毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「南京大虐殺の証拠?」   2012年2月26日(日) No.295

2012-02-26 20:55:19 | その他情報
 「南京大虐殺があったと決定づける証拠は一つもない」
と言う人たちがいるが、
客観的に事象を調べて、分析し、判断することが、
どんな思想を持つ人にも問われている。
主観や願望で事実をねじ曲げてはならない。

昨日の亜細亜大学教授、東中野修道の主張が2009年の最高裁で退けられたという
根拠は以下。


南京事件研究書で賠償確定 2009.2.5 22:05http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090205/trl0902052206007-n1.htm 

南京事件の研究書で事件の被害者とは別人と指摘され、名誉を傷つけられたとして、
中国人の夏淑琴さんが、著者の東中野修道・亜細亜大学教授と出版元の展転社に
損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第1小法廷(涌井紀夫裁判長)は5日、
教授と同社の上告を退ける決定をした。
東中野教授と同社に計400万円の支払いを命じた1、2審判決が確定した。



 次に挙げるジャーナリストの文も事実なのかねつ造なのかは、
大使館名、新聞社名が記載されているので
問い合わせればすぐに分かることだ。
この記事は下のホームページからコピーさせてもらった。
とてもとても長いので、1937年12月14日と15日の記事のみに絞り、
毎日一人分ずつ5日間にわたり紹介したい。
今日は、「ロイター通信のスミス氏」という人の講演抜粋。


 http://www.nextftp.com/tarari/nankinhodo.htmhttp://www.nextftp.com/tarari/nankinhodo.htm



世界に知られていた南京事件  事件当時の報道 
 2006.2.2 first upload 2006.2.9 reviced


戦禍が南京におよんだ12月12日、多くの記者はパネー号に乗って南京を脱出した。
南京に残った記者は次の5人である。 
N・Yタイムズのダーディン、
AP通信のマクダニエル、
シカゴ・デイリーニュースのアーチボールドスチール、
ロイター通信とブリティッシュニュース・エージェンシーのスミス、
パラマウント・ニュース映画のアーサー・メンケン。
 このほかに、ロンドン・タイムズのマクドナルド記者は、
パネー号が沈没したため一旦収容され、17日上海に戻るが、
その途中、15日南京にまた舞い戻って取材している。


1. ロイター通信社のスミス記者

『ドイツ外交官の見た南京事件』P44~P50

資料13添付書類
一九三八年ー月六日付駐華ドイツ大使館報告代十一号に添付
一九三八年一月一日ドイツ通信社(漢口)より入手
文書番号 二七二二/一一〇六/三八
内容  一九三七年一二月九日から一二月一五日にかけて
     南京で起こった戦闘中のできごとに関する
     スミス(ロイター通信)氏による講演の抜粋


 一二月一四日
朝、まだ日本兵は中国の一般市民にたいして敵意ある態度をとってはいなかった。

だが正午ごろになり、六人から一〇人ぐらいの日本兵の小グループが

あちこちで組織された。

かれらは連隊徽章をはずして、家から家を略奪して回った。

中国兵は主に食料品に限って略奪したが、日本兵は見境なしであった。

かれらは町を組織的かつ徹底的に略奪したのである。


私が南京を去る一二月一五日までに、私と他のヨーロッパ人の見たところによれば、

中国人の家はすベて例外なく、またヨーロッパ人の家はその大部分が

日本兵に略奪しつくされた。

屋根になびくヨーロッパの国旗は日本兵に引きずりおろされた。

日本兵の一団が家財道具を持ち去る光景も見うけられた。

かれらはとくに壁掛け時計を好んでいるようだった。

まだ南京に残っていた外国の車も押収され、国旗はもぎとられた。

日本兵は安全区国際委員会の車二台とトラック数台を押収した。


私は、キースリンク&バーダーの店頭でラーベ氏に会った。

かれは、ドイツ国旗を下ろして店を略奪しようとしていた日本兵を、

店の支配人と力をあわせて追い払っているところだった。


国際赤十字の旗がはためく外交部には約六百人の中国人負傷者が収容されていた。

伝道団の二人の米国人医師はなかに入ることを拒否され、

負傷者に食料品を送ることも許されなかった。

外交部には何人かの負傷した中国兵も避難していた。

かれらは日本軍に連れ出され、射殺された。

鼓楼病院で働いていた看護婦たちは整列させられ、

所持品検査がおこなわれた。

そして、腕時計、万年筆、所持金などが没収された。


日本軍は四、五百名の中国人を縛り、下関へ連行した。

下関まで追跡しようとしたヨーロッパ人の試みは

日本軍に強硬に阻止された。



 一二月一五日
略奪が続けられた。

安全区では約五千人の中国人難民が整列させられ、

およそ一八〇ドルが奪われた。

こうしたふるまいを上位機関に訴えて止めさせることは不可能だった。

なぜなら、苦情を申し入れるべき日本軍上級将校は、

日本兵の主張によれば、まだ南京にいなかったからだ。


大勢の若い中国人女性と少女たちが自宅から連れ去られた。

その後、彼女たちを見かけた人はいないので、

彼女たちの身に何が起こったかはわからない。 


結局、城内での戦闘による被害は少なかった。

ドイツ人の家屋は、外見上はほとんどがもとのままだが、

大半は略奪にあったようである。 


明の孝陵と中山陵はとくに報告すべき損害を受けなかった。

メトロポリタン・ホテルはまず中国兵に、

その後日本兵によって根こそぎ略奪された。 

米国領事館の前では中国人市民が四名、

長江ブリッジ・ホテルの前ではおよそ二〇名が日本兵に射殺された。 

福呂ホテル(オーナーはカルロヴィッツ商会の買弁)の前に爆弾が落ち、

それで一二月一二日朝に一〇名の中国人が命を失った。

シュペアリンク氏は、榴弾の破片で手に軽傷を負った。 


一二月一五日、外国の記者団は、日本軍艦に乗って

南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。

その後、英国軍艦が同じ航路をとることになった。

われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。 


出発までに予想以上に時間がかかったので、

われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。


そこでわれわれが見たものは、

日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。

そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。

脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。

その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、

すぐに立ち去るように命じた。

それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回ほど観察した。

他の中国人がどうなったのかはわからない。
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「尼崎市民から」   2012年2月26日(日) No.294

2012-02-26 13:43:16 | その他情報
 尼崎市は大阪の今の家に住む前、20年近くを過ごした庶民的ないい町だ。
市民があれこれ元気な声を発する活気のあるところだと思っていたが、
今日、尼崎に住む娘のフェイスブックをチェックしたところ、これを発見。
今は大阪も尼崎も、「なにそれ?!」状態だな。う~む。
以下、「あちこちでみんなに教えて~!」と書いてあったので、今ごろ遅いが(集会は今日の昼…)
3月1日まで寒いのに24時間座り込みを続けるそうなので、
元気ある人、行ってあげてね~。



 2/20に兵庫県の尼崎市議会に「日の丸条例」が、保守系会派「新政会」より提案されました。市民と何の議論もなしに、突然の提案です。
私たち「STOP日の丸条例・尼崎市民緊急行動」は、この事実を知ってすぐに緊急相談会を開催し、2/17に条例案の否決に向けて一緒に行動することを決めました。2/27の総務消防委員会を経て、3/1には採決がはかられます。緊急の行動が必要です。

このような、だまし討ちのような条例提案を許してはならないと思います。一緒の行動していただける方、ぜひ、連絡ください。






2/26(日)集会開催!
阪神尼崎駅前14:00~
内容:市民アピール・公開質問状の回答発表・決議文採択・行動提起

2/26(日)~3/1(木) 24H座り込み
尼崎市議会隣り橘公園にて
応援の方、お待ちしています。


ブログを通して、活動予定・情報をお送りします。
賛同・質問・お願い等は、コメントしていただくか、管理人(jimukyoku)にメッセージを送ったください。



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