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伊豆の国市の蛭ヶ島公園に立つ源頼朝、北条政子像へバーチャル訪問

2022年01月05日 04時41分33秒 | 静岡県情報

平治の乱で敗れた源義朝の嫡嗣の源頼朝は1160年(永暦元年)3月に平清盛の継母・

池禅尼の命乞いによって伊豆の蛭ケ小島に配流され(この時、頼朝は14歳)、

1180年(治承4年)年8月、石橋山で挙兵するまでの20年近くをこの地で過ごした。

その間に北条政子と結婚している。

上の2枚の写真は蛭ケ島公園の源頼朝と北条政子の夫婦像

富士山を眺めている夫婦像である。

出典:2022年1月3日2:57 NHK総合テレビ 「北条義時ゆかりの地をめぐる」

上の写真はGoogleストリートビューより撮った蛭ケ島公園の源頼朝と北条政子の夫婦像

『吾妻鏡』によると、頼朝を伊豆国へ送り届けたのは、父義朝の家臣だった長田資経の

親族の藤七資家。

北条政子との結婚のほかに伊東祐親の娘・八重姫との恋、箱根・伊豆山・三島の三社詣、

天城山での巻狩りなどの伝承も残されています。

多分、1月9日(日)から始まるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれると思います。

昔、習った日本史では「頼朝、伊豆国に配流」だけで、「蛭ヶ小島」というのは初めて聞く

言葉である。Wikipediaで調べてみると「蛭ヶ小島」又は「蛭ヶ島」は後世の記述であり、

真偽のほどは不明。発掘調査では弥生・古墳時代の遺構・遺物のみで、平安時代末期の

遺構は確認されていない。『吾妻鏡』では頼朝の流刑地について「蛭島」とのみ記され、

「蛭ヶ島公園」が比定地であるかは不明。

 

「蛭ヶ島公園」は伊豆の国市(旧韮山町)が「蛭ヶ島公園」として整備し、公園内には

「蛭島碑記」の石碑のほか、富士山に向かって立つ頼朝と政子の像がある。

上の写真は蛭ヶ島公園に立つ源頼朝と北条政子の夫婦像 土台には「蛭ケ島の夫婦」と

刻まれています。

平成16年(2004)3月18日、富士に向かって頼朝と政子が寄り添って立つブロンズ像

「蛭ケ島の夫婦(ふたり)」は除幕されました。

出典:2022年1月2日Pm6:00から放送 NHK BS3「鎌倉殿サミット2022」より

上の2枚の写真はGoogleストリートビューより撮った蛭ヶ島公園の源頼朝と北条政子の夫婦像

蛭ヶ島公園の基本情報

名称 蛭ヶ小島(蛭ヶ島公園)/ひるがこじま(ひるがしまこうえん)

所在地 住所:静岡県伊豆の国市四日町17-1

問い合わせ先:伊豆の国市都市計画課 (TEL:055-948-2909)

関連サイト:伊豆の観光情報 伊豆の国市観光協会 (izunotabi.com)

 

「蛭ヶ島公園」として整備されている場所は、江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流と

なった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、これを記念する碑が田野の中に寛政2年(1790)

に建てられた。この石碑は韮山代官の江川家の家臣が建立したものとされている。

これが「蛭島碑記」で伊豆の国市指定有形文化財となっている。

これからは、Wikipediaよりの引用です。

この石碑とは別に、史跡の北側約600mの民家の敷地内にもほぼ同様の碑文の「蛭島碑記」の石碑がある。地元の区誌によると民家にある石碑は婿入りの引出物として韮山代官の江川家から贈られたとされている。この周辺は地域住民から「兵衛」の地名で呼ばれており、頼朝配流時の官職名が「右兵衛権佐」だったことから、こちらが配流の地であるという可能性も指摘されている。ただ、なぜほぼ同様の碑文の石碑が2つあるのかなど謎も残されている。

蛭ヶ島公園内に建つ茅葺きの建物は、江戸時代中期の農家の建物「上野家住宅」を移築したもので、静岡県の有形文化財に指定されており、内部には民具や農具などを展示して、歴史民俗資料館となっている。

 

江戸時代の末に伊豆の地誌「豆州志稿」を著わした秋山富南が、この場所を頼朝配流の地と考証したことを記念する「蛭島碑記」(町指定文化財)が立っていま す。

上の写真が蛭島碑記です。

出典:2022年1月3日2:57 NHK総合テレビ 「北条義時ゆかりの地をめぐる」

「蛭島碑記」(町指定文化財)の内容は以下のとおりです。

               豆州 富南穐山章 撰
               武州 東州左潤書并に篆額

「豆州は南東海の陬(すみ)に僻在(へきざい)す。在昔(ざいせき)先王制して流刑三居の一と為す。而して最もその遼遠(りょうえん)なるものなり。是の故に違官・貴人・若くは士女・若くは僧巫(そうふ)、實に茲(こ)の土の史策に載する所、班班(はんぱん)として観るべし。予、嘗て周(あまね)く州中を詢(と)ふに、則(すなわ)ちその人と跡と率(おほむ)ね湮没(いんぼつ)して聞くこと罔(な)し。獨(ひと)り源幕府頼朝、蛭島自(よ)り起つ也。その蜂焔(ほうえん)の向かふ所、風霆疾掃宇内(ふうていしっそうだい)を横制す。首(はじ)めて武人出政の大業を造す。故に今においてその雄武と英名とを頌(しょう)して衰えず。而して蛭島の名、これによりてそれ著(あらは)るなり。狩野河の古逕(こけい)は南條より韮山の趾(もと)に至る。西南水曲の壖(ぜん)、即ち蛭島と為す。田方郡北條邑に属す。北は三島を距(へだて)ること二里にして遠し。而して東部より茲(こ)の州介に建つ。即ちこれ風土は世とともに雅化し、今は古に制する所と異なる。今これを文とし、物を詠じ、その山水を寵し、その古趾を表し、以て郷土を華する者ありや否や。彰、惟(おも)ふに飯田子の古を篤好(とくこう)すること有るを知るのみ。嘗て慨(なげ)く夫れ蛭島の名海内(かいだい)に顯(あらは)るを。而してその地、則ち奇勝の賦詠(ふえい)に著るること有るに非ざるなり。これを名づけて島といふ、亦江海の洪濤(こうとう)を環(めぐ)らす壮観有るに非ざるなり。實に蕞爾(さいじ)たる寥閴(れうげき)の野(や)のみ。今誌(しる)さずんば、往者それ泯びん。乃ち文を章に徴す。章はこれその成るを楽しむ所なり。又、曷(いずくん)ぞ不敏を辭するに遑(いとま)あらん哉。且(まさ)にこの銘を繋(か)けんとす。銘に曰く、莾莾(ぼうぼう)たり蛭島、流人これに居す。潜阻廿稔(ねん)、邊月影に随ふ。長庚運に感じ、白旗を揚光す。西海に動烈あり、極東の夷(えびす)を伐つ。権柄(げんぺい)陰(ひそか)に移り、威、八圍(はちえ)に加わる。遺跡を恙願(ようがん)すれば、禝黍疇(しょくしょちゅう)を被(おほ)ふ。これここに石を建つ。後人の観収するところなり。

       寛政二年冬十月上日   豆州   流芳飯田忠晶 建 」

現代語訳は下記サイトで書かれています。

 源頼朝日記 : 「蛭島碑記」の現代語訳 (livedoor.jp)

 

「蛭ヶ島」の案内板

「 蛭ヶ島(源頼朝配流の地蹟)

 このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝配流の地といわれている。

 狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。

 永歴元年(1180)34歳で旗揚げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。

 しかし、「吾妻鏡」治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5Kmの守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。

 このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ヶ島で過ごしたものといえよう。

 当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されている。

 また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った荻原正夫が、明治26年に建立したものである。

                                韮山町教育委員会
                                韮山町産業観光課 」

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