日本語で書かれた小説を、分解して読む人がいます。
そういう人は、小説を組み立てている文章の一つひとつを取り出して、まず分解を始めます。
文章の分解には、文法という道具も役立ちます。
ここで文法の効能を知ってしまうと、それを使うことが面白くなって、使われている言葉の分類に凝りだします。
分類するだけではおさまらず、そのうちに文章の正誤審判にも役立てようとします。
書かれていることの理解に、文法上の正誤など役に立たないことには気づきません。
そうなると、読者が小説を読んでいるのか、文法が小説を読んでいるのか、区別がつかなくなります。
分解は文章だけではおさまりません。
熟語の分解が始まります。
熟語は分解してしまうと意味を持たなくなることに、そこで気付いた人は、別の熟語との比較を始めます。
別の熟語は、文字が示すように違いを持っています。
違うものは違うだけのことなのですが、そこでわざわざ違いは何かと整理整頓をしなければ気分がおさまらなくなります。
これでは、いつになったら全貌を理解できるのか、前途は遼遠の域の、さらに彼方に遠のくでしょう。
分解に比較が加わり、さらに時の次元が気になり始めれば、その作業範囲には終わるときがなくなります。
理解を超えて、その小説の叫びを聞きとることなど、永久に手の届かないところに行ってしまいます。
分解と文法、この二つのブンは、小説に限らず、文章の読み手にとって大きな障害要素ということになりそうです。