撮る人を撮る。
被という冠がつくものに、被写体や被害者、被告人、被疑者などがある。
なになにされる、こうむるという意味合いがある。
ということは、主体となるものがいる。
撮影者や害を及ぼしたり告発したり疑う側の存在があるということである。
誰にでも簡単になってしまっている可能性がある、それが主体側であろうと被の側であろうと。
むしろ自分を「被」というものの立場に置いてみることで、思い至る改善や、慎むべき言動や、救われる間違いもきっとあるだろう。
人のふりは、自分のふりを思うよい機会でもある。
間違った主体性を信じ込んでしまわないよう気をつけたいと思う。
私は撮る人を撮ったが、もしかしたら私も誰かに撮られていたかもしれない。