人は内面を態度という形で、他の人に訴える。
充実感や不平感や順調や不調や喜び悲しみといった、それそのものの反応を現す場合もあれば、おおざっぱやきっちりしている、尊大や卑屈などの対応を現す場合もあれば、緊急時やピンチの時の態度のように、その本質を現す場合もある。
ある程度の付き合いになれば、いくら取り繕ったとしても、態度というものはその人を隠せるものではない。
どこかで、露見し、受け取られているし、また自分も他人から受け取っている。
人は、その他人の態度が、気に入ったり気に入らなかったりしながら、コミュニケーションを採る。
態度の気に入らない人は、私が気に入らないだけで、本人は気に入っているのだと思う。
つまり、「態度」とは、人がある対象に対して抱いている信念の体系を見せているものだろうし、一定程度永続性のあるものである。
だから、理詰め強引にいくらその態度を改めさそうとしても無理なことである。
またそのばしのぎで、改めようとしても無理なのである。
もしその態度が思うに任せないものなら、取り繕いに精を出すのをやめて、信念をひっくり返すか、ひっくり返されるしかないのである。
自分を置いたままで、とってつけた、
「はい。これからはちゃんとします。」
まずもって、そのような言葉とその「態度」を安易に信じて安心してはいけない。
態度とはすべからく相対的なものである。
しかるに、自分も対象も変わらずに変えることはできない。
鳴かぬなら鳴いて見せようホトトギス。