毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「博堅さんの父、博棣華(はくていか)氏」 2013年3月10日(日)No.586

2013-03-10 21:56:05 | 中国事情
博堅さんは今年81歳。
昨日の八一公園日本語コーナーの後親しい仲間の昼食会に
私と石田キコさんもご一緒させていただく光栄に与ったが、
白酒をたしなむほどに少年のような態度になり、
「♪い~つまでも~ たえる~ことなく~
と~もだちで~ いよう~
今日の日は~ さよう~な~ら また~会う~日まで~♪」
と、クラシックの歌い方で美しく歌うので、
隣席の私はついつい、地声の低~い声でデュエットしてしまった。
本当はそんなことではなく、いろいろお聞きしたいことがあったのに
呑気に歌など歌って貴重な時間は過ぎ去った…。

博堅さんのお父さん、博棣華氏は、1924年から1944年までの20年間、
福島高等商業学校(現在の福島大学経済学部)の教師と、
東北帝国大学の講師を務めた。
博棣華氏の親友に、
魯迅を最初に日本に紹介した中国文学の碩学青木正児氏がいる。
1985年福島大学創立40周年を記念して戦没同窓記念碑が建立されたが、
その碑文の筆頭には博棣華氏の名前が刻まれている。
博棣華の名前を知る人は少ないが、彼は日中文化交流の先駆けであり、開拓者である。
激動の20世紀前半を生き、
今、日中両国の交流に貢献した人として顕彰されている人物に、、
秋瑾(しゅうきん)、徐錫麟(じょしゃくりん)、孫文、魯迅、聶耳(にえある)、そして博棣華など、日本で生活を送り、日本を知悉(ちしつ)する人々がいる。
日中文化交流に貢献した彼らの名が歴史の反古に紛れてしまわないことを祈る。

「父、福島高商外人教師・博棣華について」より
『戦争はいよいよ激しさを加え、日常生活は日ごとに苦しく、
父に対する特高警察の監視もさらに苦しくなった。
ついに、1944年12月、福島大学の浜島教授の説得に動かされて、
私たちはなすすべなく帰国の途についた。(中略)

1945年3月、父・博棣華は鉄道管理局保線区参事に任ぜられ、
併せて華北交通大学の学長も務めた。
1945年8月15日、日本は投降した。(中略)

1946年1月から7月にかけて、
父・博棣華は華北交通大学の教室や教職員宿舎を開放し、
内蒙古から日本へ引き揚げる日本人難民が故国へ帰る船を待つ間の食事と部屋を提供した。
自らの危険を顧みず、
人道主義の精神と日本での生活で庶民から受けた友好的厚意に応えるために行ったことであった。
日本人難民は、帰国に際して父の手を握り涙を浮かべて別れを告げた。
こうして約600名が天津の溏沽港から故国日本へ向かった。

しかし、父が日本人に対して行ったこの行為は国民党の軍規に違反するとして、
1946年8月、父は逮捕され入獄した。
当時、大学に付属する住宅に住んでいた私は13歳になったばかりだった。
父の獄中生活の間、三姉・慧と私は、毎日監獄の父に食事を運んだ。
監獄の花模様のガラス窓にかすかに映る父の後ろ姿については語る言葉もない。
父は同年9月に無罪となり、釈放され出獄した。
12月、父は大学を辞して北京に戻った。(中略)
獄中生活の過重な苦労で出獄後時を経ずして病を得、
精神的にも打撃を受けて、父は痴呆となった。
1949年11月27日、博棣華の母親の実家である汪家の胡同の一室で亡くなった。
遺骸は北京郊外の双橋にある八王墓地に葬られた。
しかし、文化革命の時にこの墓地は壊され、遺骨は散逸して今は無い。

母親・安熙貞は1966年11月26日、文化革命中に江西省南昌市で逝去した。
その遺骨は現在は日本の鎌倉に埋葬されている。』
コメント
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