パレット風の日々
洗わなければそのまま
きれいな色が並んだときは
______洗わずにおく
汚れたときにはすぐ洗う
(ヒント:渡邊トシフミ個展 PALETTE の広告から)
パレット風の日々
洗わなければそのまま
きれいな色が並んだときは
______洗わずにおく
汚れたときにはすぐ洗う
(ヒント:渡邊トシフミ個展 PALETTE の広告から)
「2020年に県内の消費電力に対する自然エネルギーの割合を20%以上の水準まで高めていきたい」と神奈川県の黒岩知事が方針を打ち出した。
国の目標より10年前倒しは結構なのだが、急激な数値目標達成にはどこかに無理が出る。数値に目がくらんで、これまで何十年もかかって築き上げてきた電力の品質を下げることになってはならない。
自然は大きな力を持っていても気ままなものだから、直接エネルギーを取り込むには、安定・上質がいちばんの課題になる。
自然エネルギーから得た電気には、容易に安定保存しておける蓄電装置が必要である。
気まぐれ太陽光を、取り込めるときには精一杯取り込まなければならない。さしあたり要らないからと逃がしてしまうようでは高度の活用はできない。
蓄電しておいた直流の電気を、実用に適した上質の交流に変えるには、優れたDA変換装置がなければならない。
電気は1秒間に50または60の周期で陰陽が変わりさえすれば、みな交流として使うことができる。ちょっと手先の器用な人間なら変換装置は簡単にできてしまう。
そういうものが横行すると、正弦波という美しい波形を持った電気でなく、ゴツゴツの、あるいはギザギザの粗製電気が勝手に使われる。
自分が使うだけなら、器具が傷んでも、あるいは回転機から変な音が出ても、手前もちで済むのだが、そんな電気をうっかり買いますなどと言って、一般の配電系統に送り込まれでもしたら、どこまで影響が出るか捕まえようがないから、ウイルスのように、広い範囲の無関係の人に害を及ぼすことになる。
粗製電気は、だれかがどこかでいったん認めれば、たちまち広い範囲に影響が出て、気休めのワクチン注射などでは間に合わなくなる。
そうなれば、すべての電気利用者が自衛の波形正常化装置など、高価なものを置かなければならなくなる。
目標をマクロの数値だけにおいてはならない。
安定と上質を維持するための実質的な判定基準、系統防護基準を入念に定めて、確実に遵守したうえで目標を達成するよう、早急に検討を始めてもらいたい。時機を見てなどという余裕はゼロである。そのうちにと言っていたのでは、どうあがいても間に合わなくなるのだ。
珍しい本に出会った。稀覯本と大げさに呼べるほどでもないが。
ペーパーナイフで切り離さないと読めないようになっている月刊誌である。
怪しい雑誌ではない。もう何十年も続けて読んでいるが、こういう綴じ方は今度が初めてだった。
表紙のすぐ後の、1~4ページ、5~8ページが袋になっている。
中味が、身に覚えのない拘置所暮らしのおかげで読む時間ができたという「ローマ人の物語」の話、あの村木さんの記事であることは、1ページの目次でわかった。
この袋ページは、はじめに開かずに最後まで残しておいた。
本は読む前、ご馳走は食べる前、およそものごとの楽しさは「前」にある。
しかし、前でもあまりくどいのはよくない。
何日も前から、2夜連続のドラマの予告を見せられていたのに、いざ本番では、下手な構成のおかげで連続退屈ドラマにつき合わされた例もある。
この袋も2か所でよかった。これが前半全部だったら、切らずに煙になる部分があったかもしれない。
民意の反映という、ミンシュシュギのもとでは誰にも口を挟ませない言い分がある。
その意義を問いかけでもしようものなら、袋叩きに遭いそうな、夕映えのような美しい言葉である。
民意反映の前段階には、集積、つまりかき集めることが必要である。
かき集めるには、もろ手を精一杯広げなければならない。パラボラアンテナはその象徴のような形をしている。パッと広がったあの形は、あらゆる方角からの電波を受け入れそうだが、実はちゃんと狙いを定めている。
電波を四方八方まんべんなくまき散らすほうのアンテナは、空に向かって突き上げるような形で立っている。
広がった形が一方向集中、尖った形が八方拡散、ものの性挌は、外見とはすぐには結び付かないものだ。
民間のド素人を呼び集めて司法の仕事をさせることにも、広げた形のなかになにか狙いがひそんでいるのだろうか。
少数の人間を無作為で抽出した結果が、前回の選出結果に酷似していたこともあった。平均年齢が前回と同じで、それは百万分の7の確率だったという。
一方でプロ意識を拡散し、他方で民意と名付けた便宜意識を集積する。マジックのようなこの仕業をみると、社会という巨大な脳のニューロンがどこかでつながっているような、探り当てようのない懐疑が凡脳を駆け巡るのである。
裁判員という不可解な制度がある。
野次馬に喧嘩の裁きをさせているように思えてならない。
野次馬なら、たとえ通りすがりにせよ一応の関心を寄せた人間である。だが、裁判員は事件への関心とは無関係に選ばれる。
どこの誰かもわからない、ねじの抜け落ちたような、自分の意思があるのかないのかわからないような人間のしでかしたことについて、知りたくもないようなことを聞かされ見せられ、裁きの座に加わらなければならない。
なぜそういうことが考えられ、どう思うかなどと聞かれる間もなく決められてしまったのか。
この制度の本質は何なのか。
裁判という専門的業務に文句を言わせる場を設けたつもりなのか。
まだある。検察審査員である。罪の疑いをかけられた人間を起訴するかどうか、これも専門的業務に民意を反映させるためという。
ここでも文句を言わせる場を設けたつもりとしか見えない。
任期が6か月で11人、半数が3か月ごとに入れ替わる。6か月でどんなものか少しわかりかけてきた頃にはおしまいになる。これで民意反映。
もう一つ。指定弁護士。弁護士が検察官の役をするという。
もうわけがわからない。
わけのわからないことがどんどん決められる。一方で、誰でもがこうしたらよさそうだとわかりそうなことは、さっぱり話が進まない。
人間は、なぜこんなふうに世の中をわかりにくくしたがるのだろうか。
その場所を求める人が、その場所を破壊する。
あるサイトで見つけた明言である。
「マンション建設差し止め訴訟中の「羽澤ガーデン」に解体工事の知らせがいきなり張り出される」という記事があった。
某大学教授は「何が美しいか、残すべきかどうか、明確な基準がつくりにくい。法隆寺は誰が見たって世界遺産。日光東照宮も金色堂も。だけど、明治以降のものは価値観が分かれる。そこの判断が非常に難しい」と歯切れ悪く語った。
確かに美しさに基準はない。だが、その時代の水準は、人間がいる限り厳存する。
厳存が曲者であることにみな目をそらしながら、皆がそう考えることが平常を失っていても正しいとしてしまう。そして時代の価値観が巧妙に仕上げられる。
古いものより新しいものがよいと言いながら、頭は古いまま。独占はよくないと言いながらの分捕り合戦。民主主義と呼ばれる風任せ価値観が幅を利かしている。
外国人が島の土地に狙いをつけて買おうとしている。
自衛隊基地から3キロほどしか離れていない土地もある。
見解を求められた時の要人の回答は、「ぜひ勉強させて、一つの考え方をまとめてみたい」だった。
その人にとって、勉強は「させる」ものだった。
自分では考えず、キョロキョロして誰にも気に入られるような答えをこねあげる、それが勉強だった。
勉強の成果が、その後どうなったか、そんなことはすっかり忘れて、その人は鳴りを潜めた。
やるべきことの中に、それが入っていたかどうかは、誰にもわからない。
人間とは、忘れることを覚えこみ身に着けた動物である。
煙草値上げ論にまた火がついた。
海の向こうには、火をつけない煙草があるという。
そう聞くと、水煙草かとまず考える。
いや、煙も出さない、封を切ってもいけないもの。
包装が傷まないよう、扱いは丁寧に。
その名は「黄鶴楼」
5千円相当のものだから、贈り物に使われる。
貰った人は金券ショップへ走る。それが最多頻度の用法らしい。
火をつけないのは、煙を出さないためだった。
そう、袖の下から煙が出てはまずかろう。
日本の大学は770校あると聞いた。
それだけ数があれば、教育理念もいろいろ、7いろぐらいはあるのだろうか。
7いろの理念、虹色の理想。
それもごちゃまぜにすれば灰色になる。
放射線量測定にNDという言葉が使われる。not ditective 検知不能、検出不能である。
そういう領域を設けて、そこの値はわからないことにしておくと、誰が、どう都合がよくなるのか。
これは、測定不能を検知不能と言葉だけ置き換えてしまっているのではないか。
計測装置を使って測るのだから、検知できないというのはおかしい。
何とかして検知しなければならないものを、ただ一種類の測定装置で計測範囲外だから検知できませんでは、いかにもお座なりではないか。
計測範囲に入らなければ、測定できる別の計測装置を用いて値をつきとめるのが科学者の役割だろう。
言語表現技術の用語に「黙説」というのがある。
言わず語らずでなく、言わずに語る。言葉にせずに何かを語る方法である。
NDは、もう説明しようもないからわかってほしいという、黙説からはやや筋違いになるが、似たような効果を狙った記号ではないか、不信の種がここにもあった。
「風はもう秋の気配」という歌の文句があった。
学友に俳句をたしなむ人が何人かいて、それぞれに斯界で楽しんでいる様子がときどきうかがわれる。
私めのは、季題だとか切字とか、きのつく約束ごとがあることを、かすかに知っているだけなので、せいぜい文字の数合わせに終わって俳句になっていないものと自覚している。
自覚だけでは句は作れない。
文法を知れば小説が書けるなどと思っても、そうはいかないのと同じことだろう。
重ね季はご法度とも聞いたが、そろそろ秋の涼風が吹いてくれば、重ね着もよいではないかといらぬことを思いつく。
季重ねを楽しむ、重季閑揉などと四字熟語を捏造してみたりする。
それもこれも、夜ながの楽しみを兼ねた睡眠剤になりそうである。
__秋風や種ひまわりのはかりごと__
マヤ文明は、4世紀というのは誤りで、紀元前6世紀だったとどこかに書かれていた。
開きが千年にもなると、ずいぶん違うではないかと思うが、それが500年に縮まったところで、一般人にとっては何がどうということはない。
許容誤差という言葉と、許容範囲という言葉がある。
ここまでは違いが許される、許容値を境にどちらか片側が許される、大して変わらいようでもあり、だいぶ違うようでもある。
許容というのは、範囲問題なのか、程度問題なのか。
範囲と聞くとはっきりしているように聞こえ、程度と言うといい加減にさえ聞こえるが、そうでもない。
放射線量が通常の1万倍と聞けばとんでもない値と思うが、それが10分の1に減ったと報道されると、もう安心なのかと思ってしまう。しかし、それでも千倍なのだからまだまだとんでもない値なのだ。
数値は使い方によって人の心を巧みに動かせる。
ある意図をもってそれぞれの判断を誤らせるような使い方は、決して許容されてはならないのだ。
日大の落研は学部ごとにあったと柳屋喬太郎が語っていた。
縦割り精神はこんなところにも巣食っている。
人間は幼稚園のときから縦割り組織に組み込まれる。
色や花の名で組み分けされる。運動会で何組が勝ったと縦割り競争を教えられる。
競争がなければ人間はのんびりしすぎてしまうから、個人で競争することはよいのだが、組同士の競争意識は、植えつけられてなかなか消えない。
個人での競争の色合いをできるだけなくして組の競争にしておけば、嫉妬心の強い母親たちもそれには文句を言わない。
みんな仲良く競争しましょうという分裂思考気味の雰囲気の中で、縦割りが本能の域にまで根をはびこらせながら育つ。
社会に出れば、そこには成熟した縦割りが待っている。
社会に根を下ろした縦割りのほうも、気ままな人間に使われたり邪魔にされたり、結構忙しい。
縦割りが邪魔しているなどと、仕事のやり方に知恵を出せない理由づけにも具合よく、メビウスの輪のような使い方もされる。
三途の川を渡るときも、何々宗などと縦割り。渡ってからも、地獄、極楽と縦割り。
あれこれぐずぐず言ってみても、人間という生物は、個体誕生の淵源からすでに縦割り様式に依存していたではないか。
「根性という言葉がはやり出してから日本のスポーツはを弱くなった」と岡野俊一郎氏は言ったそうである。
なるほどと思う。
「勘定」という言葉はわかりやすいが、「根性」はわかりにくい。
わかりにくくても、わかった振りをしなければ恥ずかしいと思わせるようなところが「根性」にはある。
わかりにくい言葉も、言うだけは簡単。
だが使いやすくても効き目は少ない。少ないどころか、逆効果ということもある。
むかしは「こんじょわる」という使い方しかしなかったこの言葉が、どうして威張り出したのか。
目に見えないことは、望まれてその言葉が生まれる。
だれでもが普通にもっていることは、望みの姿で現れることはないから、わざわざ言葉にする必要もない。
I love you. の連発は、憎みあうほうが多いからとも思ったが、海の向こうは違うのか。
ともかく、根性なしが多いから根性が叫ばれる。
安全でないことが多いから安全が叫ばれる。
安心でないことが多いから安心が叫ばれる。
あらゆる店の電池の棚が空になったことがあった。それから間もなく半年になる。
手で直接動かさない小型の用具も玩具も、電池がなければ動かない。
高齢者や幼児を見守り、災害時の安否を確認するシステムは、これからだんだん優れた機能をそなえてくるものと思うが、確実に働かすためには電源がしっかりしていなければならない。
電源は、壊れなければよいだけではなく、常に電気を供給できるようになっていなければ、しっかりしているとは言えない。
おばあちゃんや幼稚園児に、毎日忘れずに充電しなさいと言っても、それは無理。電池の入らないものはできないか。
体のどこかについてさえいれば、熱電変換素子とコンデンサを組み合わせた温度差電源で発信できる装置が考えられている。
⇒ http://www.nec.co.jp/ml/?t=engsl_sale_2&p=e316t91200000989252
見ていてもらえるのはありがたいが、体の一部が何だかロボットになったような気がしないだろうか。