南無煩悩大菩薩

今日是好日也

さりながら。

2007-10-13 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

露の世は 露の世ながら さりながら

-小林一茶-


さりとての人。という形容があてはまるような人がいる。

さりながら。は去(さ)るではなく、然(さ)るであろう。

しかしながらの人。

本当はわたしがなんで生きているのかと自問すれば、そういう人に死ぬまでにはなってみたいからではないかと、いわし雲をみながら考えてみる。

さながら、露の世ではあるけれども。


やせがえる まけるな一茶 ここにあり。

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ダークマター。

2007-10-12 | 日日是好日。

宇宙には、光さえも抜け出せない程の強い重力を持つ場所があると聞きます。

空間が自らの重みで潰れ、光を歪曲させるようなこともあると伺います。

解明の途端もおぼつかない黒い問題。

洋風にいいますと、ダークマターと申すそうでございます。

ダズンマターは、問題ないよ。という意味でございましょうが、ワッツマターは、何か問題でも?という意味でございましょう。

マターをまたにかけて活躍するのは、これがまたまた難しいのは、洋を問わずそのような繫がりもあろうことかと思うしだいでございます。


わたしら商売人は、どのような問題に出会うのかということでの「戦略」、その問題に出合った時にどうするのかということでの「戦術」でマターを回避するのですけれども、ダークマターに対しては、これはもう出たとこ勝負のような、黒い問題がついてまわるのでございます。

白黒つけられずに、目を白黒させるばかりでございます。


ひとつ思いますのは、知らないことは幾らでも起こっている。という心構えのようであります。

経験ない理解も出来ない力も無いと思われるような問題に直面したとき、わたくしは、ネルソン提督の言葉に殉ずるのでございます。
「怯むでない。風は勇者の方に吹く。」

何事によらず、自然界では、「補償」作用はあっても、「保障」制度は存在しないといわれます。

完全な生存の自由の上に相乗効果がプログラミングされているようであります。

「大胆な冒険か無(ナッシング)」に、挑戦するほかないということでもありましょうや。



出た出た月を写して、遊び半分に反転させてみたれば、月が黒い問題にすり替わって出てきたのでございます。

いわゆる出たとこ勝負でございます。

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男子十二学坊。

2007-10-11 | つれづれの風景。

え~と、えと。と考え込まなくても。

十二支を奏でるのである。

「子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)」

と干支(えと)を奏でるのである。

1年は12ヶ月。1日は12時間の2回転。

閏年や閏時間や歳差運動はあるにしても、おおむね十二が宇宙船地球号のある一つの単位になっているのである。

それで何を学んでるかといえば。

え~と、えと。

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景中景。

2007-10-10 | つれづれの風景。

波の瀬の背に揺られて揺れて。


景中に景あり。

古くからのテーゼの一つに、「君の見ている赤は僕の見ている赤か?」

というものがある。

「君の見ている風景は、僕の見ている風景か?」


どうにも正解を、実証し得ない問題である。

そんなことを考えながら、船に揺られる。

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かざぐるま。

2007-10-09 | つれづれの風景。

「まわれかざぐるま」

小刻みな上下の震動の内に、ストロー柄はその弾力を吸収する。

あっちをむこうかこっちをむこうか戸惑いながら。

からからと勢いよくまわっていたのに。

ピタリととまれの成熟。

ポジティブなのかネガティブなのか。

そこだけ差し込む光の強さで、向うに闇が映し出された。

ん。間違いない。光と風のほうがくをさししめしている。

たぶん。今日はポジティブだ。

「まわるなかざぐるま」

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太鼓橋。

2007-10-06 | つれづれの風景。

太鼓橋に朝日は昇り、青天に白昼月のかかるころ、風景は一服の侘び茶となる。



侘び寂びというものは、突き抜ける明るさにはコーディネートの難しい概念ではある。

しかしだ。

昨来の轟雨で綺麗に葬られた浮世の塵埃。音の無い朝。
清涼なる空気の元での太陽と月と太鼓橋の競演に、侘びる一興もよろしかろう。

と思うのである。

その一服の向うに、希求するものである。

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会話。

2007-10-05 | つれづれの風景。

話し合う問うことは大事なことだ。

この親子も会話をしているのだろう。

かくかくしかじか。と。

・・・。



「たくさん喋りはした。喋りはしたが、しかし話はほとんどしていないじゃないか」

という残念なことを招かない心持も肝要であろう。

説明責任ということを果さなければいけない時もある。

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天にあり。

2007-10-04 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

鶴は千年。亀は万年。我は天年。

-仙禅師-


大雑把に端折って強引に無責任に言えば。

宇宙全体に存在する物質は元素レベルにおいては、全てにおいて、物質である。

肉も血も花も木も石も地球も太陽も月もちゃりんこやスペースシャトルも元素レベルにおいて物質の集合体であることに違いは無い。

その物質たちが、何らかの配合と連合と統合とで存在として成り立っている。

分解できるのである。全てが。

統合できるのである。全てが。

同じなのである。全てが。

異物はないのである。

逃避や排除は気休めでしか本当はないのであろう。

小生には未だ到底受容れきれないが。

悟る。とは、はたして物質間の統合によってそこまで考えが及ぶことである。

不思議は、天にあり。


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朝冴。

2007-10-03 | つれづれの風景。

午前6時の朝の引き潮に、今日も快晴の空の青さが冴える。

空は見ないでおこう。

充分にその姿は心の内にひろがるのだから。



遠くでえさをついばむ鶴。

いやいや。騙されてはいけない。

いくら鷺(サギ)だからといっても。

・・・。

冴えないのは、私だけであった。
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車窓。

2007-10-02 | つれづれの風景。

僕は小さな窓から、大きな世界を見ていることに気付いていなかった。

流れる雲と同じように、山や木々も流れ去るものだと想っていた。

全ては動き、全ては流れ、全てが落着くことは無い。

大きなカーブに差し掛かって、自分の体が揺れた時、それは突然にやってきた。


気分が悪くなったのだ。

じっと流れ去るものを見ているだけの自分が、なにかとても気持ち悪くなった。

僕は小さな窓を閉じることに決めた。

しかし窓は閉まらない。

窓は最初から閉まっていたのだ。


それは本当は大きな窓であった。

知らなかった。

流れているのは、僕の見ている世界ではなく、僕自身であることを。


気付かなかった。車に酔ったのか酒に酔ったのか。

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神無蝿。

2007-10-01 | つれづれの風景。

五月蝿とは違うのである。

うるさくは無いのである。

じっと動かないから僕でも撮れるのである。

季節はずれの蝿が、生涯をじっと静かに閉じるその間際に稲穂に止まっているのである。

彼なりに祝っているように思えるのである。

もはや僕など眼中にないのである。


そうだ。と。

はやめの新嘗祭を僕もするのである。

今日は豊穣の祝い酒。みょうがをたくさん食べたのである。

冥加に尽きる。


うるさいことはまったくもってないのである。

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