韓国、クラフトな旅 その20(最終回)
安宅英一(あたか えいいち)さんは安宅財閥(安宅産業株式会社)を作り上げました。 戦後、個人あるいは企業として美術品の収集に大きなエネルギーを投じたのです。 安宅英一の眼という本から、彼が集めた美術品の中から、中国、韓国の焼き物の一部をご紹介しましょう。 これは大部分、大阪市東洋陶磁美術館に安宅さんから寄贈された物(実際は住友グループ経由の寄贈)です。 ご覧になればわかるでしょうが、東洋陶磁器美術館は是非訪ねる価値のある美術館なのです。 当方が訪ねたような、韓国の骨董品やで、奥の奥にしまってある、非売品を拝み倒して買ってくる、その過程が展示されていました(この美術館を訪ねた時は、なにか安宅さんの記念展示会で、安宅さんの偉業がくわしく述べられていました)。 結局、この巨大な買い物のためか、世の流れのためか安宅財閥は1975年傾いて、終末を迎えてしまうのです。そして、その収集品は美術館に寄贈されることになったのです。しかし、彼がこれらを収集しておかなかったら、これら名品は四散し、世界から消滅していたでしょう。これらが秘めた美に世界は気づかずに葬り去られ、また、これらに影響を受けて、その後輩出した著明な作家たちも存在しなかったでしょう。財閥の消滅は、大きな雇用の消失というダメージを世に与えましたが、一方で彼のコレクションが残ったことは、掛け替えの無い功績を残したのです(この買い物が企業を傾けたとは安宅コレクションファンは決して言いません)。
韓国の陶磁器の中で特にお見せしたい陶磁器(世に名品といわれるものを選らんではいません、あくまで当方の好み)をコピー撮影したのですが、韓国陶磁器ばかりでなく中国の陶磁器もコピーしてしまいました。 ランダムに乗せますので、どれが韓国で、どれが中国かわかりますか? その気になって見ればわかるはずです。 写真の下には番号だけ書きますので、後で正解をみてください。 また作製様式により陶磁器の名前が付けられますが、このブログの前半で述べた、作製様式を当てて見てください。 これも後で正解を書いておきます。 もう一つ、途中から、京都、上賀茂神社の近くある高麗美術館の展覧会で買った<李朝染付>という本からコピーした韓国青花白磁の陶磁器に切り替わります。どこで切り替わったかわかりますか? これも後で正解をみてください。 高麗美術館は小さいころ日本に渡った韓国の方が商売に成功し、収集した韓国陶磁器を、美術館を作って公開したという経緯があり、韓国と日本の関係を知るに興味ある美術館なのです。 高麗美術館にまつわる話は次回の高麗(こま)川物語でお話しましょう。当人も認識しているように、超高価な陶磁器が収集されているわけではありません。 高麗美術館の全ての蔵品を集めても、そのインパクトは安宅コレクションの一品に太刀打ちできないでしょう。 安宅コレクションは、一見、なんてことない陶磁器ですが、まるで催眠術にかかったように吸い寄せられてゆくのです。選んで撮影しようと思っても、これもあれもすばらしいという具合で、手が止められなくなるのです。ちょうど楽茶碗の撮影の時と同じです。
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浜田庄司 青彩紋押十字掛角皿
この催眠術からさめた作家もいます。 河合寛次郎は初期のころ韓国、中国の延長線の陶磁器を作って比類ない才能を認められていました。このときに、浜田庄司と出会って、いつまで朝鮮焼き物と付き合っているのだ、作品とはバイタリティーだという浜田の行き方に触発され、当時の柳宗悦の民芸運動に賛同して、エネルギーのある作品作りに大変貌していったのです。このあたりの動きは、京都と大阪の中間、山崎にある、アサヒビール山崎山荘美術館の蔵品のなかに、あるいは京都、河合寛次郎記念館に見て取れます。
河合寛次郎 (木彫、河合寛次郎記念館)
(河合寛次郎については当方のブログ、京都の道 その1 花見小路をご覧ください)
結局、韓国のクラフトの旅の感想はというと相当微妙です。 安宅コレクションや、京都に残した渡来人の足跡に呼び起された、韓国に対する憧憬の念が現在の韓国の旅で助長されたかというと、そうではありません。安宅さんが韓国のいい物は全部買い占めてしまったかと思われるほど、今回見て回った陶磁器の中には安宅コレクションを超えるものは無かったといえるでしょう(もっと奥にしまってあるのかもしれません)。 李朝の宮殿には絵や彫刻が皆無であったことは、その理由は定かではありませんがショックでした。常に周囲の敵にさらされていた韓国は、大きな富を中央に集める余裕がなかったのでしょう。 李朝の陶磁器の美を見出したのはむしろ日本であり、それを引き継いだのも日本であり、全国に散らばっている陶磁器の文化は幅が広く、奥が深い。 絵画、彫刻、建築、蒔絵、どれをとっても、日本の幅の広さと、奥の深さを思い知らされるのです。韓国5000万人の25%はソウルに集中している。一時は人口の半分近くがソウルに集中した時もある。 ちなみに日本は1億2800万人、その10%が東京に集中している。 渡来人のもたらした影響を考えれば、中国がお父さん、韓国がお兄さん、日本は弟という位置で中国、韓国に敬意を払う気持ちは変わらないが、お兄さんの過去の実体はあまりにも貧しかった。 しかし、現在は中国も韓国もはるかに世界を見据えたグローバル展開と国を上げての計画的産業振興を着々と進行させている。 日本の既得権にしがみついた年寄りと、未来に雄飛する気力を失った若者のなれ合いの世界はなんとも情けない。 ホットパンツで闊歩する韓国の女性の群れからはなれて、成田に降りたつ日本の若者の躍動感の無さはみじめを通り越して、真っ暗になる。日本は思っていたよりすごい国だった。それがお兄さんの国を訪ねた感想である。 そして今の日本は思っていたより、なんとも情けない国である。高麗川物語に出てくるシーンで、電車の中の中年のご婦人が、<最近、韓国に行って来た、目的はお買いものオンリーよ、なんたって安い。韓国の文化なぞなんにも興味ない>としゃべっていた。もっと目を開けてください。日本は何とすごい国だったか。今の日本はいったいどうしてしまったのか。まだぜんぜん遅くは無い。日本はすごい国なのだ。
安宅英一(あたか えいいち)さんは安宅財閥(安宅産業株式会社)を作り上げました。 戦後、個人あるいは企業として美術品の収集に大きなエネルギーを投じたのです。 安宅英一の眼という本から、彼が集めた美術品の中から、中国、韓国の焼き物の一部をご紹介しましょう。 これは大部分、大阪市東洋陶磁美術館に安宅さんから寄贈された物(実際は住友グループ経由の寄贈)です。 ご覧になればわかるでしょうが、東洋陶磁器美術館は是非訪ねる価値のある美術館なのです。 当方が訪ねたような、韓国の骨董品やで、奥の奥にしまってある、非売品を拝み倒して買ってくる、その過程が展示されていました(この美術館を訪ねた時は、なにか安宅さんの記念展示会で、安宅さんの偉業がくわしく述べられていました)。 結局、この巨大な買い物のためか、世の流れのためか安宅財閥は1975年傾いて、終末を迎えてしまうのです。そして、その収集品は美術館に寄贈されることになったのです。しかし、彼がこれらを収集しておかなかったら、これら名品は四散し、世界から消滅していたでしょう。これらが秘めた美に世界は気づかずに葬り去られ、また、これらに影響を受けて、その後輩出した著明な作家たちも存在しなかったでしょう。財閥の消滅は、大きな雇用の消失というダメージを世に与えましたが、一方で彼のコレクションが残ったことは、掛け替えの無い功績を残したのです(この買い物が企業を傾けたとは安宅コレクションファンは決して言いません)。
韓国の陶磁器の中で特にお見せしたい陶磁器(世に名品といわれるものを選らんではいません、あくまで当方の好み)をコピー撮影したのですが、韓国陶磁器ばかりでなく中国の陶磁器もコピーしてしまいました。 ランダムに乗せますので、どれが韓国で、どれが中国かわかりますか? その気になって見ればわかるはずです。 写真の下には番号だけ書きますので、後で正解をみてください。 また作製様式により陶磁器の名前が付けられますが、このブログの前半で述べた、作製様式を当てて見てください。 これも後で正解を書いておきます。 もう一つ、途中から、京都、上賀茂神社の近くある高麗美術館の展覧会で買った<李朝染付>という本からコピーした韓国青花白磁の陶磁器に切り替わります。どこで切り替わったかわかりますか? これも後で正解をみてください。 高麗美術館は小さいころ日本に渡った韓国の方が商売に成功し、収集した韓国陶磁器を、美術館を作って公開したという経緯があり、韓国と日本の関係を知るに興味ある美術館なのです。 高麗美術館にまつわる話は次回の高麗(こま)川物語でお話しましょう。当人も認識しているように、超高価な陶磁器が収集されているわけではありません。 高麗美術館の全ての蔵品を集めても、そのインパクトは安宅コレクションの一品に太刀打ちできないでしょう。 安宅コレクションは、一見、なんてことない陶磁器ですが、まるで催眠術にかかったように吸い寄せられてゆくのです。選んで撮影しようと思っても、これもあれもすばらしいという具合で、手が止められなくなるのです。ちょうど楽茶碗の撮影の時と同じです。
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浜田庄司 青彩紋押十字掛角皿
この催眠術からさめた作家もいます。 河合寛次郎は初期のころ韓国、中国の延長線の陶磁器を作って比類ない才能を認められていました。このときに、浜田庄司と出会って、いつまで朝鮮焼き物と付き合っているのだ、作品とはバイタリティーだという浜田の行き方に触発され、当時の柳宗悦の民芸運動に賛同して、エネルギーのある作品作りに大変貌していったのです。このあたりの動きは、京都と大阪の中間、山崎にある、アサヒビール山崎山荘美術館の蔵品のなかに、あるいは京都、河合寛次郎記念館に見て取れます。
河合寛次郎 (木彫、河合寛次郎記念館)
(河合寛次郎については当方のブログ、京都の道 その1 花見小路をご覧ください)
結局、韓国のクラフトの旅の感想はというと相当微妙です。 安宅コレクションや、京都に残した渡来人の足跡に呼び起された、韓国に対する憧憬の念が現在の韓国の旅で助長されたかというと、そうではありません。安宅さんが韓国のいい物は全部買い占めてしまったかと思われるほど、今回見て回った陶磁器の中には安宅コレクションを超えるものは無かったといえるでしょう(もっと奥にしまってあるのかもしれません)。 李朝の宮殿には絵や彫刻が皆無であったことは、その理由は定かではありませんがショックでした。常に周囲の敵にさらされていた韓国は、大きな富を中央に集める余裕がなかったのでしょう。 李朝の陶磁器の美を見出したのはむしろ日本であり、それを引き継いだのも日本であり、全国に散らばっている陶磁器の文化は幅が広く、奥が深い。 絵画、彫刻、建築、蒔絵、どれをとっても、日本の幅の広さと、奥の深さを思い知らされるのです。韓国5000万人の25%はソウルに集中している。一時は人口の半分近くがソウルに集中した時もある。 ちなみに日本は1億2800万人、その10%が東京に集中している。 渡来人のもたらした影響を考えれば、中国がお父さん、韓国がお兄さん、日本は弟という位置で中国、韓国に敬意を払う気持ちは変わらないが、お兄さんの過去の実体はあまりにも貧しかった。 しかし、現在は中国も韓国もはるかに世界を見据えたグローバル展開と国を上げての計画的産業振興を着々と進行させている。 日本の既得権にしがみついた年寄りと、未来に雄飛する気力を失った若者のなれ合いの世界はなんとも情けない。 ホットパンツで闊歩する韓国の女性の群れからはなれて、成田に降りたつ日本の若者の躍動感の無さはみじめを通り越して、真っ暗になる。日本は思っていたよりすごい国だった。それがお兄さんの国を訪ねた感想である。 そして今の日本は思っていたより、なんとも情けない国である。高麗川物語に出てくるシーンで、電車の中の中年のご婦人が、<最近、韓国に行って来た、目的はお買いものオンリーよ、なんたって安い。韓国の文化なぞなんにも興味ない>としゃべっていた。もっと目を開けてください。日本は何とすごい国だったか。今の日本はいったいどうしてしまったのか。まだぜんぜん遅くは無い。日本はすごい国なのだ。