ONLINE
「田中上奏文」は古くて新しい未解決の謎である。
100年も経てば、当時満蒙について誰が強硬論者で武力行使に関してその温度差もふくめてどう主張したか、ほぼ調べ尽くされている。だが、満州事変が、日中戦争、太平洋戦争を引き起こして大戦に至った大事業について、マニフェストの一つも無いのは極めて不自然かつ不思議である。
ロシア十月革命にはマルクス=エンゲルスの「共産党宣言」がある。
ナチス・ドイツによる第三帝国にはヒトラーの「我が闘争」がある。
満蒙・中国侵略には「対支満蒙分離政策宣言」がある。
わたしは、いわゆる「田中上奏文」の謎(真書か偽書か)解きの過程で上記の問題意識を得た。
謎解きは2021.10.31付けのブログに投稿したが、途中雑誌投稿を予定した大きな更新2023.12.31を経て、今日に至った。最初の投稿で、誰が何をどのように作成し、どういう目的で流布したか、を解明し、2023.12.31付けの更新では、目的に挑発謀略を加えた。当稿で、何時から何時までに根幹が出来たかを加えてストーリ化したために、元のブログの構成を見直す必要性に迫られている。
したがって、戦前の昭和史の時系列上に位置付けている「田中上奏文」は元の日付のまま、只今「工事中」である。当稿もまだ校正中である。近いうちに、当稿に再公開を告知する。
推理小説よりも面白いノンフィクション、と自画自賛(いまだ他賛はない)している。乞うご期待。
「田中上奏文」「田中首相覚え書」の真実
――偽書を装った原書「鉄血主義 対支満蒙分離政策宣言」
★https://blog.goo.ne.jp/amazon-japon
★TANAKA MEMORIALは読む機会がなかった。便宜のために閲覧方法を挙げておく。
推奨 THE TANAKA MEMORIALはweb検索でフルテキスト閲覧可能
副題 JAPAN'S DREAM OF WORLD EMPIRE
タイトル THE TANAKA MEMORIAL
Edited, with an Introduction by CARL CROW
PUBLISHERS HARPER & BROTHERS 1942 NEW YORK LONDON
報道 New York Times 1942.3.1
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