日大の落研は学部ごとにあったと柳屋喬太郎が語っていた。
縦割り精神はこんなところにも巣食っている。
人間は幼稚園のときから縦割り組織に組み込まれる。
色や花の名で組み分けされる。運動会で何組が勝ったと縦割り競争を教えられる。
競争がなければ人間はのんびりしすぎてしまうから、個人で競争することはよいのだが、組同士の競争意識は、植えつけられてなかなか消えない。
個人での競争の色合いをできるだけなくして組の競争にしておけば、嫉妬心の強い母親たちもそれには文句を言わない。
みんな仲良く競争しましょうという分裂思考気味の雰囲気の中で、縦割りが本能の域にまで根をはびこらせながら育つ。
社会に出れば、そこには成熟した縦割りが待っている。
社会に根を下ろした縦割りのほうも、気ままな人間に使われたり邪魔にされたり、結構忙しい。
縦割りが邪魔しているなどと、仕事のやり方に知恵を出せない理由づけにも具合よく、メビウスの輪のような使い方もされる。
三途の川を渡るときも、何々宗などと縦割り。渡ってからも、地獄、極楽と縦割り。
あれこれぐずぐず言ってみても、人間という生物は、個体誕生の淵源からすでに縦割り様式に依存していたではないか。