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旅行のおみやげ




近所の量販店で、わたしよりひとまわり程年上の日本人女性のグループが

「これ、おいしいのかしら」

などと言いながら、袋詰めのワッフルやチョコレートをためつすがめつしているのを目撃した。おばちゃんの血が騒ぐ。もう話しかけずにはおれなくなるんですな。


一方、地図を見ながらウロウロしている人には話しかけないことにしている。
「外国に来たから道を尋ねる時は外国人(現地人だけど)に尋ねたい」と思っておられる方が多いと聞いたからだ。日本人は旅先で同朋を無視する傾向があるのはご承知の通り。


で、量販店での話に戻るが、
「おいしいですよ。地元の人も結構食べているようです。」
と、ついに口を挟む訳である。


わたしでもタイのスーパーでカレーの素を買うならタイ人マダムか、できたら現地の日本人のおばちゃんのアドバイスが欲しいと切に願うはずだから。



日本でお土産を配る段になって、「現地の日本人がおいしいって言ってたのよ!」と何回も繰り返すだろう彼女たちの様子を想像すると楽しいのである。

もしかすると「そのわりにはあまりおいしくないわねえ。」と言われているかも(笑)。

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オレンジ色に輝く身体




今日は男性の裸体について。


ブルージュは一年中、その辺を掘り返したり、レンガを積み直したりしている街である。
基礎自体が古いからたえずメンテナンスが必要だ。ああ、ワタクシのことみたい...


最近、寒いのは寒いが、からっと天気がよいので、土木作業員の方々においては作業もはかどるに違いない。

で、天気がいいと湧いて出てくるんですな...
上半身裸の作業員の方々。

それがまたみなさん、ええ身体。


男らしい体つき(何とエロい言い方だろう)はわたしだって好きだ。
最近の日本では中性的な体つきの男性が人気なのだそうだが。


問題は、黄金がかったオレンジ色に日焼けした上半身を出して作業している方々と出くわすと、目のやり場がなくて困るのである。

と言うか、あれは直視する対象ではないのかもしれない。太陽のように。



映画「欲望という名の電車」で、ブランチが上半身裸のスタンリー(あの頃のマーロン・ブランドの超一級の下品な美貌!)と初めて話すシーン、にやにや嬉しそうに目をそらすブランシュの醜悪なこと...しかしあの場面でどんな顔をして会話しろというのか。


だからぜひ服を来て作業して欲しい。



...



映画、a single manでも矢鱈と男性の裸が出てくる。
単にトムフォードの趣味、と済ませてしまっては浅はかすぎるかと思ったので、「これは欲望のアバターである」とか、「知的な人間も結構そんなことばかり考えている、という批判である」などと好意的に解釈しようと努めたが、どうなんだろう。

ある種の嗜好の方々にとってはあれは直視して鑑賞する対象なのだろうか。
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後藤さん




わたしは芸能界や芸能人についてほとんど何も知らないから、正しい情報を記すことは目指していない、ということを断ってから書き始める。



後藤久美子と言えば、ときどき雑誌のグラビアで見かける、パリでも何度か見かけたことがある、大変綺麗な人、という認識しかなかった。
最近、文章のスタイルがものすごく好きなブログに、彼女のことが詳しく書かれていて、そこから「へえそういう人なのか」とその一面を知ったのである。



この人物の魅力は完全なる現状肯定だ、と思った。


子どもの時分から容姿に恵まれ、その面での自信というのは世間一般以上にあったに違いないが、「今、これでいい」という自信(根拠はないかもしれないけれどそれでも十分)が醸し出す、常に「素」の状態が彼女の魅力なのだ。


わたしが芸能人一般に興味がないのは、彼らが注目をおねだりする仕方が「見苦しい」からである。


「素」や「自然体」(<ああイヤな言い回し)を売りにしている芸能人はよくいる。でもその多くは「自然である」ように見せかけているだけの大根役者(だってわたしが見ても偽物だと分かるもん)に過ぎないと思う。

たいがいの人間はそのように世間に向かって自分をより良く見せようという努力をする。
人からこう思われたいとか、感心されたいとか、認められたいとか。
自然体だと思われたいとか、自然体だと感心されたいとか、自然体だと認められたいとか(笑)。

その結果、言い訳をしたり、説明をしたり、媚を売ったり、ブログを書いたり(笑)に忙しくなる。
一方、彼女はそういうことをしなさそうにわたしには思えた。そんな必要がないのだ。
それゆえ人付き合いもあっさりしていそうな気がする。



ここで手前味噌、わたしは以前も書いた祖母の教えを思い出す。

「外面も内面も美しく努めるのは自分の家の内だけにする。
そして外出時はのびのび自然のままに振る舞う。
つまり外出時に美しくありたいなら普段から身も心も常に美しく生きるしかないのである。」


わたしは彼女が美しい心持ちの人なのかどうかは知らないが、「ええかっこ」する必要がない人というのは見苦しくない、つまり美しいのだな、としみじみ感じたのである。





その点、特に容姿に恵まれて産まれて来た人というのは「素」で平気な可能性が高いので得である(こういうことを損得で考えるのが恵まれていない人の悪い習慣である)。
そういえば以前塩野七生氏かどなたかが書かれていた。すなわち絶世の美女トロイのへレナは服装にも化粧にも全くこだわらなかったはずだ、と。


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a single man




アカデミー賞発表前、ぎりぎり滑り込みで。




主人公のジョージは、完璧な家に住み、完璧な服装趣味を持ち(死装束の「タイはウインザーノットで」と遺言を書くほどの男だ)、完璧な車に乗る英文学の教授である。
ついでに言えばわたしはコリン・ファースの風貌が例外的に好きなので、完璧な容姿の男性でもある。
また彼の履く靴とワイシャツの造形の美しさには目を見張った。さすがトム・フォードなのである。



印象的なのは、多用される「瞳」の描写、またそれに似た満月の描写だ。
フロイト=ラカン的には、人間は世界と直接関係することはできないと考える。人間は幻想によって生きており、「フェティシズム」が、人間と世界とを繋ぐ媒体となる。われわれが特定のモノに固執するのは、そのようなフックがないと人間は簡単に世界から乖離してしまうからだが、しばしば劇中に登場する「瞳」は、常にジョージの生へのフックとなっていた。と思う。



われわれは常に死への衝動と隣り合わせにあり、しかし小さなエロスがわれわれを生へとひきとめるのである。



それから...ファース演じるジョージに夏目漱石の「こころ」の「先生」を重ねずにはいられなかった。
彼に近づく大学生ケニーが「私」で、「何か分からないけど重い十字架を背負った訳ありの世捨て人のような、ちょっとトホホな初老男性(どれだけトホホかをジョージがケニーに説明する場面もちゃんとある)」に引き寄せられて行くところ。

原作も読んでみたい。


あ、それから、主人公ジョージがゲイである必要性というのがほとんど感じられなかった...トムフォードはゲイを素材にしない映画を撮った方が絶対才能が際立つと思う。



ジュリアン・ムーアはええ女である。



後数時間でアカデミー賞が発表されるが、コリン・ファースにとって欲しい。





以上取り急ぎの感想。

また何か思いついたら、英文学授業中に教材にされるA. Huxley の小説、 after many a summerの「恐れ」についてとか、
ジョージの心の動きとともに色彩の濃淡が変わり、周りの世界とテンポがずれ続ける各シーンなどについても感想を書きたい。


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王様のアイデア




娘がメトロノームを紛失した。
再購入の機会に、日本では従来型以外にどんなものが売られているのかと検索したら、クリップ式イヤフォン型のも出ているではないか!すばらしいアイディアだ。



「王様のアイデア」。

わたしが子どもの頃、確か阪急何十番街かのビルの中に、発明品を商品化して展示販売する「王様のアイデア」コーナーがあった。

外食をした後などに、同じビル内の展望台へ連れて行ってもらうルートになっていたのだ。


真に役立つアイデアは即大量生産され、時間とともに生活に浸透していくのではないかと思われるので、ここのショーケースに飾られている珍品はどちらかといえば実用品というよりシャレを売る、という感じだった。

さすが王様である。彼には実用品は必要がないのである。


平凡なガラスケースの中に妙なアイディアが並んでいる様子は、まるで誰かの脳の中の地図を見るよう、あるいはバーナム博物館の雛形のよう...子ども心に恐ろしく、またこれ以上ワクワク感を煽るものはなかった。


なつかしや。



元々ベルギーでは小さい消費は盛んではないが、未だに通販も夢のお話である。
それに比較して日本の通販の充実ぶりたるや、一昔前に百貨店文化が担っていたもの以上がありますね!

日本の「なくてもいいけどあったら便利、あったら愉快」という品物が次々と出てくるスタイル、非常に「王様」っぽい。

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