毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「日語角の灯は消えない」 2013年3月16日(土)No.592

2013-03-16 23:06:43 | 中国事情
今日の八一公園日本語コーナーには、
小雨模様にもかかわらず15人ほどの参加者があった。
財経大学は日本語学科卒業生で大学院生の楼しんけつさん、
4年生の洪文芳さん、そしてまあ、副専門の授業があるのに
それを蹴って3年生の朱ちゅうしんさん、周そうそうさん、宋しゅんかさん、陳しょううんさん、劉えいさん達まで参加したではないか!(副専門の先生には悪いけど、たまにはいいよね
しかし、それだけではない。
博堅先生(2週連続)、劉さん(日語角の大黒柱)、
そして、1年前南昌から引き上げた懐かしい荒田一郎先生という
サプライズが待っていた。
イヤハヤ、私も日語角の歴史に足を踏み込んだというか、
2年半の時間を感じたひと時だった。

夕方から南昌日本人グループの精神的支柱である永田さんが
ついに日本に帰られるというので、楼さんと一緒に日本人会の送別会に参加した。
いつも会に永田さん(江西いすゞ自動車会社の副総経理=副社長)が
いらっしゃると場がホワ~ッと温かくなる。
今まで江鈴杯日本語スピーチコンテストを経済的に支えてくださったが、
永田さんが去った後も引き継ぎをちゃんとしてあるとのこと。
日本語学科の学生たちには何よりありがたいことだ。
スピーチコンテストに出資したからと言って
直接いすゞトラックがバンバン売れるわけではないが、
こうした中国社会への貢献は
日本企業への信頼感を高め、ひいては日本全体のイメージにもプラスに影響する。
イトーヨーカドーが中国で展開している経営でも
それは重要戦略の一つだと聞く。
これから江西省に日本企業がどんどん進出してくるとはほとんど思えないが、
どこの省、どこの国でも、日本企業は現地から利益を吸い取る事ばかりに腐心せず
地元とともに歩むすがすがしい経営を心がけて欲しい。
それが回りまわって、日本企業に利することが大いにあるのだ。

送別会が終わり、
私と楼さんは江西科技師範大学の八木先生とタクシーで昌北地区の宿舎に帰った。
車の中の話で、9月、10月の反日の嵐のとき、
八一公園の日本語コーナーは、1週間休んだだけで
八木先生がずっと出かけ続けて支えてくれたことを初めて知った。
大黒柱の劉さん、丁勇先生もずっといらっしゃっていたそうだが、
日本人が誰も参加しなくなると学習者も来なくなると危惧した八木先生は、
怪我させられないようにだけ気をつけて、ずっと通い続けたという。
ここにも素晴らしい日本人が!(;´Д`)
日本語コーナーの灯は、こうやって28年間燃え続けてきたんだなあ。
私も及ばずながら学生とともにボチボチ参加し続けよう。






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「日本からの交流生のことー1年生の作文ー」2013年3月15日(金)No.591

2013-03-15 20:20:15 | 中国事情
大阪からの交流生石田キコさんは今頃もう、自宅についた頃だろう。
学生たち何人もから、
「先生、キコさんは今どの辺ですか。
北京ですか。もう日本に着きましたか。」
と聞かれた。
一人の友が遠ざかっていくことの寂しさと、
まだ見ぬ日本への思いを噛み締めているのかな。

1年生に先週水曜日の授業(キコさん・お祖父さん・お祖母さんが参加した授業)の
一言感想文を宿題に出した。
初めての作文宿題なので3文を書く条件を出したところ、
かなり気合の入った長文のノートが返ってきた。
文法ミスも直さずいくつか掲載する。
これは、お世辞や嘘偽りのない、
中国の大学生たちが感じた、
日本からの若者に対する気持ちだ。
排外主義が付け入る隙もないオープンな心が分かってもらえるだろう。


✩戴げつ✩
今日、日本人の石田さんとお祖父さんとお祖母さんが来ました。
石田さんはとてもきれいで、可愛いです。
お祖父さんとお祖母さんは優しいです。
私たちは一緒に交流をしました。
キコさんは日本語も英語も中国語ができます。
すごいですね。
石田さんの趣味は海外の旅行です。
私と同じ趣味です。
私は石田さんと友達をなりたいんです。


✩張とうり✩
3月6日、水曜日。
キコさんとキコさんのお祖父さんとお祖母さんは来ました。
紀子さんは日本の大学生です。
でもキコさんのお祖父さんとお祖母さんは中国人です。
だからキコさんの中国語は上手ですね。
授業の最初、キコさんは自己紹介しました。
それから私たちはキコさんに日本語で日本について質問しました。
そして、私たちはお祖父さんとお祖母さんに中国語で、
哈爾浜について質問しました。
最後に私たちは一緒に『森の湖畔』を歌いました。
本当に楽しかったよ。


✩李しゅよう✩
石田さんはまず自己紹介しました。
そしてご家族や大阪などを紹介しました。
石田さんとご家族はみんな親切でいい人たちだ。
ご家族を訪ねに行きますと思います。
友達と一緒のスポーツはとても楽しいです。
いい思い出になりました。
私は現在いろいろな日々の努力が必要だ、頑張る!


✩周こうゆ✩
今日、石田さんたちが来ましたから、
私たちはとても楽しかったね。
前に、みんなはずっと楽しみだった。
キコさんはきれいだ。そしてかわいいだよ。
自己紹介の後で質問をしました。
キコさんはボイフレンドがないだ。
残念だね。
今日から15日まで、だいたい2週間、キコさんと一緒に勉強する。
よかったね。


✩盧けいしょう✩
ここ数日、気分がずっといいです。日本の石田さんたちが来ました。
お祖父さんもお祖母さんも本当に親切だった。
キコさんは自己紹介しました。
キコさんは可愛くて優しいです。
せがとても高いですが、私と逆です。
紹介後、私たちは質問しました。
私は最初の被請求質問な人でした!
なかなか嬉しいでした!
私はキコさんの家族や趣味や大学生活などを知りました。
日本人のマナーと中国人のと違います。
最後、私たちはお祖父さんとお祖母さんに質問しました。
田中先生と私たちは情報がいろいろ知りました。
哈爾浜は本当寒いです。夏日はとても短いです。
お土産がいろいろあります。
それは本当にきれくてうらやましいのところですね!
木曜日、授業のあとで、私たちは一緒にバスケットボールをしました。
私たちは一緒に食事して遊びました。
どんなに忘れられない素敵な時間!
私は石田さんやお祖父さん、お祖母さんが好きです。
私はキコさんといい友達になりたいです。
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「震災3年目の『ありがとう』」 2013年3月14日(木) No.590

2013-03-14 19:24:32 | 日記
菊田心くんの詩「ありがとう」を1年、3年クラスで紹介した。

1年生は2年前の3月11日、受験勉強真っ最中の高校生だったが、
東日本大震災のことはもちろん知っていた。
ちょうど石田キコさんが授業に参加してくれていたので、
私が日本語を朗読し、中国語に訳してもらった。
「ありがとう」の詩が
クラスの子たちの心に染み込んでいく様子が実感できた。
ちょっとウルウル(;_;)の人も・・・。

2年前、周りの中国の人たちから、
「四川大地震のときは助けてもらったから、
今度は中国が助ける番です。
中国から救助隊が日本に行って頑張っているのが嬉しい。」
「災害のとき、国境は関係ない。」
「自分たちは日本に行って手伝いたいけど、
それもできない。でも、祈っています。」
「日本人は優秀な民族。きっともっといい国に立て直せる。がんばれ!」
そんな励ましをたくさんもらった。

私もたくさんの「ありがとうございます」を言った。
日本代表で一生懸命、応援の言葉や気持ちに対してお礼を言った。
被災地の人々に代わってではなく、
被災したのは自分の故郷の国だから、
簡単に言えば、被災は自分の事だと思った。

日本に戻ったとき、
日本人は2種類いた。
東日本大震災を自分のことと思う人と、他人事の人と。
夏休みに東北ボランティアに出かけた際、
教え子だったある中学生は、
「先生、なんで東北なんか行くん?」
と言い、また、他のある人は
「みんながみんな、我も我もと東北詣でするのは如何なものか。」
と批判的だった。
東北の人々があれほど、
「とにかく、来てください。何もしなくてもいいから、
私らに会いに来てください。」
と言っていたというのに。
たった2泊3日のボランティアたちをも
涙で送ってくれた宮城県松島のお姐さん方のことは忘れられない。
大阪は遠くて、
気遣いがズレているのかもしれなかった。

中国江西省のここの人たちは率直だ。
同情も、共感も、感動も。
気を使って何もしないほうがいいと判断することはまず有り得ない。

今日は我が同志たち、3年生のクラスで
菊田心くんの詩と「上を向いて歩こう」の歌の練習をした。
2年前の3・11の時、彼女ら、彼らは1年生で、
私が教室に入っていくと心配そうにひっそりとしていた。
そして、事態の進展を私と一緒に一喜一憂してくれた。
去年の3・11には、私の呼びかけに応えて
「日本の被災者に思いを馳せる集い」を主催した。
いろんなことを共にしてきたこの学年に対する信頼は厚い。

私は今日、彼女ら、彼らに菊田心くんの詩を借りて
この二年間のことを「ありがとう」と言えた。








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「ありがとうの詩(うた)」 2013年3月12日(火) No.588

2013-03-12 22:31:44 | 東日本大震災
東日本大震災の被害にあった方々が書いた「ありがとうの詩(うた)」。
ありがとうと言って欲しくて支援したわけじゃない。
そんな言葉を言われると身が縮む。
でも、その言葉を言う被災者の心を思うと、
泣けてくる。

「ありがとう」
文房具ありがとう  
鉛筆、分度器、コンパス大切にします

花の苗ありがとう  
お母さんと鉢に植えました    花が咲くのが楽しみです

うちわ ありがとう 
暑い時うちわであおいでいます

靴をありがとう   
サッカーの時とっても蹴りやすくて  一生懸命走っています

クッキーありがとう 
家でおいしく食べました

参考書ありがとう  
勉強これからがんばります

図書カードありがとう  
本をたくさん買いました

焼きそば作ってくれてありがとう 
おいしくいっぱい食べました

教室に扇風機ありがとう  
これで勉強はかどります

応援の言葉ありがとう  
心が元気になりました

最後に
おじいちゃんを見つけてくれてありがとう  
さよならすることができました


菊田 心 (気仙沼市 11歳)
✩震災の後、学校に通えるようになると毎日のように支援物資を持って帰りました。お母さんは「感謝だね。ありがとうだね。」と言っていましたが、僕はきちんと感謝の気持ちを言えていなかった気がしました。おじいちゃんは夏はキャンプ、冬はスキー、アトピーの僕を温泉に連れて行ってくれたり、書ききれないくらい大好きでした。
3月11日から帰ってこないおじいちゃんを、2ヶ月経った時見つけてくれたのは、遠くから応援に来てくれた警察の人でした。涙がいっぱい出ましたが、きちんとお別れすることができました。
この詩を書く事で、今は元気に学校へ通っていることを名前も分からないけど応援してくれたたくさんの人に伝えたい。たくさんの「ありがとう」を書きました。


「ありがとがす」
だらだらの汗  日焼けした顔  泥まみれの作業服
おめえ様とすれ違うとき
おらは目頭が熱くなるちゃ
宿舎に戻っていくおめえ様の背中に向かい
おらは心の中で最敬礼するのしゃ
おめえ様は「仕事だから」と実に格好いい
おめえ様にも緑豊かな故里があり
心優しい家族が待ってるべ
ほんでも もうちょっとだけ
おらに力を貸してけねが
おらも精一杯努力すっから
必ず夜の次には朝が来て
泣いたあとには笑う時が来るちゃ
この前テレビでどこかのばあちゃんが
ありがとがすと何回も頭を下げていたのしゃ
おらも同じだ
ありがとがす  ありがとがす  ありがとがす
おらも精一杯努力するから
ありがとがす


✩連日支援に向かう多くの方々を見て、せめて詩を借りてお礼を申し上げたいと思いました。

                  ―河北新報社「ありがとうの詩」より―
コメント (2)
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「原発を残すのは罪だ;大阪デモ」 2013年3月11日(月) No.587

2013-03-11 17:12:33 | 日記
昨年の3月11日は現3年生が呼びかけ人になり、
江西財経大学日本語学科有志で
「東日本大震災犠牲者を追悼し、被災者の気持ちに寄り添う会」
を開いた。
麦路キャンパスにいる日本語学科の学生の4分の3が参加し、
中国江西省の片隅から日本の被災者に同情と励ましのエールを送った。

2012年3月11日麦路園の集い

今年の3月11日、私は宿舎でパソコンに向かっている。
昨年はなんとしてもこの日に何かをしなければならないと感じた。
今年は、日常的に何かをし続けなければならないと考えている。
明日の2年生の授業で今の東北の何かを伝えたいと、
あれこれ見ていると、昨日3月10日に大阪で
「原発を残すのは罪だ」大阪・中之島で1万1千人の集会デモが行われた
という記事を見つけた。

市民団体「ストップ・ザ・もんじゅ」の代表で、大阪府枚方市の元中学教諭池島芙紀子さん(73)が、反戦運動やチェルノブイリの被曝(ひばく)者支援に取り組む団体のメンバーらと企画。「あれだけの惨事があったのに今の政権は何もなかったように再稼働を進めている。国民の多くは原発を必要としていないと意思表示したい」とインターネットなどで参加を呼びかけた。
未来倶楽部原発関連ニュース 2013.3.11  http://sekolife.blog45.fc2.com/


池島芙紀子さんの名前はもう30年も前から知っている。
彼女は当時中学校の先生をしながら「反核ロバの会」の代表として
市民運動の第一線で頑張っていた。
今もずっとその活動を続けてはるんやなあ・・・。
直接お会いしたことはないが、尊敬する先輩の一人だ。
今、65歳以上70代の人たちは、何かにつけてスゴイと思う。
彼女ら・彼らのすぐ後をついてきた私などは、
ときおり(なんか尻拭いしてるみたい)とボヤく時もあるが、
それでも、切り開いてくれた平坦な道をラクして歩いてこられたのだ。
私のような「一人分パワー」しか出ない人間と違い、
65歳~70代ピープルは巨大エンジン搭載のパワフルな方々だ。
願わくは、これら先輩たちが百歳まで頑張って、
「老人革命」とか「養老院蜂起」とかやってくださったら、
私はすぐに後塵を拝し付いて行きたい、って
この期に及んで、
まだラクすることを虎視眈々と狙っているのである。



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「博堅さんの父、博棣華(はくていか)氏」 2013年3月10日(日)No.586

2013-03-10 21:56:05 | 中国事情
博堅さんは今年81歳。
昨日の八一公園日本語コーナーの後親しい仲間の昼食会に
私と石田キコさんもご一緒させていただく光栄に与ったが、
白酒をたしなむほどに少年のような態度になり、
「♪い~つまでも~ たえる~ことなく~
と~もだちで~ いよう~
今日の日は~ さよう~な~ら また~会う~日まで~♪」
と、クラシックの歌い方で美しく歌うので、
隣席の私はついつい、地声の低~い声でデュエットしてしまった。
本当はそんなことではなく、いろいろお聞きしたいことがあったのに
呑気に歌など歌って貴重な時間は過ぎ去った…。

博堅さんのお父さん、博棣華氏は、1924年から1944年までの20年間、
福島高等商業学校(現在の福島大学経済学部)の教師と、
東北帝国大学の講師を務めた。
博棣華氏の親友に、
魯迅を最初に日本に紹介した中国文学の碩学青木正児氏がいる。
1985年福島大学創立40周年を記念して戦没同窓記念碑が建立されたが、
その碑文の筆頭には博棣華氏の名前が刻まれている。
博棣華の名前を知る人は少ないが、彼は日中文化交流の先駆けであり、開拓者である。
激動の20世紀前半を生き、
今、日中両国の交流に貢献した人として顕彰されている人物に、、
秋瑾(しゅうきん)、徐錫麟(じょしゃくりん)、孫文、魯迅、聶耳(にえある)、そして博棣華など、日本で生活を送り、日本を知悉(ちしつ)する人々がいる。
日中文化交流に貢献した彼らの名が歴史の反古に紛れてしまわないことを祈る。

「父、福島高商外人教師・博棣華について」より
『戦争はいよいよ激しさを加え、日常生活は日ごとに苦しく、
父に対する特高警察の監視もさらに苦しくなった。
ついに、1944年12月、福島大学の浜島教授の説得に動かされて、
私たちはなすすべなく帰国の途についた。(中略)

1945年3月、父・博棣華は鉄道管理局保線区参事に任ぜられ、
併せて華北交通大学の学長も務めた。
1945年8月15日、日本は投降した。(中略)

1946年1月から7月にかけて、
父・博棣華は華北交通大学の教室や教職員宿舎を開放し、
内蒙古から日本へ引き揚げる日本人難民が故国へ帰る船を待つ間の食事と部屋を提供した。
自らの危険を顧みず、
人道主義の精神と日本での生活で庶民から受けた友好的厚意に応えるために行ったことであった。
日本人難民は、帰国に際して父の手を握り涙を浮かべて別れを告げた。
こうして約600名が天津の溏沽港から故国日本へ向かった。

しかし、父が日本人に対して行ったこの行為は国民党の軍規に違反するとして、
1946年8月、父は逮捕され入獄した。
当時、大学に付属する住宅に住んでいた私は13歳になったばかりだった。
父の獄中生活の間、三姉・慧と私は、毎日監獄の父に食事を運んだ。
監獄の花模様のガラス窓にかすかに映る父の後ろ姿については語る言葉もない。
父は同年9月に無罪となり、釈放され出獄した。
12月、父は大学を辞して北京に戻った。(中略)
獄中生活の過重な苦労で出獄後時を経ずして病を得、
精神的にも打撃を受けて、父は痴呆となった。
1949年11月27日、博棣華の母親の実家である汪家の胡同の一室で亡くなった。
遺骸は北京郊外の双橋にある八王墓地に葬られた。
しかし、文化革命の時にこの墓地は壊され、遺骨は散逸して今は無い。

母親・安熙貞は1966年11月26日、文化革命中に江西省南昌市で逝去した。
その遺骨は現在は日本の鎌倉に埋葬されている。』
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「南昌日語角に博堅さんが来た」 2013年3月9日(土) No.585

2013-03-09 21:07:21 | 中国事情
約3ヶ月ぶりに南昌市内八一公園の日本語コーナーに出かけた。
4年生の洪文芳さん、3年生の黄優ひんさん、
そして石田キコさんとお祖父さん、お祖母さんと私の総勢6名は、
いつものように混み合うバスでヨレヨレになりながら、
10時前に公園到着。
あっちでもこっちでも熱心に踊っている中高年グループを脇に見て、
池の傍の日語角(日本語コーナー)を目指した。

今日はいつもと違うことが2つあった。
人数が30人以上も参加していたことが一つ。
もう一つは、な、なんと!
この日本語コーナーの設立者、博堅さんが来ていらっしゃったことだ。
初めてお会いした私は、一緒に写真撮ってもらったり、
昼御飯をご一緒したりと、
ミーハーぶりをいかんなく発揮した。

28年前(1985年)、中国で初めての日語角を政府に申請して
正式に場所を確保して以来、
何人もの第一線で活躍する日本語通訳を輩出してきたこの南昌日語角。
その創立者である博堅さんについては、
以前、ブログで触れたことがある。
博堅さんのお父さん(博棣華氏)は、
辛亥革命、日中戦争、中華人民共和国成立期の激動する中国に身を置き、
1949年11月に北京胡同にある母方の実家で亡くなった。
博堅さんは、両親が権力闘争の激しい中国から逃れるために渡った
日本の福島市で生まれて11歳まで育ち、
日本での迫害が耐えがたく酷くなってきた
1944年中国に家族とともに帰った。

石を持て追わるる如く日本を去った忌まわしい体験を持つというのに、
どうして博堅さんは日語角を開くことに尽力されたのだろうか。
「季刊中国No.99 2009年冬季号」に掲載された博堅さんの文章
「父、福島高商外人教師・博棣華(はくていか)について」(大河内敏弘訳)の中に
その答えがあるかも知れない。
長いが、数回に分けて紹介したい。

『福島市。みどりしたたる山々に囲まれ、
清らかな水が流れている。風光明媚なところだ。
ここは夢の中にしょっちゅう現れる私が生まれ育ったふるさと。
そして、96年前、父博棣華が日本で仕事を始めた土地なのだ。
(中略)
幼いころには戻れないし、周囲に昔のものがはっきり残っているわけではない。
しかしながら木造三階建ての我が家のことはよく覚えている。
庭は深々として柔らかな草が萌え、四季折々の花々が絶えず咲き誇っている。
木々の枝には果物がたわわに実っていた。
秋になると裏庭のイチジクの実がなる。
母はそれを捥いでは大きなお盆に盛り、私たちに与えた。
(中略)
1939年、私は福島第四小学校の四年生だった。
夕方になって陽が西に傾く頃、私たちは
「夕焼け、小焼け…」と歌いながら家に帰ったものだ。
信夫山のお寺の鐘の音が聞こえるなか、家中の者が洋式の客間に勢揃いして
母が作った美味しい中国料理を喜んで食べた。
この上なく楽しく幸せな日々だった。

やがて日中戦争の黒雲が世間を覆いつくし、
侵略者の魔手が異国の人々に伸びて来だした。
終日「空襲警報」と「警戒警報」のサイレンばかりが鳴り渡っていた。
1943年、学校では半日学習、半日勤労奉仕の制度が実施された。
ある日のこと、ガキ大将に率いられた同級生が
自転車の歯車を手に「シナ人、チャンコロ」とはやしながら私に襲いかかった。
こめかみが割れ、血が噴き出し、制服の七つのボタンも引きちぎられた。
反撃することは叶わず、涙が止まらなかった。
家に帰ると、制服制帽の特高がいつも我が家に来ていた。
そして「日満は一体であり、共存共栄しなければならない」
と説教する。
そのたびに父の両腕をとって、両手を挙げて「万歳」を唱えろと強いる。
父はこの凶暴な振る舞いに逆らうことはできなかった。
しかし、身体は特高のなすがままに従っていたが、心まで従うことはなかった。
父には忍従の日々だったことだろう。
配給制度の下、最も困難な日々であった。
戦争は日本人だけでなく、とりわけ日本に住む中国人に災難の多くをもたらした。』

(続く)
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「日本からの交流生キコさんとの一週間」 2013年3月8日(金) No.584

2013-03-08 21:10:04 | 中国事情
今日でキコさんが大阪からやって来てまる一週間経った。

普段、中国人学生たちと日本語や日本事情、文学などの話をしていると、
どうしても中国と日本を対比して違いや共通性などを論じることが多い。
しかし、今週、キコさんとお祖父さん・お祖母さんの登場で、
その思考パターンには漏れがあることに気がついた。
それは的確な表現かどうかちょっと不安だが、
敢えて言うと『融合』的視点とでも言おうか。

ハルビンのお祖父さん、お祖母さんは先祖代々の中国人カップル。
キコさんのお父さんのご両親だ。
ずっとハルビンで暮らしている。
キコさんのお母さん方の祖父母は帰国者一世と中国人カップル。
戦後中国で育った日本人のお祖父さんと中国人のお祖母さんが結婚した。
キコさんのお母さんは帰国者二世。
お父さん、お母さんは中国生まれ。20年近く前に日本に来て、
ずっと大阪に住んでいる。
キコさんは1歳頃から今まで日本で成長を重ねてきた。
こうなってくると、どこからどこまでが日本人で、
どこからどこまでが中国人か、といった線引きが
ほぼ無意味な気がする。

はっきり実感できるのは、
哈爾浜から南昌まで孫娘をバックアップしようと
駆けつけたお祖父さん・お祖母さんの孫への愛情、
自然に任せていると日本語しか話せない子に育つはずのところを、
祖父母との交流を考え、何が何でも中国語をマスターするよう
娘を育てた日本のお母さんの家族愛、
それらを一身に受けてすくすく育ったキコさんという、
日本語も中国語も豊かに話す19歳の女の子の存在だ。

控えめなお祖母さんの眼差しの優しさといったらない。
教室へ授業参観に来てくださったとき、
1年生のある男の子は、お祖母さんの横にピタッとくっついて座り、
離れなかった。
この一週間、私は「中日友好」と言うより、
それを超えて「中日融合」みたいな愛と信頼オーラに包まれていた気がする。
それを振りまいてくれたのが
キコさん・お祖父さん・お祖母さんの三人組だ。

いや~、いい一週間だったなあ
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「ベネズエラのチャベス大統領逝く」 2013年3月7日(木)  No.583

2013-03-07 19:49:44 | 日記


「どんな苦しい人生でもいいから、生かしてください。
この国のためにやることがたくさんあるんだ。」
(生前の言葉)

たった58歳だ。無念だったろう。
地球の向こう側の中南米で、アメリカに負けない国々が存在していることを
どんなに頼もしく思っていたことか。
そのリーダーがウゴ・チャベス大統領だった。
中南米の反植民地指導者シモン・ボリバルの主張である
「人民に最大限の幸福を与えるのが最良の政府」をウソ偽りなく実践した政治家だ。
「社会正義実現のため、市民は少数支配階級に反逆すべきだ」

日本にもチャベスのように思い、実践している政治家がきっとどこかにいるのだろう。
私がうかつにも気がつかないのだろう。
そんな反逆の政治家が孤立無援で立ち尽くさないように、
いい政治家が育つ日本にしたい。
国民が政治家を育てるのだ。

反チャベスのクーデターが起きたとき、各地の貧民が蜂起してチャベスを守った。
日本にそんな日が来るときのために、
貧民のひとりとして心の準備をしておこう。
しかし、そんな日は私が生きているうちに来るのだろうか。
日本という国に・・・。
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「日本語学科初の祖父母参観」 2013年3月6日(水)No.582

2013-03-06 20:31:57 | 中国事情
今日の1年会話授業は面白かった!

はるばる日本の大阪から海を飛び越えてやって来たお嬢さん一人と
そのお祖父さん・お祖母さんが参加してくれたのだ。
簡単に紹介すると、
お嬢さんとは中国帰国者三世の石田キコさん(関西大1年)。
お祖父さん、お祖母さんは生粋の中国人(黒竜江省ハルビン在住)。
普段滅多に会えない日本の孫が、
江西省の大学で2週間ボランティア交流すると聞いて
応援団としてともに南昌入りし、ご夫婦だけ旅館に滞在している。
(キコさんには留学生寮をオフィスが用意してくれた)。
週末は南昌市内などを3人で観光すると言っても、
平日は暇を持て余すのでは?と思った私は
(ちょうどいいから授業参観してもらい、ついでに手伝っていただこう)
いいことを考えちゃったのである。
で、今日の写真は全部お祖父さんに撮っていただいたものだ。(´∀`*)


全く言葉の壁が感じられない祖母と孫娘。
お母さん(帰国者二世)が、祖父母と話も出来ない子にだけはするまいと、
必死で幼い頃から中国語を教えてきたという。

一年生は正味まだ3ヶ月しか日本語を学んでいない。
今日の授業はそんな彼女ら彼らにも、
(日本語が話せるって、面白い!)という実感を味わってもらおうという試みだ。
キコさんには自己紹介を超短く、
「初めまして。石田キコと申します。大阪から来ました。
大学生です。どうぞよろしく」
だけにしてもらった。
その後、習った言葉をテキストからほじくり返して
質問作成(3分)。


その後、
学生たちの根掘り葉掘りの質問が開始された。
質問者は、キコさんが適当に名簿から指名したが、
当たった子の楽しそうなことといったらなかった。
中には「好きな人か、彼はいますか。」
と質問して、
「いいえ、いません。」
と言われると、
「それは残念ですね。」
と同情を示して、「キコさん余計惨め状態」を現出させた。
「大阪を案内しましょうか。」
と、まだ「~てください」を習っていない悲しさ、必死でお願いしていても、
私に「え?誰が誰を案内するの?」と、知ってて意地悪言われる子も。


休み時間は「写真を撮りましょうか。」
う~ん、「撮りませんか。」と言って欲しかったな(^O^)


ほとんどアイドル状態のキコさん。
左のユウケイヒン君が持っているのはお湯ポット。
ここでは飲料用と暖房用にお湯ポットは欠かせない。

最後の30分は、中国語が分からない私のために学生たちが通訳する、
ということで、
お祖父さん、お祖母さんにハルビンのあれこれをインタビューして
私に日本語で伝えてくれた。
美味しい食べ物、おもしろいもの、きれいなもの、生活の困難など、
なかなか分かりやすく日本語にしていた。
ウインナーソーセージ、アイスクリーム、龍タワー、スキー、スケート、
○○島(名前を忘れた)、松花江、センター大通り、氷祭り・・・。
説明を聞いて、すっかりハルビンに行きたくなってしまった。
最後にジョライさんの一言、
「先生、一緒に行きましょうか。」
で授業は終わった。
たった3ヶ月の日本語学習で、
そこそこ通訳できるまでになった1年生たち。
しかも、日本語をいかにも楽しそうに話すのだ。
これを教師冥利に尽きると言うのだろう。
このクラスには、今学期も英語学科の聴講生羅君が参加している。













コメント (6)
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「チェルノブイリと全く同じ福島の大ウソ」 2013年3月5日(火)  No.581

2013-03-05 19:46:46 | 原発事故
2月24日No.572 の私のブログに
こっそり発表:福島の小児甲状腺ガン罹患数」という文を載せた。

その中で「福島の子ども38000人中3人が甲状腺ガンで手術し、7人がガンの可能性がある」こと、その数値は、従来発表されてきた「子どもの甲状腺ガン平均発症率である100万人中1~2人と比べ桁外れのもの(26倍~260倍)である」こと、にもかかわらず福島県の「県民健康管理調査」検討委員会は、「原発事故とは無関係だと発表した」ことを書いた。

関係ないとする根拠は福島県立医大の鈴木真一教授が述べたものだが、
その話はナント、何と、チェルノブイリ原発事故の後で、
「チェルノブイリの子たちの甲状腺ガンと原発事故は関係ない」
とした論法とま~ったく同じなのだ。
(ここで既に怒りのあまり頭痛がしてきたが、最後までガンバレ、私の弱いアタマ)

①福島原発事故と子どもの甲状腺ガンは無関係とする鈴木真一教授


②チェルノブイリ原発事故後、子どもの甲状腺ガンとの関係を否定した重松逸造


《福島事故放射能と子どもの甲状腺ガンの関係が無関係だとする理由》
*放射能の影響が人体に現れるのは早くても数年後なので、まだ2年未満であるから無関係。
*平均発症率(100万人に1~2人発症)は今回のような精度の高い超音波検査で調査していないので、比較はできない。
《チェルノブイリ事故放射能と小児甲状腺ガンの関係が無関係だとする理由》
IAEAが1991年発表したもの(重松逸造委員長)
*広島で小児甲状腺ガンが出るまでには十数年かかっているのだから、こんなに早くチェルノブイリ被災地で多発するはずがない。
*病気は、放射能に対する恐怖から起こる心理的なものだ。

ウクライナ内分泌代謝研究所ワレリー・テレシェンコ医師

しかし、ワレリー・テレシェンコ医師はこう証言する。
「1989年にはウクライナやベラルーシで甲状腺がんの増加が見られるようになりました。その報告をした時、IAEAやソビエトの科学アカデミーはこう言いました。『超音波診断の精度があがったから発見数が増えただけだ』と。」


この重松逸造氏は
イタイイタイ病のカドミウム汚染を否定し、水俣病の水銀説を否定し、その栄誉で叙勲までされ、94歳まで生きた。嘘八百言い続けて、94歳までツヤツヤした顔で生き続ける。悔しい。ちくしょー。

参考・引用・写真拝借はブログ「院長の独り言」(3/3)より
http://onodekita.sblo.jp/archives/20130303-1.html
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「P.M.2.5発生源は中国だけじゃない!」 2013年3月4日(月)No.580

2013-03-04 12:54:31 | その他情報
昨日のブログで大気汚染の微小粒子状物質「PM2.5」が、
日本にも飛来し、騒ぎになっていると書いた。
ここで『被害者意識に陥っている日本の皆さんに何よりもの情報!』って
聞いても嬉しくないとは思うが、
実は、P.M.2.5は中国から飛んでくるだけではなく、
日本でも立派に自家生産しているのである。
昨日は「何でも日本のせいにするな!」と書いたが、
これでは「何でも中国のせいにするな!」と言われそう・・・(ーー;)
よその国を悪者にして誰の利益になるか、と言えば
国を統治している政治家だ。
原因が外国にある限り自国では何もしなくていいのである。
こんな国民を愚弄する政治家に乗せられて
お互いに喧嘩するなんてあまりに情けないんじゃない?
「国民は馬鹿だからすぐ騙せる」とほくそ笑んでいる
政治家たちの思うがままになりたいわけ?
みんな~!
ここはトコトン仲良くしようぜ――っ!!!

ー以下【北陸中日新聞】(2013年2月23日)朝刊より抜粋ー

 中国で深刻化する大気汚染の微小粒子状物質「PM2.5」が、日本にも飛来し、騒ぎになっている。実は、東京都内など都市部のPM2.5は、以前から環境基準を超えていた。国内の車や工場の排出ガスが主要な原因だ。日本は公害を克服したとされるが、国のPM2.5対策は置き去りにされたままになっている。 (荒井六貴)


車や工場の排出ガス主因 都市部、以前から基準超す
PM2.5をシャットアウトするには、インフルエンザ用のマスクも有効だ
=東京都中央区で


 国立環境研究所の21日の発表では、1月31日に全国155測定局のうち48カ所(31%)で基準を超えていた。西日本を中心に濃度が高く、「大陸からの越境汚染が影響したと考えられる」としている。
 しかし、西日本で基準値を超えた測定局数や日数は、昨年同時期と同程度で、実際にどのくらいの影響があったのかは、はっきりしていない。さらに、東京や名古屋などで濃度が高いのは、都市で発生したPM2.5の影響が大きいという。担当者も「長期にデータを集める必要がある」とする。

 実は、東京や名古屋など都市部では、以前からPM2.5が環境基準を超えていた。
 PM2.5の環境基準は1立方メートル当たりで年平均値が15マイクログラム以下かつ、1日平均で35マイクログラム以下。2011年度、東京都内の測定局28カ所のうち、基準を満たしたのは2カ所だけ。板橋区の中山道沿いで年平均19.1マイクログラム、足立区綾瀬で1日平均46.7マイクログラムを記録。23区内の測定局は全滅だった。都内の小学生のぜんそく罹患(りかん)率は6%台で、10年前より悪化している。

 都が、都内のPM2.5の発生源を推計したところ、関東の1都6県で通行する車によるものが11%程度。それに、工場などを加えた人為的な発生源は3割を超える。都内では、幹線道路沿いの測定局の数値が、住宅街を上回っており、車の排ガスの影響が認められる。

怒るぜんそく患者 「国内の現状無視」

東京大気汚染訴訟の原告ら(左側)が、国や都の担当者にPM2.5の削減策を求めた
=19日、東京都台東区で

「東京都内のPM2.5が環境基準をオーバーしているのは、中国のせいだと思っているのか」
。東京大気汚染訴訟弁護団の西村隆雄弁護士が、環境省の担当者に詰め寄った。19日、都内で開かれた、ぜんそく患者や支援の弁護士ら約30人と、国と都の役人約50人が意見をぶつけ合う場。

 西村弁護士が「PM2.5がこれだけ騒がれているのに、行政には削減策の目標もない。いつになったらつくるのか」とただすと、環境省の担当者は「分からない。発生源を解明してから、対策をどう打つか決める」と答えるのがやっとだった。

 日本でも戦後の高度経済成長期に、工場や車から排出される大気汚染公害が深刻化した。三重県四日市市や川崎市などでは、空が排煙で真っ黒になり、ぜんそくなどで苦しむ人が急増。患者らが企業などを相手に訴訟を起こした。

 その後、工場などの窒素酸化物(NOx)や硫黄酸化物対策は進み、環境基準が強化されたこともあり、日本の大気汚染は改善されたとされる。

削減策遅れる環境省

だが、日本でPM2.5が注目されるようになったのは最近になってからだ。環境基本法に基づく、環境基準が設定されたのは2009年。基準が厳しい米国の例を参考にした。本格的な監視態勢を整備し始めたのは、10年からだ。

国道4号の環状7号との交差点近くは、交通量が多くPM2.5の数値が高い
=22日、東京都足立区中央本町で

 東京大気汚染訴訟の原告は、車の排ガスに含まれるPM2.5などによって、ぜんそくや慢性気管支炎などを患ったとして、国や都、メーカー7社などに損害賠償を求め、1996年に提訴した。07年、東京高裁で、医療費助成制度の創設や大気汚染対策の強化、メーカーが12億円の解決金を支払うことなどで和解が成立した。

 ところが、環境省はPM2.5対策を遅々として進めようとしない。「PM2.5の由来が分からない」というのが、その理由だ。

 50歳の時にぜんそくを発症した「東京公害患者と家族の会」事務局長の増田重美さん(68)は「今でも、薬なしには生活できない。PM2.5が削減されなければ、症状はますます悪化する」と切実だ。「国は、中国ばかりに原因があると見せかけている。国内のPM2.5を無視するのはおかしい」
兵庫医科大の島正之主任教授(公衆衛生学)は「日本のPM2.5は全体的に数値が高く、継続的に対策を強化していくことは必要だ」と強調する。「中国の大気汚染で、日本が被害者のようにみられているが、日本にも発生源がある。中国ばかりに目がいくのは正しくない。国内のPM2.5対策も考えるべきだ」
http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20130225142928022
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「中国大気汚染P.M.2.5騒動」 2013年3月3日(日)No.579

2013-03-03 16:57:54 | その他情報
中国から大気汚染の微小粒子状物質「PM2.5」が、日本にも飛来し、日本では騒ぎになっている。
中国版ツイッターに、
「大気汚染の原因は日系企業だ。中国に企業進出して空気を汚し、
今度は空気清浄機でボロ儲けか!」
「なんであんなに空気清浄機が高いんだ!
暴利を貪りやがって。」
と言った書き込みがあったとあり
日本人の私としては読むなり一気にムカっ腹が立った。
(なんでも日本のせいにしやがって!自分の国は神様だってのか!
大体、環境対策を後回しにして経済開発ばかりやっているから
こうなるのは当然の結果だろう。原因がどこにあるのか、客観的に調べたらすぐわかるはずだ。自分の国の現実を少しは直視したらどうだ!)とまあ、俗語で言えばキレた。
その後、ふと不安になり、中国国内で国家基準を超える汚染物質を出している日本企業を調べてみたが、
昨年夏、江蘇省の王子製紙の工場排水垂れ流し計画の記事以外に見つけることができなかった。これは地元のデモもあり、計画は見直しされたそうだ。

しかし、もともと、この「日系企業が汚染の元凶」情報は誰が流したのか、
ふと見ると、なんとアメリカのウールストリートジャーナルじゃないか!?
2013年2月8日、米紙ウォールストリートジャーナル電子版は
「日中の新たな空気の緊張、 スモッグ」という記事を掲載した。

(と、12日、新華網が伝えた)
同記事は「汚染は日本における原発停止に伴う火力発電所の拡大や中国の日系企業工場が汚染の要因になっているとコメントした中国の評論家いる」
とまあ、煽っているのは完全にアメリカだ。何すんねん、アメリカ!
少し深呼吸して見ると、
評論家なんて廬山の頂上から転げ落ちるほどウジャウジャいるし、
その評論家の中にそう言う人いる、と書かれたからといって、
「そういう無責任なアホもおるわな」と
悠然と構えたらいいのだ。
偏西風はあっても、偏東風などない。
日本の火力発電所上空の風が中国方向に飛んできたという
データが確認されたとも聞いたことがない。
ホントに私って単細胞。

事実、ここ南昌では全くどこ吹く風で、
学生たちも「北京では空気が悪いそうですね」と至って呑気だ。
ついつい煽りに乗せられてしまわないように気をつけなくちゃ。
ひょっとして、2チャンの人々も私と似た「鵜呑みタイプ」かも知れない。
それに中国版ツイッターの人々も。
[今日の教訓]
誰かが言った言葉を鵜呑みにしてキリキリしないようにしようね~、みんな
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「内田樹『14歳の子を持つ親たちへ』」2013年3月2日(土) No.578

2013-03-02 20:13:41 | 
安倍首相の「施政方針演説」(2/28)をネットニュースで見て
保存したが、読むと心底クサクサしてくる。
「安全を確認した」原発再稼働を明言し、
TPPはアメリカの要請に応えて限りなく参加に近づき、
米軍普天間飛行場移設の早期実現をうたい・・・、と
何もかもアメリカに叩頭し従うこの卑屈極まる属国主義に対して、
なぜ日本の「愛国者」たちはいつものように汚い言葉で罵らないのか、
たいへん不思議である。
また、別のニュースでは
脱原発の考えを翻した人々が急に増えたそうである。
どうしてこの国の人々はこのようにコロコロ目先のことで
考えを変えるのか。
これはもう、ほとんど病気と言えるのでは?
そんな私の疑問に、
内田樹の文がかゆいところに手が届くように答えてくれた。
彼のブログ「内田樹の研究室」
2013年01月24日のページ、
彼の書籍「14歳の子を持つ親たちへ」韓国語版への序文の一部である。
以下抜粋。
―――――――――
本についてひとことだけ。
この本は精神科医の名越康文先生との対談を収めたものです。
対談が行われたのは8年前、僕はまだ大学に勤めていましたし、
名越先生はクリニックで思春期の子どもたちのカウンセリングをしていました。
教育と医療のそれぞれの現場での知見に基づいて、
「日本の家族」について、
いまどういう病的症状が出ているのか、
なぜそれが発症するに至ったのかについて意見の交換をしました。
最終的に二人が到達した結論は、
「日本人全体の心理的な未成熟がこれらすべての現象に共通する原因らしい」ということでした。
「心理的な病の理由は心理的な未成熟である」
というだけでは同語反復のようですけれど、微妙に違います。
「未成熟」は「病的」な様態をとることはありますけれど、
それ自体は病気ではありません。
成熟すればいいんですから。日本人に必要なのは
「治療」ではなくて「成熟」である、
というのがたぶんこの本から僕たちが引き出した実践的な結論ではなかったかと思います。
日本社会には人を成熟に導くための教育過程がない。
そのことを深刻な危機だと思っている人がほとんどいない。
ほんとうにいないのです。
少なくとも教育行政の当局者にはいません。
英語ができるようになれとか、
上司の言うことには黙って従えとか、
愛国心を持てとか、
体力をつけろとかいうことはがみがみ口やかましく言いますけれど、
「大人になれ」ということは言いません。一言も言いません。
「大人」というのは、ものごとを自分の個人的な基準に基づいて判断し、
その責任をひとりで引き受けることのできる人のことです。
でも、それだけではありません。
「大人じゃない人たち」の不始末や手抜きを黙って片付ける人のことです。
「子どもたち」よりも「大人」である分だけ「よけいな仕事」をしなければいけないということがわかっている人のことです。
そういう「大人」が一定数いないと共同体は長くは保ちません。
でも、そういう「大人」を育てるための教育システムが存在しないのです。
この本で僕と名越先生が話しているのは、
そのような危機的状況の諸相についての報告です。
そう思ってお読みいただければと思います

14歳の子を持つ親たちへ (新潮新書): 内田 樹, 名越 康文: 本.価格:714円
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「アウン・サン・スーチーさんの苦言」 2013年3月1日(金)No.577

2013-03-01 14:06:43 | その他情報
ミャンマーの民主化運動指導者で最大野党を率いるアウン・サン・スー・チーさんが、日本の歴史認識に関連して「誰でも過ちを犯すことはあるが、過ちを認めることをためらうことこそ本当の過ち」と述べた。(ソウル 聯合ニュース)・・・「村野瀬玲奈の秘書課広報室」より再転載

世界中の誰もが「あの人はいい人だ」と太鼓判を押すほどの存在は
そう多くはいないだろう。
しかし、今の世の中でそういう一人と言えるのが
アウン・サン・スーチーさんではなかろうか。
痩身で控えめな佇まいに、髪に挿す花一輪が何とも言えない。

誰でも過ちを犯すことはあるが、
過ちを認めることをためらうことこそ本当の過ち


No.574で中国人学生李思銘さんが書いた
実は、全て既に過ぎ去ったことなので、たいしたものではありません。
認めればいいだけですね。

と合わせてもう一度噛み締めたい。

小学校で働いていたとき、子どもたちが喧嘩をした場面で、
両方とも「お前が悪い!」「お前が悪い!」と
互いに指差して怒鳴り合い、大泣きしていても、
一方が「ごめんね。」
と言うと、プンプン怒っていた相手の子も急に
「いいよ、もうしないでね。」
で簡単に仲直りできた。
そういうことじゃないのか。

悪いことを悪いと認めることは、決して自虐ではない。
潔く居住まいを正すことだ。
今「日本は過去に何も悪いことしてないし~!」
とうそぶく人たちは、
日本人の一番みっともない姿を
世界中にさらしているのがわからないのだろうか。
スーチーさんに対して
「日本は今まで散々支援してきたのに恩知らずな奴だ」
と言う人がいるという。
彼女のお父さんのアウンサン将軍はビルマで日本帝国主義と闘った人だ。
スーチーさんだって日本に言いたいことは山ほどあるだろうに、
中国や韓国のように声高に言う訳でもなく
(声が大きくなるのももちろん理由があるが)
黙ってくれているのだ。
「恩知らず」と言った人は究極の無知であると同時に究極の無礼者だ。
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