・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

飽食の姿をした貧困

2013年11月15日 | つぶやきの壺焼

大相撲の放送を見ながら思いました。
片足が宙に浮いたとたんに、腹の膨れ上がった力士がパタンコ、パタパタとすぐ前に転びます。
力もちであるところを見たいお相撲さんが、見せてくれるのは尻餅でなく腹餅です。
膨らんだ体を支えきれないのです。
これは食い過ぎ以外にはないと思いました。


食べ放題という商法も、もう古い、そんな感じがします。

ガツガツと食べさせる、そんなCMも、もう見飽きました。
あれは、餌をあさる野獣に似せた仕草に、人々が食べる魅力を感じるだろうと企画するCMの仕立て人の、貧困さのあらわれでしかありません。
あそこには、食べものへの感謝の気持など湧いてくる気遣いはありません。

静かに、ていねいにものを食べる、それが人間の食事です。
それを喜べるのでなければ、ゆたかな食生活とはいえないでしょう。

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名前という新しい食べもの

2013年11月14日 | つぶやきの壺焼

霜降りと呼ばれて霜降りではない、苦肉の策の見本のような、脂肪注入食肉があります。

クルマと呼ばれてクルマでなかったエビが騒動を起こしました。

霜降りが、さほど騒がれず、クルマがわいわいやられたのには、違いがあるからでしょう。
もちろんミートとシーフードの違いではありません。
新しい霜降りには、そう呼ばせるための加工に工夫がこめられています。
クルマのほうは、剥いてしまえばわからないダロウと思っただけで、工夫のあとが見られません。

名前は、代替わりだと言ってしまえば、モノが違ってもよいではないかという見方もできます。
役者、芸人の世界では、名前だけ引き継がれることがあたり前になっていますが、何代目という呼び方で違いはわかります。

霜降りやクルマも、何代目と呼べば、違うではないかと叱られずに済むでしょう。
いちばんまずかったのは、こっそりやったことだったようです。
人力車が自動車に変わっても、これはクルマではないと言い張る人はいませんでした。

せめて名前にひと工夫あればよかったかとも思います。
「新しいクルマが誕生しました、みなさん名前を考えてください」とやれば、宣伝も、知らないとは言わせないためのキャンペーンも、ついでにできてしまいます。

お召し上がりのグルメさんの多くは、味よりも名前を食べていらっしゃるようなので。

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お金を返せばよいのではありません

2013年11月13日 | つぶやきの壺焼

偽称メニュで損害を与えてしまった方には、代金をお返ししますと、まじめくさって言いながらTVに映る役目の人は、全くお気の毒です。

お金を返せと頑張る人は、エビの違いを舌で感じ取れなかった人たちではないかと思います。
その場で味わったのは、滅多にないと思われている銘柄のものが口に入ったという優越感と、それが割安に経験できたという満足感でしょう。エビの味がクルマのものであろうと、それとは違っていようと、そんなことは問題にしてなかったのです。

食べてしまって、ああ美味しかったと言ってから、味が違ったお金を返せという論法は、おそらく通用しません。
返せというのは、得意になってひとに食べさせた、間違えさせられた、恥をかいた、名誉を傷つけられた、それを何とかしろという思いからでしょう。

しかし、あのことで傷を受けた名誉は、得意顔をしていた奥様のものだけではありません。日本人の倫理観はその程度のものかという、外からの国際感覚のほうが、はるかに大きな傷を受けているのです。
大嘘を平気で言いまくる国の人は、まあわれわれと同じようなものと思うでしょう。
むしろ人を騙すことを知らずに生活しているまっとうな民族の人たちにこそ、与えた影響が大きいのです。幸いそういう人たちには、日本のTV報道が届いてないかもしれません。しかし、天がそれを知っています。いつかはその話が伝わります。

メニュ表示は大体うそと思って入ればよいとか、メニュはなんでも「それ風」と読み取っておけばよいとか、珍説を振りまく大人気取りの先生もいらっしゃいます。
騙すことをなんとも思わない社会に、融け込むだけに気をとられて、人の心の持ち方を法に照らしてしか考えないように、固定バイヤスがかかってしまっているのでしょうか。

メニュは、お店の看板の裏書きです。いや、いちいち看板のつらを確かめてから店に入るのでないお得意さまには、メニュこそ表看板です。

メニュはもっとまじめに書きましょう。

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お客様は神様だった

2013年11月12日 | つぶやきの壺焼

「お客様にご迷惑をおかけして申し訳ありません」
この言葉が、謝罪語として通用するのは、特定の人に被害を与えてしまったときだけです。
お客様にと言っておけば、迷惑をこうむった人のすべてに謝ったことになるかというと、そうはいきません。

お客様が、消費者ではないこともあります。
「お客様にご迷惑をおかけした」と言う前に、お客様とはどなたのことか、考えてご覧なさい。

ある国では、ビジネスの顧客は消費者ではなく、その地の政治家なのだと言われます。
そのつもりで海外進出に望まなければ、努力の効果は有効になりません。
もちろん、この場合正邪は別次元で考えなければなりませんが。

商いをする上で、共通のお客様はどなたなのでしょう。
「お客様は神様です」とむかし聞いた言葉の意味がなんとなくわかってきました。

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閻魔様も忙しい

2013年11月11日 | つぶやきの壺焼

一斉謝罪の波紋が広がると、何を謝っているのか、はっきり見えなくなります。
ほとんど罪の意識不在の謝罪会見ですから、見えないことに不思議はないのです。

「何を」が見えなければ、「なぜ」を考えることになります。「なぜ」は動機です。
犯罪に動機があるように、謝罪にも動機があるでしょう。

あの種の謝罪の動機には、犯してしまったことを悔いる気持はなさそうです。
想像できるのは、これから先、いつまでも同じことを繰り返さないように歯止めを掛けたいという、計算に基づく動機です。
謝罪の文言には、「再び起きないよう」という定形句が必ず用いられます。そこにはこの動機がにじみ出ています。また並んで頭を下げることがないようにという祈りの気持です。

祈りの相手はどなたなのでしょう。
閻魔様ではないかと思います。
閻魔様も忙しくなると、霞ヶ関に新しい省庁が必要になるかもしれません。
「閻魔庁」 さて長官はどういう方がよさそうでしょうか。

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エスカレーターで歩いてはいけないか

2013年11月10日 | つぶやきの壺焼

エスカレーターでは歩かないで欲しいという放送を、ときどき耳にします。
動く歩道では、歩かないでくださいとは言われません。そこでは、降りるときだけ気をつけてくださいという放送はあります。
確かに、動く歩道から降りるときには、慣性に逆らう身構えをしていないと転びそうになります。


エスカレーターと名づけられても形は階段です。なぜ歩かないでほしいと言うのでしょうか。
通路の階段なら転んだほうが迂闊とされますが、エスカレーターでは転んでおいて装置が悪いと言う人が出てくるからでしょう。
便利なものを設けて難癖をつけられてはかなわない、転ぶのが嫌なら歩くなという、本末を転ばせた考えのようにも思います。


どこの誰ともわからない人同士で、前後の間隔なしにつながって立っているのは、レゴのピースにされた気分で、心地よいものではありません。それでも前が開くと詰めたくなります。そして、長いつながりほど早く根け出したくなるのです。
何かの待ち行列の場合は共通の終点がありますが、エスカレーターにはそれがありません。終点なしに降りた人々は散らばります。

歩いてならない満員のエスカレーターは、動く階段というより動く行列装置です。

エスカレーターを動く階段にしてしまったのが間違いと言う人もいます。
 ⇒ http://p.tl/FZLO

乗り物が、乗って楽しむ、乗れば便利の域を超えて、命を預けるものと気付いたときには、つくってしまったことを悔いても、もう遅いのです。いまさら身構えだけではどうにもなりません。
今の日本の一番の悩みごとに、どこか似ています。

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道の歩き方を忘れた人もいる

2013年11月09日 | つぶやきの壺焼

道交法には、「歩行者の通行方法」という章があります。そこには、通行区分、行列等の通行、横断の方法など、歩き方と歩かせ方が定められています。

平成25年6月に改正したとき、今の時代にだいじなことを落としていたようです。
踏切を渡るとき、階段の上り下りには、携帯通話は禁止しないと、電車にはねられたり、転げ落ちたりします。
そんなばかなと思うことが実際に起きているのです。

歩行中のWebやメールの、閲覧、書き込み、送受信も禁止したほうがよいでしょう。

こんなことを法律で決めなければ、自分自身も他人の生命も護れないほど、人類は退化しました。情けないことですが、仕方ありません。

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おっさんを借りられる

2013年11月08日 | つぶやきの壺焼

「おっさんレンタル」というのがありました。

一時間千円でダンディなコンシェルジュがやって来ます。

使ってみてから買える通販もあります。

机の上のお勉強だけでなく、スポーツまで教えてくれる家庭教師も来ます。

一分でわかる、おっさんレンタルアニメ動画!
 ⇒ http://p.tl/1i_F

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ストーカー対策心得

2013年11月07日 | つぶやきの壺焼

ストーカーという行為名ができたのは20世紀の末だそうです。
新種の困りごとは、対処が難しいものです。
法律に触れなければ何をしても許されると思い込むおバカさんたちは、ストーカーのような暇つぶしに興味が偏ります。

XX防止法、YY規制法の類は、困りごとが起きなければ生まれません。
これまでに起きてないようなことには、取締りの方法など考えられませんから、「ストーカー行為等の規制等に関する法律」というのができたのは、平成12年で、平成25年に改正されるなど、法律がまだ新しいのはあたり前でしょう。
 ⇒  http://p.tl/7SPB

ストーカーの被害は、嫌な思いからだんだん怖い思いになっていき、傷害あるいはそれを超えたもっとひどいことになっていくのですが、「思い」にかかわる被害は実証できないところにむずかしさがあります。

病気ならば診断書をお医者さんが書いてくれますが、嫌な思い、怖い思いに診断書は誰も書いてくれません。
被害者も加害者も病気の一歩手前を歩いていますから、始末が悪いのです。
加害者のほうは、病気まで行ってしまうと罪は犯しても罰を与えられなくなりますから、これがまた困ったことを増やしていきます。


もしストーカーに狙われていると感じたときには、じっと耐えているのが、いちばんまずい対処法のようです。
自分の頭がおかしいのではないかと思われては嫌だ、などとぐずぐずしていれば、引きずりこまれたぬかるみはだんだん深くなります。

とにかくいろいろな人に話を広げておくのがよさそうです。
目を光らせてくれる人、味方を増やすのです。
親兄弟はもちろん、警察にも、地域の役所にも話しておくとよいでしょう。
被害がはっきりしなければ警察は行動に移してはくれません。しかし、話しておくことがだいじなのです。
自分で日記など書いておいても、ほとんど対処の役には立ちませんが、警察に相談した、その日時だけははっきり記録しておくとよいでしょう。

こういう相談は、交番より警察署がよいという説もありますが、選ぶ必要はありません。両方行けばよいのです。
住所変更の手続きとは違いますから、どこかに一回届けておけばそれでOKなどというものではありません。
警察には親の同伴がよいとも言われます。

警察よりも弁護士がよいという説もあります。
これもどちらを選ぶかではなく、両方がよいでしょう。
ただし、弁護士の場合はお金がかかります。

恥ずかしい話をするのも嫌、時間をさくのも嫌、お金を出すのも嫌なら、どうにもならなくなるまで迫られるのをじっと我慢して、命が危なくなっても耐えるしかありません。

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子どもの仕草と大人のため息

2013年11月06日 | つぶやきの壺焼

園遊会で小中学生のようなことをやって見せた国会議員がいます。
幼児性は、とかく美化されやすいものですが、可愛さを通り越せばみっともないだけに終わります。

メディアは、美談と醜聞のどちらかを取り上げれば、たちまち話の種になりますから、国辱ものの事件でも、使命感を盾に、すぐ電波に乗せます。
件の先生は、メディアが騒ぐから大ごとになるのだなどと嘯いていました。

何日か経って、陛下に迷惑をかけたのは悪かったと、急に大人の振りをして見せ、ずいぶん偉そうなことをまた口走ります。
迷惑をかけたのは陛下に対してではないでしょう。
あの行為が国辱であることに、全く気付いていないのです。

子どもから大人へ、揺れ動く振り子は、次にまた子どもに向かうのかどうかわかりません。
同じ軌道を戻るとは限らないからです。
事件後の囲まれ談話で映った、何が悪かったのかというきょとんとした顔には,憑いた狐しか見えませんでした。

憑いた狐は顔に出てくるということが、今更ながらわかって、見せられるほうは、ため息しか出てきません。

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鋭敏にはなっていかない味覚

2013年11月04日 | つぶやきの壺焼

子どもの時分に嫌な味だったものでも、歳をとると美味しく感じます。
子どものときは好き嫌いと言われたことが、大人になると味の好みに変わります。

大人になってわかる味というのは逆で、子どものときには敏感だった味覚が、年を経てボケてくるのではないかと思うようになりました。


味ボケ、味覚障害、つばが苦くなることさえあると聞きます。
味覚障害は、亜鉛が不足すると起きるそうです。

亜鉛が足りなくなる理由というのは何でしょうか。
亜鉛を含んだ食べ物をとらなくなったという説はもっともですが、牡蠣やアーモンドなどを毎日食べ続ける人はいませんから、だんだん減ってくる原因にはややうすいようです。

ファーストフードやインスタント食品など、偏った食生活が原因という説があります。
これは相当あたっているものと思います。
手をかけず、すぐに口に合うものだけを食べる、この習慣がいちばん効いているでしょう。
食べ物は、口あたりの好さを追求していけば、加工度と添加物がどんどん増え、その過程で、長い年月の間に出来上がってきた人体の機能に必要な何かが、抜けたり消えたりしていきます。

ふと思いました。
トタン屋根が減ったことと何か関係はないだろうか。
どうやら、脳の方にも亜鉛が回りきらなくなっているようです。

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数字を嫌うか利用するか

2013年11月03日 | つぶやきの壺焼

時間は普通数字で表されます。
半時、小半時などという言葉も、時代ものの小説のなかでしか使われなくなりました。

とかく数字を使いたがるこの世ですが、数字の意味が、見聞きする側に状況を直接訴えかけない場合もあります。
単位を変えると大きな値が急に千分の一になり、事の重大さをぼやかしてしまうことさえあります。


ある事件で、電話で安否を確かめてから20分経った後の殺人が、電話の直後に起こったと報じられました。
このときは、どういうわけか数字が嫌われました。

甘すぎしつこすぎの男女のもつれごとよりも、20分経過後を直後と簡単に言い換えたそのことの意味が、なぜかいちばん気にかかっています。

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濃くなりすぎた味

2013年11月02日 | つぶやきの壺焼

生まれて初めてボンカレーを食べたときは、やっぱり不味いと思いました。
家で食べていたカレーと、味も香りも全く違うものだったからです。

そのころは、カレーをわざわざ外で食べるようなことはしなかったので、作っているときから、台所から香りが漂ってきたものでした。
食べものの香りには、調理のうちに味を受け止める用意をさせる効果もあるようです。

1969年7月に月面着陸したアポロ11号が、宇宙食としてボンカレーを使っていた話は、ずっと後になって聞きましたが、それから半世紀後の今は、驚異的な味の向上を見せています。


しかし、味が育つということは、多くの人に受け入れられるようになるということなので、良くなっているかどうかとはまた別の話ではあります。
味に人気を持たせるには、ごくわずかずつ驚きの感覚を刺激し続けていかなければなりません。
味を削り取って驚きを得させるのは難しいので、何かが加わることになり、だんだん複雑になっていきます。
複雑な味では、どこかに濃厚な部分がなければ特徴は出ません。
これでもか、これでもかと続ければ、味はどんどん濃くなります。

複雑濃厚な味のなかから気に入ったところを探し出すには、舌のほうも、働きを変えていかなければ追いつきません。

ものの味ではなく、つけられた味が幅を利かせることになります。
鍋の底が見えなくなるほど鰹節を放り込んだ、出汁とは言えないような駄し汁で、鈍くなった味覚を掻きたてる、ばかげたことがしきりに宣伝されます。

そのうちに、調味料が超味料に化け、形を持たない味だけの瓶詰めがスーパーの棚に並ぶようになるのでしょうか。

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専門家の意見はどう役に立つのか:2

2013年11月01日 | つぶやきの壺焼

痛くもない腹を探られるという諺がありますが、近頃探られる腹は痛んだ腹のほうが多そうです。
議会が公明正大を認めさせる自信を失ったとき、第三者委員会という名の、一見正義の味方風の組織が作られます。

しかし、第三者委員会が、専門家集団になってしまうと、そこではよく言われる広い視野にたった判断がくだされるかどうか、疑わしいものになります。


専門家と呼ばれる人たちは、専門のことがらに関しては、一般政治家の水準を超えた知識をもちろん持っています。
しかし、研究であれ製作であれ、その道で生活している以上、利害当事者であることも確かでしょう。

利害当事者に利害を超越した発言を求めることはできない相談です。
利害の認識にも、専門知識が必要なのはあたりまえなのですが、利害の認識と、それをはかりにかけた判断とはまた別次元のことです。

一時、国益などという勘定主義まるだしの言葉がはやりましたが、国の存立は、利害勘定だけに依存するものではありません。

利害当事者には利害の説明を、専門家には判断の参考になる知識を語ってもらい、決定は利害関係のごく薄い人がすべきではないかと思います。

専門家には、意見は求めなくてよいのです。
むしろ意見を言いたがる専門家は怪しいかもしれません。
専門家の話は情報です。
情報は材料であって、材料を道具に使ってはならないのです。

専門家は、ものごとの判定者に適正な判断を下させるための情報提供者に徹するものでなければ、第三者委員会への招聘は、むしろ有害になるかもしれないと考えていますが、いかがでしょうか。

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