19世紀のスイスの医者クラパレードは健忘症に悩む患者を抱えていた。
病状はとても重く、15分に一度自己紹介をして自分が誰か思い出させてやらないといけないほどだった。
ある日、こっそり手にピンを隠し持って患者と握手をした。
翌日、彼が手を差し出すと、患者は「彼が誰だったかわからないのに」、さっと手を引っ込めた。
それ以来研究が行われ、人は無意識の内に学習し、意識できる部分では学習した内容を覚えていない場合があることが示された。
学術的には、意識的な記憶と無意識的な記憶を区別して、宣言的記憶と非宣言的記憶とよんでいる。
経験からくるリスク回避の大部分は非宣言的記憶に基づいて起きる。
自分の賢さや、自分の阿呆さは、自分が自分で意識し自覚し宣言できるようなものでは本質的にないのやもしれない。
無自覚の智や、無自覚の阿呆さ加減が、無自覚に発揮されているケースがあることは少なからず同意できる。
理由を説明することはできないけれど、なんとなく「勘」が働くときがある。
それは、冴えたり当たったりすることもあれば、全くの見当違いもある。
もしかすればそれが、非宣言的記憶からのメッセージかもしれない。
私たちも健忘症の患者と同じように、自分が意識し自覚している部分よりも、「忘れていながら持っている」膨大な量の非宣言的記憶に基づいて生きているようだ。
「だいじょうぶ。一番大事なことは、私も知らない私がもっている。」
宣言的であることよりも非宣言的であることのほうが、本質としてのウェートは高いのではなかろうか。