毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「日本語教師はインストラクターか」 2013年3月17日(日)No.593

2013-03-17 19:36:42 | 中国事情
昨夜の永田さん送別会で、
大学日本語学科などで日本語教師をしている仲間たちと
日系企業のビジネスピープルが話しているうちに、
「日本語教師は日系企業に入って役に立つことを学生に教えてくれているのか」
という企業人からの質問があった。

形式的に言えば、
どんな機関、どんな人に日本語を教えるかによる。
どこかの会社の社員に日本語を教えるのであれば
その会社で使う日本語と企業文化がまず問われることだ。
しかし、それが多種多様なニーズを持った人が通う語学学校だったり、
大学の日本語学科のように
会話以外に日本概況、日本文学、日本語作文などがカリキュラムにある場合では
当然、会社員に教えるものとは内容が異なる。

現実的には、中国では大学とは言っても
就職してからすぐに役立つビジネス日本語とか実用日本語の
クラスがあるところが多い。
私が働く財大日本語学科にも、一般教養的な日本文学、日本概況などと並んで
ビジネス日本語、ビジネス作文の科目がある。

実は、はじめ、日本語教師になる時にある逡巡があった。
かつて英語が帝国主義運動の付随物として世界を席巻したように
日本の経済進出に日本語が付いているという現実をどうするかということだ。
事実、中国の「愛国者」の中には
「日本語なんか学ぶとは、お前は売国奴だ!」と言うヒトが多いという。
日本語学科の学生の多くがその言葉を浴びている。
しかし、他の声掛けに
「日本語をしっかり勉強して日本のお金をがっぽり稼いでね」
という励ましもあるという。

どちらも聞いて嬉しくないことばだ。
帝国主義や経済侵略の道具としての日本語を教えたくはない。
また、中国の若者たちに
「がっぽり金を稼ぐ手段としての日本語」
を教えるというのも守銭奴を育てるようで嫌だ。
従来、日本人も日本語も
そんなに好きと思って生きてこなかったにもかかわらず、
意外なことに、私は自分でも気がつかないうちに
日本語が好きになっている自分に最近気づいた。
日本語の中には日本語を使って生きてきた人々の価値観が
びっしりと詰まっている。
ある言葉から、ずっと昔のご先祖様方の姿が浮かんできたり、
日本島の上を吹く風の音や空気の色を感じたりする。
日本語を教えているとき、そんなことを感じるととても楽しい。

もう一つ、
ある言語を使いこなせるということは、
その言語を使って思考するということにほかならない。
アメリカでの1年間、短い留学生活がスタートした当初感じたのは
英語で考えるとなんだか頭が悪くなったような気がするということだった。
どういうことか。
自分の語彙量の不足が自分の思考を深める妨げになるのだ。
人間は言語を使って考えるということがつくづく分かった。
しかも、日常的に英語を使っていると日本語をどんどん忘れていく。
英語は中途半端なのに日本語は忘却する一方で、
私の脳みそは膜が張った状態だった。

そんな情けない状況が少しずつ改善されたのは、
ひとえにLeightonをはじめとする厳しい先生方の
“I'm asking YOU!!”だったり、
“What do you think about it? And Why?”だったり、
“Cut his talking!”だったりして、
とにかく自分の意見を言いまくる練習をした。
さらに、自分で自分の考えを多面的に検証する練習をしたりと、
実に実に面白い日々になっていったところで1年が終わった。

学生たちがそうした「考えることの楽しさ」「言語表現の面白さ」に目覚め、
考えを論理的に深めていく態度を身につけてもらいたい。
それを通じて、思考が成熟し、大人に成長するのだ。
これは「インストラクター」の仕事からかなり逸脱している。
私は日本語の「ティーチャー」をしていると自負している。
ちょっと言い過ぎ?






コメント
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