人は、とかく裁く人になりたがります。
裁かれるより裁くほうが心地よいからでしょう。
ことが起きると、話をよく聞いて何かの参考にすることより、裁くほうに力が入ります。
いまわいわい騒がれている争いごとでは、モンゴル語の喧嘩に、その言葉のわからない人が聞いていた話を、言葉のわからない人が聞いて裁こうとしています。
言葉がわからなければ、想像をめぐらすしかありません。
しかし、言葉が違えば考えの筋道も異なりますから、なかなか難しいでしょう。
いちばんまずいことは、裁かれて劣性側に立った人を、とことん悪者に仕立てあげてしまうこと、それを超えてまずいのは、その裁きを権力争いの道具に利用することです。