南無煩悩大菩薩

今日是好日也

無の効用。

2010-02-09 | つれづれの風景。

昔の城の蔵である。

蔵とは穀物や軍需物資などを貯蔵する処。

立派な柱や垂木でしっかりと美しく造られている。

今は何もない、がらんどう。

しかし一番大事なのは、外見や柱の立派さではない。

それらによって造られたこの何も無い、無の空間こそが、蔵の蔵たる存在理由である。

無ければ無いほどに、価値がある。



「なんにもないじゃない」

いやいや、見学の若君姫君よ。それこそが素晴らしいのですよ。
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宣言のない宣言。

2010-02-08 | 有屋無屋の遍路。

19世紀のスイスの医者クラパレードは健忘症に悩む患者を抱えていた。
病状はとても重く、15分に一度自己紹介をして自分が誰か思い出させてやらないといけないほどだった。
ある日、こっそり手にピンを隠し持って患者と握手をした。
翌日、彼が手を差し出すと、患者は「彼が誰だったかわからないのに」、さっと手を引っ込めた。
それ以来研究が行われ、人は無意識の内に学習し、意識できる部分では学習した内容を覚えていない場合があることが示された。
学術的には、意識的な記憶と無意識的な記憶を区別して、宣言的記憶と非宣言的記憶とよんでいる。
経験からくるリスク回避の大部分は非宣言的記憶に基づいて起きる。



自分の賢さや、自分の阿呆さは、自分が自分で意識し自覚し宣言できるようなものでは本質的にないのやもしれない。

無自覚の智や、無自覚の阿呆さ加減が、無自覚に発揮されているケースがあることは少なからず同意できる。


理由を説明することはできないけれど、なんとなく「勘」が働くときがある。

それは、冴えたり当たったりすることもあれば、全くの見当違いもある。

もしかすればそれが、非宣言的記憶からのメッセージかもしれない。


私たちも健忘症の患者と同じように、自分が意識し自覚している部分よりも、「忘れていながら持っている」膨大な量の非宣言的記憶に基づいて生きているようだ。


「だいじょうぶ。一番大事なことは、私も知らない私がもっている。」

宣言的であることよりも非宣言的であることのほうが、本質としてのウェートは高いのではなかろうか。
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華みぞれ。

2010-02-06 | つれづれの風景。

雨に雪、みぞれ降る。

華は移り、散るを映す。

雪花は舞い、聞こゆるは松籟のみ。

湛えて久しく、華みぞれ。


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天国への階段。

2010-02-05 | 有屋無屋の遍路。

梯子(はしご)は、渡したり、架けたりする、はずされたりする。

ここと、あそことを、繋げるもの。

橋や階段と違うところは、簡易的に利用することで、頻繁には必要のない移動手段として用いられ、必要に応じて使いまわされる。

使われたらしまうものである。うまく使わなければ邪魔になるものでもある。

だから頼り切って甘えていると、いつのまにか梯子をはずされたりする。


これを、いつまでもあるとおもうな、親と金と梯子、という。

ほったらかしにしておくと、いざというときに使えなくなるものでもある。


天国への階段を架けたければ、大事に扱わなければいけないと思う次第である。

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潔し。

2010-02-04 | つれづれの風景。

お。噴水や。

力強くあがっとるわい。

上向けておしっこしても、こういう力強さにはならん。

大きく吹き上げたり、ちゅろちょろと下火になったりする。

間欠泉のよさは、強弱の変化で見とっても飽きんところやね。

ぶっふわぁーっと噴出し迸(ほとばし)る。

じこじことパワーをためる。

ためてふきだし、またためる。

そのあたりまえのところのいさぎよさが、よろしいなぁ。

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視界にて。

2010-02-03 | つれづれの風景。

遠くを眺めるということは、大変気持ちのよいものです。

こんなに美しいのに、拝観料はタダです。

思うだけなら、見渡す限り、全部自分のものです。

雑多なものを視界から消すだけで、この世界の主になれます。


お金をかければ手に入るものに群がり、疲弊しながら喜んでいる下々に慈しみと、無償の愛を与えたくなります。

僕らは視力と想像力という素晴らしいものを発達させました。

十分楽しみましょう。

注意点は一つ。

近視眼的な現実は、すべからく忘れること。

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道の途中に。

2010-02-02 | 有屋無屋の遍路。

現実を生きていれば、かなり頻繁に信念を覆されることになる。

しかも壮大に覆されることが多い。

実際のところ、それでいいのだとおもっている。

それが健全なのだとおもっている。

もしそういうことがなければ、「自分は間違っていない病」で取り返しのつかないことになっていたであろうと、つくづく思えるのである。


信念は、道の途中に点在する小屋である。

信念は、荘厳な建築物ではなく、一休みするバラック建てでいいのではないだろうか。

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体験の共感。

2010-02-01 | つれづれの風景。

人はものごとを行って初めて学ぶ。
なぜならば知っていると思っていても、試してみるまでは確信を持つことはないからである。-ソフォクレス(紀元前400年頃)-


子供が表面張力に確信を持つのは、お風呂につかりながらの放屁が、大気と渾然一体となるその瞬間をわが身のこととして嗅覚とともに体験しているからである。

しかしそれがすべてだという確信はない。


ただ、人はものごとを行って初めて学ぶ。つまり、人はものごとを試してみるまでは無知の域を出ない、そのことは2千数百年前から変わっていないようだ。

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