湯島天満宮は正平10年(1355)に創建された
とされているが、湯島天満宮では458年創建としている。
後に大田道灌が再興した。
初詣、合格祈願、梅見の名所。特に梅祭りが有名。
現社殿は権現造である。かつての社殿は明治18年
(1885)に改築され、さらに平成7年(1995)に
建てかえられた。
住所:東京都文京区湯島3-30-1
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本郷薬師
住所:本郷4の2と37の間
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以下文京区教育委員会の説明書きより要約引用
この地は真光寺(戦災で世田谷に移転)の境内
であった。寛文10年(1670)に本郷薬師が建立。
当時府内に奇病が蔓延し薬師様に祈願して病気
が治まったといわれている。
本来薬師如来は人間の病苦を癒し苦悩を除く
仏とされている。
新撰東京名所図絵によると
「本郷夜市は著名なり毎月8日、12日、22日は
薬師の縁日なり、縁日の夜は、殊に雑踏を
極むるなりーーーーーー」
御堂は戦災で焼失したが昭和22年に改築され、
昭和53年に新築された。
本郷付近散策中に、菊富士ホテル跡の碑を見つけた。
菊富士ホテルは、下宿屋を営んでいた岐阜県出身の
羽根田幸之助ときくえの夫婦により大正3年(1914)に
創業された。
帝国ホテル、築地静養軒ホテル、日比谷ホテルくらい
しかない当時に幸之助は、斬新な考えでホテルを始めた。
同年は東京大正博覧会が開かれ、外国人客も多く見られた。
しかし、博覧会が終わると、外国人客の姿が次第に
減っていく。
変わり身の早い幸之助は、ホテルを高等下宿屋に
切り替えてしまった。
モダンな雰囲気と大正5年(1916)に起きた日蔭茶屋事件が
ホテルの名を一気に広めた。
この事件はホテル滞在中の無政府主義者の大杉栄が愛人と
葉山の日蔭茶屋に行った際、もう一人の愛人に刺された事件だ。
この年以降、菊富士ホテルの宿帳には、著名な文人の止宿が
爆発的に増えた。
主な止宿者を列挙する。谷崎潤一郎、竹久夢二、坂口安吾
石川淳、宇野千代、尾崎士郎、直木三十五、正宗白鳥、
小原直、大杉栄、三木清、月形龍之介、中條百合子
宇野浩二、広津和郎、湯浅芳子など文士や画家が多い。
彼らの活動の拠点となっていく。大正後期から昭和初期の
全盛期には「泊まろうと思っても、紹介がないと、なかなか
順番が来なかった」との証言もある。
昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により消失した。
写真は神田明神の裏手にある小唄塚・小唄作詞塚です。
以下説明書きより要約引用。
神田神社の神田祭は江戸っ子の「粋」と「いなせ」
と「勢い肌」の象徴でした。
江戸小唄のなかには神田祭は随所に取り入れられて
います。この憧憬もあり、大正・昭和の小唄作曲に
大きな足跡を残した吉田草紙庵(本名:吉田金太郎)
を縁りあるこの地に顕彰し、昭和31年(1956)3月に
小唄作詞家の市川三升、英十三、宮川曼魚(小唄作詞
グループ火星会の前身閑吟会を結成し後輩の指導
に当たった)により小唄塚は建立された。
その後さらに昭和62年6月に小唄塚の30周年を記念し、
小唄作詞塚が建立された。
左が小唄作詞塚、右手が小唄塚。
説明書き全文は下記のとおり。
小唄塚・小唄作詞塚
当神社の神田祭は、江戸っ子の「粋」と「いなせ」と「勢い肌」の象徴でありました。江戸小唄の中には神田祭は随所に取り入れられています。この憧憬もあって、大正・昭和の小唄作曲に大きな足跡を残された吉田草紙庵(本名吉田金太郎)を、緑りあるこの地に顕彰し、三十一年三月に小唄作詞家の市川三升・英十三・宮川曼魚 の三長老(小唄作詞家グループ火星会の前身閑吟会を結成し後輩の指導に当った)により小唄塚は建立された。
その後昭和六十二年六月に、小唄火星会をはじめ小唄作詞家協会の人々の発起により、小唄塚建立三十周年を記念して、作詞家を讃え、顕彰すべく小唄作詞塚が建立された。
茲に、小唄の両輪である、作詞・作曲双方の塚を揃え顕彰する事ができました。
当神社の神田祭は、江戸っ子の「粋」と「いなせ」と「勢い肌」の象徴でありました。江戸小唄の中には神田祭は随所に取り入れられています。この憧憬もあって、大正・昭和の小唄作曲に大きな足跡を残された吉田草紙庵(本名吉田金太郎)を、緑りあるこの地に顕彰し、三十一年三月に小唄作詞家の市川三升・英十三・宮川曼魚 の三長老(小唄作詞家グループ火星会の前身閑吟会を結成し後輩の指導に当った)により小唄塚は建立された。
その後昭和六十二年六月に、小唄火星会をはじめ小唄作詞家協会の人々の発起により、小唄塚建立三十周年を記念して、作詞家を讃え、顕彰すべく小唄作詞塚が建立された。
茲に、小唄の両輪である、作詞・作曲双方の塚を揃え顕彰する事ができました。
神田明神裏の宮本公園に三谷長三郎の胸像があります。
以下説明書きより要約引用。
三谷長三郎は神田で古くから商売をしており屋号は
紀伊国屋である。その10代目当主である。
明治から大正、昭和にかけて銅、真鋳を商って
財をなした。
明治2年(1869)生まれ昭和7年(1932)12月25日没。
彼はその私財を投げ打って学校にピアノ、映写機から
プールにいたるまで多大な寄付を行い、さらには
鉄道をしたてて夏には由比ガ浜で臨海学校を催し、
冬には箱根において林間学校を催すなど、
教育事業にも力を注いだ。
またこの胸像は長崎の平和像の作者として有名な
彫刻家北村西望により昭和9年に建立された。
当初は神田明神の東北隅の大銀杏のそばにあったが
境内より昭和36年(1961)より現在の宮本公園に
移設された。
明治という時代には、このように財のある人が社会
貢献する風潮が強かったのだなと感じます。
三菱の創設者岩崎家、エリザベスサンダースホームの
沢田美喜さん(三菱財閥創始者岩崎弥太郎の孫)
など欧米の金持ちの心情を学んだ人たちも社会貢献で
後世にも語り継がれています。
社会貢献の空気が時代の中に流れていたというべき
でしょうか。
しかもほとんどその名を知られていない人が、
当たり前のように社会に財を還元するという行為が
行われていた。
現在の金持ちもこのような気持ちをもってもらいたい
ものである。
また金儲けのためには手段を選ばないとか商の倫理も
欠けてきているように思える。