髷は髪の毛を曲げて結います。
「いう」より「まげる」ほうが手順としては先になります。
結ってしまってから曲げ方を大きく変えることはできません。
髷も、ものの考えも、外か内かの違いはあっても、どらも頭にかかわります。
ものの考えを曲げて解ったことにする、これを曲解と言い、質の良い解り方ではありません。
曲解をすれば、その結果は「解った」ではなく「曲がった」でしかなく、「考える」目的に合いません。
解ったふりをして善人や博愛を気取ることには、見苦しいところがあります。
解ったふりをして売名や気ままな行動に出るのは、さらに見苦しいものです。