集まって騒ぐだけの、活動集団があります。
いわゆるリベラルと呼ばれながら、魂を釘づけにされた、全く不自由な人たちです。
ごく若いうちに、不満、不安、不信と、不ばかり山をさまよっているとき、ふと自分から足を向けた人もいます。
だれかに誘い込まれた人もいます。
そこは、平時にはみな神妙な顔をして難しそうなことを言い合っていますが、していることは児戯の域から出ることのない、ときには楽しいところでした。
熱に浮かされたようなリーダー級の人の話を聞いていると、いつも頭をよぎっていたいくつもの"不"の字が、いつかは消えるときも来そうな気がします。
そこでは、外に目が向かず、聞く耳ももたずで、おそらく自分で何かをじっくり考えてみようとは思わなかったでしょう。
XX活動と名付けた集まりに行けば、いくらかのお金も貰え、コンビニのバイトのように見知らぬ客に向かって笑顔を振りまかなくても済みます。
日本には年功序列が根付いているので、参加行動から推進行動に、さらに企画行動に参画するようになると、もうそのこと以外に自分のできることはなく、そのままおとなになってしまいます。
そういう集団は、"援"の字のついた何かがなければ、継続できるものではありません。
構成員それぞれが、社会の発展や文化の向上とは無縁の、"雇われの身"で一生を送ることになるのです。