小さな旅、大きな旅の写真物語(Virtual trips/travels)

京都や東京を本拠地として、自然の中や町を歩きながら、撮った写真をどんどん掲載します。いっしょに歩いているように。

高麗川物語 その5

2012-10-24 20:33:43 | 日記
高麗川物語 その5

10月19日(金曜日)
高麗神社はJR高麗川駅から2kmのところにあります。巾着田は西武線、高麗駅が近く、高麗駅から高麗神社までは3.5kmほどあります。今日は高麗川駅でおりて、まずは聖天院に向かいます。というのは、彼岸花の巾着田から高麗神社に行ったときに、遅くなって、聖天院の門限17時の寸前に聖天院に到着して、結局、入れなかったのです。次の機会にと思っていたのでした。こんなに早く次の機会が訪れるとは思ってもいなかったことです。


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm

高麗地域はのんびりした雰囲気で、色々な畑の中に住宅が点在しています。 これは茶畑。


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm

これは何でしょう? キャベツにしては、食べてもおいしくなさそうな葉っぱです。


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栗林もあります。


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm

ログハウスで悠々と生活している方もいらっしゃいます。その向こうにはソバ畑がありました。この辺で結構ソバが作られており、昼食にはいったレストランでこのあたりで採れたソバ粉で打ったおいしい手作りソバをいただきました。


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm

高麗川をわたります。出世橋とかいてあります。 ここを渡るとなにかいいことがあるのでしょうか。 


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm

高麗川です。


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm

聖天院が見えてきました。結構立派なお寺でしょう。
<聖天院は、高句麗から渡来した高麗王若光の菩提寺として高麗川の左岸に建立された寺である。若光に従っていた僧の勝楽が、若光の冥福を祈るためにその念持仏だった聖天歓喜仏を本尊とする寺院を建立しようとした。だが、完成をみないで天平宝字3年(751)に没してしまったので、その後弟子の聖雲(若光の第三子)らが、勝楽の遺志を受け継ぎ一寺を建立した。それが高麗山聖天院勝楽寺である。聖天歓喜仏を本尊として祀ったことから、聖天院の名で広く知られている。>


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm

<聖天院の堂宇は当初から現在地にあったわけではない。寺伝によると、寛永年間(1624 - 44)に火災に遭って堂宇が焼失し、寺地を背後の丘陵寄りに移して再建されたとのことだ。門前の畑や西方には旧坊舎の金蓮坊・梅仙坊などの跡がある。江戸時代には、聖天院は高麗郡の本寺として、門末54寺を擁するほど隆盛を誇った。寛永の火事の後に再建された堂宇も古くなった。特に本堂の老朽化はひどかった。そこで、裏山を整地して新しい本堂を建立することになった。完成までに7年の歳月を要し、平成12年(2000)にやっと落成にこぎつけた。>とあります。江戸時代からくらべると小さなお寺かもしれませんが、こののどかな現在の高麗地域にしてはとても立派なお寺に見えます。 おそらく、在日韓国人の大きなバックアップがあったのでしょう。


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm

それを表すような韓国風建物が本堂の裏手にあります。この横の看板には、<在日韓国人の聖地>とかいてありました。


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm

在日韓民族無縁仏の慰霊塔が立っています。<第二次世界大戦で多くの韓国人が亡くなり、無縁仏のまま供養もされずに放置されてきた。それらの無縁仏に久遠の安眠を与え供養したいと願う在日韓国人の篤信者たちによって、平成12年(2000)1月にこの塔が建立された。> 慰霊塔の前に小さな鐘があり、槌でカーンと鳴らすことができます。 ここにお参りする人がぽちぽちいますが、在日韓国人なのでしょうか、当方のような行きがかりの旅人なのでしょうか。当方も鐘をたたいて、日本と韓国が仲良くやって行けるようにお祈りしました。


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm

聖天院から高麗神社は歩いて5分もかからない直ぐです。



ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm
七五三のお参りに来るようです。後述のように子供たちの出世を願っているのかもしれません。
<高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)です。若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。
高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と広く知られるようにもなりました。現在は年間約40万人の参拝があります。> なるほど、だから出世橋というのがあるのだ。坂口安吾がお守り札をいっぱい買って、みんなに配ったと言っていたのは、この為だったのだ。当方も三足烏お守りというのを買いました。後でお見せします。
この記述に上総とあります。当方の父方は上総一の宮の出です。このあいだの韓国旅行で確信したことがあります。父方の女性の系列、つまり祖母の系列には、そう言ってはなんですが、美形が多く、親戚で財閥の奥さんとなった方もいます。祖母の系列がそんな財閥に嫁ぐようなステータスではありませんから、よっぽどの美形だったのでしょう。 その系列の顔の印象は正に韓国の美形にそっくりなのです。当方は南方系と自称していましたが、少なくとも1/4は韓国DNAであると思わざるをうえないのです。そして。この高麗神社の記述で、ダメ押しです。まさか房総半島に韓国DNAがあったなんて。海から来たのか、山から来たのか、とにかく韓国DNAがあったのです。南方系DNAは後の3/4に期待するしかありません。
さて、高麗神社の例大祭です。すでに午前中に祭典が終わり、13時から獅子舞、17時から竹祭りです。獅子舞で活躍する、その、棒使い(警固)は、中学生と高校生か? 簓子(ささらこ)(天女) 4人は小学生か? 小さな女の子です。 この棒使いはずっと出っぱなしの大活躍であり、<ささらこ>は<ささら>(竹をこすって音をだす楽器)をこすって音を出し続けるだけでなく、獅子舞の動に対する静なる存在感はとても影なる活躍なのです。


ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm
<棒使い>

ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm
<棒使い>

ペンタックスK5, ペンタックス18-135mm
<ササラコ>

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