・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

なんでもありが当たり前とみられる それが奇妙でない世の中

2015年01月16日 | つぶやきの壺焼

何か気に入らない、やるせなさの集まりが、他には手立てもなく、公道をそろって歩く、それがデモ行進だと思っていました。
仮に、だれかに操られたデモであっても、操る人にはそこまでしか力がなかったのです。

ところが、それぞれの国で最高の権力を握っているはずの人が、揃って行進をするという椿事が起きました。

力のない人が集まって、集まれば力が出るところを、力を持った人に見せつける示威行動であったものが、力の存在の逆転現象を見ることになったのですから、これは椿事でしょう。
示威行動が逆転したとき、それはどう言えばよいのでしょう。
隠威行動でしょうか、威力を秘めた行動なのでしょうか、いや、どこか違うように思います。

ハイブランドのスーツのポケットに見せた洒落が、フランスへの敬意と友好のしるしと称賛されているとも伝えられています。

デモで対抗される側にはせいぜいビルを壊すぐらいの力しかない、それを抑え込もうと、力を持った人がまた集まって、百万人を超える人をまた集める、パワー・バランスという言葉が、どこか空虚に響き、バランスの逆でバランス維持を期待しているような、おかしなことをしているのではないか、このデモは安心の材料にはなりそうもありません。
洒落っ気だけでは、ショーにしかならない、しょうもないことのように思うのですが、いかがでしょうか。

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伝え方の芸術性 その効用は

2015年01月15日 | つぶやきの壺焼

道路交通情報は、聞き流していると心地よい響きをもっています。
一方にギャンギャンわめきたてるような、狂声模様のCMがたびたび繰り返されるので、交通情報放送の抑揚をあらわにしない良質のハスキーに、心を落ち着かせてくれる何かを感じるのでしょう。

ニュース性の放送は、その伝え方に芸術性はいりません。
無理やり話しかけるような、妙に艶のある奥様調は、自分の生活に必要な部分だけを自然に切り取って聞いている、耳のハサミの切れ味を悪くします。
情報放送に芸術性を持たせようとすると、音調だけが耳について、伝達性の効用を損なうのではないでしょうか。

芸術性と書いてはみたものの、朝もやや薄暮の風景を描いたもの撮ったものもあるではないかと考えると、これはぴったりした表現ではありません。
装飾表現が、芯であるところを見えにくくしてしまうのを、実例で上塗りしたようになってしまいました。

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遠慮がちは 親切か

2015年01月14日 | つぶやきの壺焼

・・・・でしょうかという言い回しがはやり出したのは、金子みすゞのあの詩が、TVで何度も出てきてからのように思います。
いや、お前がそう思っていてもそうではなく、これこれこういうときからだと言いたい人は、必ず出てくるでしょう。

XXXXという言葉は、江戸時代にありましたか、鎌倉時代にはどうですかなどという、頓珍漢な質問をFAQでときどき見かけます。
ときの経ち方がぐんぐん早くなるように感じるのは、同じときの刻みの中で、ものごとを伝えられる数が、幾何級数的に増えているからでしょう。
その変化を、直線的にしか感じとらない人が多ければ、いまの言葉が何百年も前にあったかどうかという珍問のタネが芽を出すのも、自然の成り行きかもしれません。

気候の変化も、言葉の変化とからんで、奇妙な予報として伝えられることがあります。
「山に雪が降ります。山では十分ご注意ください」というのもその一例です。
そんな生ぬるいことを言わずに、「雪山は危険です、不用意な登山は避けてください」ぐらいのことは言ったほうがよいと思うのですが、・・・・でしょうかがビジネスの常用語のようになっていると、危険の予告さえ、とかく遠慮がちに、それが親切な言い方とばかりに、あなたのお考えに従って受け取ってくださいという、歯切れもメリハリもない発信様式が定着してしまいます。

そこには、ときと場合もどこへやら、撥ね返りだけが飛んでこなければよいというコミュニケーション・マインドが、切れ目をうずめるように溶け込んでいきます。

それでは、あって当たりまえのこだまも、返ってこなくなるのではありませんか。

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何でもすぐ回答 それは極上サービスなのか

2015年01月13日 | つぶやきの壺焼

書店にもコンシェルジュがいて、客の気分を聞いて本を薦めるようになったと聞きました。

何十年か前に、鳥を写した写真集を手に入れたいことがあって、横浜の著名な書店で、表紙のデザインのあらましを告げ、こういう本だと尋ねると、久保敬親の「鳥」でしょう、本店にはあるかもしれません、しばらくお待ちをと電話で問い合わせ、在庫のあることも確かめてくれました。
本店に行ってくださればすぐ間に合いますということ、さほど遠くないところなのでちょっと回り道をして、買ってきたことを思い出しました。

近ごろの相談は、この本が欲しいというのではなく、何を読んだらいいでしょうかというのが多いようです。
そこで、いまのあなたのご気分はと問いかけ、それに合った本を薦めるという話でした。

知らない町での旅行気分を満たしてくれる、旅行案内のようなこれが、書籍販売ビジネスの方法としては見事でも、本日のおすすめが最良のサービスなのかなあとも思います。

ネットのFAQのように、何でもすぐ答えが出てくるのにも、便利さを頻繁にやりとりしているうちに、どうしよう族の人口がどんどん増えていくような、こころもとなさを感じています。

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もの忘れ防止法

2015年01月12日 | つぶやきの壺焼

人名、品名が話そうとしたとき口に出てこないのは、もの忘れではなく、思い出し方が下手になっているだけだと思っています。

品名は、次にもう一度確かな記憶が戻れば、また忘れることはほとんどないのが不思議です。

人名は少し違って、何度でも忘れます。
それに、はじめから覚えておこうという気がなければ、思い出すことはありません。

名前のように、覚えておいて必要なときに思い出そうということではなく、何かをしようと思っていてそれを忘れてしまうのが、もの忘れだと思うことにしています。

言うために思い出すのと、することを忘れないのとは、だいぶ違うでしょう。
することを忘れないようにするには、メモという方法もあります。
しかし、目の前に落ちているゴミを拾うのを忘れないようにと、メモをとる人はいないでしょう。
拾おうかなと思っても、すぐ拾わなければ、それを思い出すことはありません。
あそこにゴミが落ちていたのを思い出したからと、拾いに行こうとする人はいません。

することを忘れないようにするには、すぐしたほうがよいことを先にすることです。
これは必要度順とは無関係です。
優先順位を考えないこと、利害計算をしないこと、合理性などということを忘れてしまって、むしろそれと逆行することが、もの忘れ防止法の要諦です。
いかがでしょうか。

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本人確認という奇妙な関門

2015年01月11日 | つぶやきの壺焼

選挙グッズに「本人タスキ」というものがあるそうです。
街頭に立って、「私はXXです」と通る人にわかるようにしたいとき、決められた期間以外は候補者の名前の入った道具は使えないという規則があって、名前を書けないので、これが私です、とりあえず顔だけ覚えてくださいと、肩にかけるのだそうです。
タスキだけでは目立たないので、旗まで作って立っていると、昔ばなしのヴィジュアル化のようで、滑稽でもあります。

昔は、相手の目の前で名乗りをあげればその本人と認められました。
偽者、影武者でも、相手が勝手に見誤るので、名乗ることまではしなかったでしょう。

近ごろは、電話をかけると、すぐに本人かどうか聞いてきます。
通話録音の予告で、本人であることを確かめるためなどという理由にも使われます。

本人かどうか聞くだけでなく、「いまかけていらっしゃるお電話番号は何をご覧になってお知りになりましたか」という質問が、話の途中で出てきて、何をたずねているのかわからず、「お電話番号とはなんなの」と聞き返したので、ますます話がややこしくなったことがあります。
本人確認のためという理由で、話に入る前に電話番号を聞かれることにも慣れましたが、「お電話番号」というのでこちらの番号かと思い、「固定電話が不通になった連絡なので孫のケータイからかけている」というと「いいえ、このお電話の番号です」と、またまたわからなくなります。
自分の会社の電話番号に「お」をつけているのかとようやく気づき、「そっちのサポートで聞いた番号だよ」でその話はやっと区切りがつき、肝心なこちらの要求を告げるのはその後のこと、何を頼むのかさえ忘れてしまうほどでした。
「開通したら知らせてほしい」といったら、「こちらからお電話をいただきたいということでしょうか」とくるのです。
「いただきたいではなく、そちらからかけてほしいということだよ」と言ったのですが、言いなおしたのがわかったのかわからないのか、「はいわかりました」という返事だけはもらいました。

そのあとCATV回線制御電源の停電が理由とわかったのですが、「開通したら知らせてほしい」~~~「はいわかりました」のやりとりはまったく無効、「通じました」の「お」電話はついに来ませんでした。

本人確認というのは、実に面倒な、合理性と非効率性が肩を並べて走っているような、おかしな手続きだといつも思います。

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情報依存症は社会病らしい

2015年01月10日 | つぶやきの壺焼

冬山をなめてかかって遭難する人のニュースは、毎冬欠かさずに伝えられます。
天気予報ははずれて当たり前と思っていても、自分の都合次第で急に正確度を増します。
なぜこんな日に、予報では晴れると言っていた、という予報予知依存症の後期症例です。

予報が違っていたことがわかった後にもまだ依存しているのを、後期症例と言ってはみましたが、これは後期より衰期、あるいは残期としたほうが当たっているかもしれません。

勝手な呼び名はどうあれ、情報がヒトモノカネの譬えの仲間入りをして、もうだいぶ経ちます。
それでもなお、というより、だからこそ、予報予知依存症が増えるのは、お知らせ漬けで人々の感覚が弱化しているからに違いなさそうです。
これは、個人の病というより、情報依存症という社会病、社会が罹るやまいのように思います。
今日は晴れてはいますが、寒いです。

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黙っていれば 焦げ付くだけ

2015年01月09日 | つぶやきの壺焼

しゃぶしゃぶは、冬の料理か、夏の料理かと聞けば、そりゃぁ冬だよと答える人が多いでしょう。
しかし、これを始めたきっかけが、夏場に焼肉が売れないための対策だったと聞くと、なるほどそうかと思います。
真ん中に排気筒の立ったあの鍋は、照り返しがないので、周りにいてもあまり暑くなく、たれも冷やしておけば舌触りもよいでしょう。
熱さも香りも際立たないようにして食べるしゃぶしゃぶは、牛肉よりも、ちょっと癖のあるものに向いているのではないかという気もします。

坂本九の「上を向いて歩こう」が、なぜスキヤキに化けたのかよくわかりませんが、牛肉を味わいながら食べるには、数奇焼きのあて字が似合うすき焼きがいちばんのように思います。

このすき焼きを、接客メニュに組み入れて出された食卓に、割りしたの用意されてなかったことがありました。
それらしい平鍋と肉に添えて焼く材料を出しておけば、客が勝手に焼いてくれるので、提供するほうは遠くから眺めていればよいと踏んでの、半ば素人考えのメニュだったようです。
さあこの鍋は、時間がたつと始末の悪いことになりました。
まだ煮えてないものが入っていながら煮えたぎった鍋を、焦げ付きから守るには、ひたすら掻きまわし続けるしかないのです。
急場の対策には、煮方中止で火を止めるか、味気の低下を承知でま水を注ぐか、豊潤の香を惜しみながら銚子の酒を注ぐか、いずれも気にそまない択一を迫られます。

経済に未来予測は不可能、出たとこ勝負しかないとはいえ、加熱すれば蒸発が起きて焦げ付くことぐらいの想定は、経済でもすき焼き鍋でも、しておかなければプロの仕事とは言えないでしょう。
市場か客の機転がたよりのおまかせ仕事では、何とも情けないことになってしまうのです。

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命を投げ出すとき 何が起きているか

2015年01月08日 | つぶやきの壺焼

それをかけてという人も、ときどき現れる政治生命とは、何のことなのかわからずにいましたが、これはどうやら議員の資格のことなのかもしれません。
議員の資格を失えば、政治の仕事が何もできない、何を言っても聞いてもらえない、それでは生きているとは言えないということなのでしょう。
しかし、大ものと呼ばれる人には、議員の職を失っても、いろいろなところに顔を出したり、あるいは何かにつけて人が訪ねてきたり、舞台裏でのだいじな役目が待っています。

落選で議員でなくなったとき、政治の仕事ももぎ取られてしまうのは、現役議員のときにあまり役に立っていなかった人たちなのでしょう。
そういう人の唱える政治生命という言葉には、実感が伴います。

この場合に「政治生命をかける」と「生活がかかっている」の間柄が濃厚になるように、けとかの前の言葉が入れ替わると、大違いの関係がほぼ同じことのようになるのも、言葉の綾の不思議なところです。

政治生命は、生活条件ではあっても命ではありません。
命を投げ出しても、「慷慨死に赴くは易し」で、生きる望みと一緒に失う命は、とくに政治家の場合意味の褪せ方が際立ちます。
政治家が他から狙われて命を落とすことはあっても、自ら大義大事のために命を捧げる機会を作らないよう、世の中の仕組みがうまく働いているのも、人間の知恵なのかもしれません。

もし、本当に命を投げ出さなければならないときには、いったい何が起きているのでしょうか。
そんなときはやってくるはずがない、と思っていると、政治生命どころではない、真の想定外のことも、やってこないとは限りません。
どうぞお覚悟を。

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けとかの一字で大違い

2015年01月07日 | つぶやきの壺焼

「政治生命をかける」政治家が何かを仕出かそうとするときの決まり文句です。
かけると言われるのは政治生命、保険会社の名前と間違えそうな言葉です。
そういう先生は、たとえ政治生命を失っても、後は悠々自適、ゆったりと暮らしています。
政治生命はかけても、命はかけません。
「生活をかける」とも言いません。

「生活がかかっている」という政治家もいます。
正直な先生なのか、ほとんどの人が当たり前に思っていることを、わざわざ言ってみると新鮮に聞こえそうだと思ってのことなのか、それはわかりません。
生活がかかっているというのは、それで生計を立てているということです。
そういう先生方にとっては、生活が第一、政治は第二なのです。

自分の命を投げ出して、大きなことをなしとげようとするのは、自爆テロと変わらないではないかと、便利なたとえもできてしまいました。

「生活をかける」と「生活がかかっている」けとかの一字で大違い、先生はけとかどちらですかと、一人ひとり尋ねてみたらどうなるでしょうか。
もし無回答なし、無投票なしというルールを作ったら、まんなかの変な記号に丸がついたカードがいちばん多く集まりそうに思うのですが、いかがでしょうか。

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政党交付金は 政治家に力を与えるか

2015年01月06日 | つぶやきの壺焼

いま、政治家に強そうな人がごく少ないのは、政党交付金制度がそうさせてしまったことと思っています。
国民の生活に直結した行政の仕事でなく、政治を専業とする仕事を自らが望んでしている人に、税金から資金を支給するのは、どう考えてもおかしいでしょう。
奇妙な名前をいまだに変えない政党の、自党だけはそれを受け取らないという態度が、ええかっこしいのようであっても、そのことだけは市民の感情に沿っているものと見えます。

支給対象として認められる規定の人数は、最低制限条件です。
それが、形だけ捏ねあげてまとまれば認定されるという、到達目標条件に解釈されたのでは、考え方のベクトルが、全く逆位相に働いることになります。

政党の力は、自らが持つか着けるかしなければならないものです。
別の拠りどころを与えれば、すがりついてしのぐ気持ちがだんだん増してきます。
それでは、政治のために必要な力よりも、帳簿を上手につけることが正しいことであるという、帳面番頭のような人間の集まりになってしまいます。
芝居見物やウチワのことが、大臣の資格を左右するような情けない話も、政党交付金制度をなくせば、する必要がなくなるでしょう。
この制度は、力を与えようとして逆に力をそぎっとっていくようなもので、三面的政治記事の材料にしか役立っていないように見えるのですが、いかがでしょうか。

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以上と未満を比べてみると

2015年01月05日 | つぶやきの壺焼

柔軟剤以上香水未満というCMコピーが、ときどき耳に入ってきます。
これは、連想のタネになる面白い言い回しです。

駄菓子以上ケーキ未満のチョコチップパンが、売れ行きがよいらしく、スーパーの棚にそれを見つけるには、時を見計らっていかなければならないそうです。

以上と未満は、モノだけでなく、人びとの動きや嗜好にもあてはめられます。
食いしんぼう以上グルメ未満、ホテルのバイキングに、昼どきに群がる奥さま達です。
満員以上すし詰め未満、そこが我慢の通勤電車です。
テント以上別荘未満、今年の夏はと、今から楽しみなコテージです。

いつもは以上ときどき未満、願望と不満の葛藤です。
さて、以上と未満、文化の色合いには、どちらがよさそうでしょうか。

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観光土産街にもハイ・ウエイを

2015年01月04日 | つぶやきの壺焼

外国人を迎える観光産業には、文化防衛のための掟のひとつとして、一昨日「むやみに安いいい加減な土産物を売らない」という提言をしました。

観光産業の成果は、来訪者の人数よりも、よく言われる「経済効果」で判定したほうが、はるかに実質的です。
安ものの陳列を制限し、売上効率を上げられるような街をつくることが望まれます。
観光土産街のハイ・ウエイです。

そこでは、すぐ壊れるような、実際には日本で作ってないものは、販売が自主規制されます。
ノン・センスな、だらしのないデザインのものは売られません。
持ち帰っていつまでもだいじに飾っておける、お土産を待っていた人が受け取って感激するような、良いものだけが売られます。
それなりにおカネを持った、きちんとした人しかそこを訪れません。
そういう人は、ハイ・ウエイの評判をネットで知って、人より先の話のタネを買いに、競って訪れるでしょう。

土産物の質は、その地の文化のバロメーターです。

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観光産業も目標の選択がだいじ

2015年01月03日 | つぶやきの壺焼

魚をたくさん網にかけ過ぎた漁船が、魚群の重みで転覆させられるという事故が、昨年の暮れ近くにありました。
漁業も、営業目標をトンで表すようになると、どうしても量の獲得が第一になります。

観光産業も、客の数にとらわれ過ぎると、ただ押し掛けて通り過ぎてゆくだけの、野犬の集団とさほど変わらない団体が、次々にやってくることになります。
後に残るのは、ゴミと排泄物と、騒音の残響です。
清掃で片づけられるもの、時間が経てば消えるものはまだよいとしても、文化につけられた傷あとは、修復に大変な努力が要ります。

注ぎ込み過ぎた水は、必ず溢れ、そしてこぼれ、つまり想い出のあとさき、ということになってしまうのです。

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文化防衛を 観光産業の掟に

2015年01月02日 | つぶやきの壺焼

観光庁では、2020年に向けて、訪日外国人旅行者数2000万人の高みを目指すとしています。
大勢の人を、尽きることのない感動に出会える国として迎えるには、文化の基盤を崩されないようにしておかなければなりません。

自国内でさえ、観光地で押し合いへしあいの末、だれが何を仕掛けたのでもない場所で、たくさんの死傷者を出すような、われ先行動の習慣が沁み込んだ人たちが、いくら数多くやってきても、統計数字を上げるだけのことしかしてくれません。

外国人を迎える観光産業には、文化防衛のための掟が必要でしょう。
▼ むやみに安いいい加減な土産物を売らない。
▼ 言いたい放題の要求は黙って聞き入れない。
▼ 清潔、静粛を乱すような行動を黙認しない。

いかがでしょうか。

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