CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

兵庫大仏 in 能福寺 on 2014-5-24

2014年05月31日 06時19分26秒 | 神戸情報
兵庫大仏について以前、小生のブログ(下記サイト)で紹介した。

兵庫大仏

今回、兵庫大仏について前の記事で書けなかったことを中心に書きました。


上の写真は2014年5月24日撮影の兵庫大仏です。
鎌倉の大仏、奈良の大仏とならんで日本の3大大仏の1つである。

飛鳥大仏を兵庫大仏のかわりに入れて日本の3大仏とする説もある。

兵庫大仏の基本情報
平成3年(1991)5月9日開眼


高 さ:  18m(地上より台座を含む)
          蓮の花の台座の高さが3m、さらに下の台が4m
御身丈:  11m
像重量:  60ton

鋳造業社: 平安美術 (工場は三木市大村の金剛寺の近くにあります)

建立者:  能福寺25世権僧正 世雄代 さん 他 大仏再建奉賛会の皆さん



上の写真は明治24年(1891)3月に建立された初代の兵庫大仏です。
出典:兵庫津風土記 高田静夫著 Page123

兵庫大仏の建立目的は平家の追善であった。
能福寺の加藤茲晃和尚が発願し兵庫津の豪商・豪商・南条荘右衛門らの寄進により大仏が建立の寄進により兵庫大仏が建立されました。

南条荘右衛門は鍛冶屋町と本町の角で紙問屋をされていました。屋号は油屋

女性が使用していた銅製の鏡が15,000個も集められ、その他の金属約1,000貫(約4トン)余も集められ1万余円の費用で
建立されたそうです。


下記サイトも参照しました。




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神戸市中央卸売市場本場跡地のイオンモール建設予定地の近況写真 on 2014-5-24

2014年05月30日 05時27分18秒 | 神戸情報

2014年5月23日、イオンは神戸市中央卸売市場本場の跡地で大型ショッピングセンターが建設完成 する時期が当初予定より1年遅れて2016年9月30日の開業を目指すとの発表をした。 尚、大型ショッピングセンターの概要は以下のとおり。 土地取得費:45億円 延べ床面積:4階建て93,000㎡ 売り場(1階~3階)面積: 56,000㎡ 2014年5月24日に建設準備中の大型ショッピングセンター建設予定地の写真を撮りましたので 紹介します。

この土地はかって兵庫城や初代の兵庫県庁が置かれた場所で発掘調査も行われました。

関連ブログにリンクしておきます。
兵庫城跡現地説明会 on 2012-8-4
平成23年度神戸市埋蔵文化財センター秋季企画展 江戸時代の兵庫津を見学して
兵庫城跡 最初の兵庫県庁の地 の石碑 in 新川運河キャナルブロムナード

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本の紹介「三木の染形紙 第2号」

2014年05月29日 07時02分06秒 | 神戸市以外の兵庫県
下の写真の「三木の染形紙 第2号」が2014年2月に筒井俊雄さんが代表を務める三木の染形紙の
保存と活用を考える会から発刊され購入(3,500円)しました。
三木市のほか豊岡や加古川、西脇の染め型紙の約300点が収納紹介されています。



筒井俊雄さんが経営するギャラリー湯の山みち(兵庫県三木市大塚2)で購入できます。
問い合わせ:0794ー82ー7873 ギャラリー湯の山みち

染め型紙と言えば伊勢の白子や京都が全国的に有名ですが三木市も江戸時代には、
「染め型紙」の一大産地でした。宝暦12年(1762)に発刊の播磨鑑には三木の土産品として染め型紙
が紹介されています。また、寛保2年(1742年)には染め型屋が16軒もあり、盛んな産業であった
ようです。


三木の染め型紙を紹介したサイトまたは新聞記事など

兵庫歴史研究会 [年会誌21号]三木の形紙 坂本信子氏

2014年3月19日 神戸新聞 北播版 13 26ページ

広報みき No.806 2013年4月 三木の染形紙の保存と活用を考える会を紹介

三木市広報課のブログ記事


『三木史談』第41号 平成11年1月 三木郷土史の会編
[三木の型屋と型紙] 山本和人(姫路市書写の里・美術工芸館主事)
『三木史談』第42号 平成11年7月 三木郷土史の会編
[三木の歴史に残る染め型紙の形屋-調査その一-] 石田安夫(三木市立堀光美術館長)
[三木の歴史に残る染め型紙の形屋-調査その二-] 石田安夫(三木市立堀光美術館長)
 





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三木市岩宮町の岩壺神社 on 2013-4-21

2014年05月28日 06時37分56秒 | 神戸市以外の兵庫県
2013年4月21日、三木市岩宮町の岩壺神社を訪問し写真を撮りましたので紹介します。

岩壺神社の基本情報
住所:三木市岩宮町391 旧住所表記では三木市岩宮字渕ノ上
TEL:0794-82-0914

御祭神:中座 - 大日孁尊(おおひるめのむちのかみ)=天照大神の別名
        誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇の別名
    左座 - 上筒男之命(うわつつおのみこと)=住吉三神の一神で海の神・航海の神
        天手力男神(たじからおのみこと)
         =天岩屋戸に隠れた天照大神が外の様子を見ようと岩戸を少し開けた時、
         その岩戸を引き開けた神。
    右座 - 国狭槌尊(くにさつちのみこと)=天地開闢の頃の神で草茂る丘や低い山を守る神
       天児屋根命(あまのこやねのみこと)
       =岩戸隠れの時前で祝詞を読み上げたり、天孫降臨では中心的な役割を果たした神


   境内社:八坂神社

由緒:天武天皇の時代白鳳二年(674年)2月11日に創建されたという古いいい伝えのあるが不詳





上の写真は岩壺神社の表参道の鳥居と参道で遠く拝殿を臨む。
鳥居は昭和14年(1939)10月に東洋電波株式会社と三木精工株式会社と北村昌一さんと八木元冶郎さんらが寄進


上の写真は岩壺神社正面の拝殿。


上の写真は拝殿の前の舞殿。


上の写真は本殿。

岩壺神社の名前の由来は神社裏を流れる大川(志染川)の中に靭(うつぼ)の形をした岩があり、 磐靫(いわつぼ)
をもって神社の名前としたと伝えられている。
またこの川の岩に大淵があり、その渕を壺と称したことから岩壺神社と伝えられたとも言われる。

享保年間に社殿を焼失し今の本殿が長屋村の産土大神として再建された。
明治6年(1873)10月に社務所を全焼したため古文書類が無くなり、古いことはあまり分かっていません。


上の写真は境内社。



三木市岩壺神社秋祭り
10月の第2土曜日・日曜日に行われる例祭は、三木の秋祭りとして盛大に行われる。
是非今後この時期に訪問したいと考えています。





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兵庫津史跡と兵庫商人の店巡りツアー参加録 on 2014-5-24

2014年05月25日 06時58分05秒 | 神戸情報
2014年5月24日、よみがえる兵庫津連絡協議会主催で兵庫津史跡と兵庫商人の店巡りツアーが
実施され参加しました。30名程度の参加者だったそうです。

訪れた場所の写真と若干のコメントをつけ備忘録としておく。


上の写真は札場の辻に掲示の地図で当日廻ったコースを黒太線と矢印で示しました。
4Km弱のコースを約2時間半かけて巡りました。

(1)出発及びゴールとなった兵庫津歴史館 岡方倶楽部


兵庫商人が自ら地域の社交場として昭和2年(1927)に建造されたモダンな石づくりの建造物で、
空襲・震災にも生き残った奇跡の建物と言われています。
昭和8年建設の御影公会堂より6年古い。建設当時のものが残っている貴重な文化財です。
2013年に兵庫津歴史館 岡方倶楽部として神戸市が管理することになりました。
2013-4-20に開設式が行われました。

住所:神戸市兵庫区本町2丁目3番33号 小物屋会館

(2)神戸 樽五(樽谷五兵衛)
 兵庫津 樽谷五兵衛の公式HP
 社名は協和商事株式会社で兵庫津連絡協議会の会長も務められている高田 誠司氏が経営
 されています。現地でふるせの釘煮と冷茶の振舞いを受けました。
 

 住所:神戸市兵庫区本町2-1-23 TEL:078-652-1620
  

(3)兵庫津 南仲町の札場の辻
 札場とは幕府が設置した高札場(町人が守るべきことしてはならぬことその他
幕府からの布達を掲示する場所)があった場所で、兵庫津には南仲町以外に
湊口惣門(兵庫津の東の入口)、柳原惣門(兵庫津の西の入口)、来迎寺(築島寺)
に設置されていました。
明治元年に高札は廃止されましたが新政府に引き継がれ太政官の名前で
掲示されていたそうです。

  以前に書いた小生のブログ記事(兵庫津南仲町 札場の辻跡の碑)


上の写真は現地の説明板からで宝暦年間(1751-64)の兵庫津(毛利藩の「中国行程記」より)で
札場の辻付近の当時の様子が判ります。

(4)神明神社


上の写真は神明神社(中央から右手)と神明稲荷社(左手赤の鳥居奥)です。




上の写真は神明神社と神明稲荷社の説明板です。

(5)柳原蛭子神社

住所:神戸市兵庫区西柳原町5-20  TEL:078-651-0183
御祭神:蛭子(ひるこ)大神 、大物主(おおものぬし)大神

建立された年代は不明ですが、元禄5年(1691)、兵庫津の「寺社改帳」に
神社のことが記されており、元禄以前から祀られていたことが判ります。
十日えびす大祭は毎年1月9日~11日に実施されています。

兵庫七福神になっています。

兵庫七福神は下記のとおりです。
和田神社(弁財天)→薬仙寺(寿老人)→真光寺(福禄寿)→能福寺(毘沙門天)
→柳原天神社(布袋)→柳原蛭子神社(恵比寿)→福海寺(大黒天)


上の写真は柳原蛭子神社でのガイド風景です。


上の写真は柳原蛭子神社の玉垣で明治29年(1896)着工、明治32年(1899)完成の兵庫運河の開削
で功労のあった八尾善四郎の名前が見える。

(6)柳原惣門跡


上の写真は柳原蛭子(正式にはひること読む)神社の柳原惣門跡の石碑です。

石碑の横に神戸市と岡方協議会が平成15年(2003)に作成した説明板
があり、下記のように記載されています。
「西国街道は、近世になってからは、西から来れば、須磨・長田方面から現在の
JR兵庫駅の北を通り、西柳原町の柳原蛭子神社と福海寺にはさまれる位置
あたりで兵庫の町にはいる。
西国街道を通って兵庫の町に出入りする場所、即ち西の柳原口と
東の湊口には惣門が設けられていた。
柳原惣門が最初に設置された時期は、兵庫城の築城に伴う外郭の
土塁(外輪堤・都賀堤)の構築時である天正八年(一五八〇)頃に、
その関門の一つとして設置された可能性が高い。
城は、現在の中ノ島あたりに主郭を置き、周囲にこの外郭の土塁と堀を設け、
内側は郭内として兵庫津のまち全体を城下町とする縄張りとなっていた。
即ち、兵庫津の外郭は総曲線(総構)と考えられ、その曲輪の門として
惣門と称されたのではないかと推測される。
この門は、明治八年外輪堤(都賀堤)とあわせて撤去された可能性が高い。
 なお、平成十三年度に実施した柳原惣門調査会による調査と、
平成十四年度に実施した埋蔵文化財調査(兵庫津遺跡 第二十九次調査)の
発掘結果を参考として推定復元図を作成した。」
          平成十五年十二月吉日
                  神戸市
                  岡方協議会


(7)日章

 住所:神戸市兵庫区 西柳原町10-7

ビリケンさんが店の前に置いてあり数珠の修理なども行っているとのこと。
下の写真は店の前での説明。



(8)ちから

 住所:神戸市兵庫区西柳原町6-8


上の写真がちからの店の外観です。うどんと和菓子の販売をされています。
力餅の振舞いを受けました。

上の写真は昭和初期の柳原商店街、西宮内町商店街、大仏前商店街、清盛塚商店街の地図と
当時の力餅のお店を紹介したものです。

(9)エキストラ珈琲株式会社

エキストラ珈琲は関東大震災の起きた大正12年(1923)、珈琲・紅茶専門の卸問屋として創業。



(10)能福寺(兵庫大仏)
能福寺の住所:神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39 TEL:078-652-1715
初代の兵庫大仏は明治24年(1891)に建てられましたが、昭和19年(1944)金属回収令で
つぶされ
現在の大仏はもとの大仏がつくられてから100年目にあたる平成3年(1991)に
新しくつくりなおされたものです。三木市で製造され運搬されてきました。
体の大きさが11m、蓮の花の台座の高さが3m、さらに下の台が4mで総高18mである。
重量は約60tだそうです。
新しい大仏の下には重要文化財の木造十一面観音立像が安置されています。(非公開)




上の写真は正面からと裏面からの兵庫大仏。


上の写真は平清盛公墓所 八棟寺殿 平相國廟
  平清盛の墓に関するブログ

能福寺本殿 月輪影殿

北風正造氏の顕彰碑

瀧善三郎正信の顕彰碑

ジョセフ・ヒコの英文碑

最澄像 in 神戸市兵庫区能福寺

(11)大輪田泊の石椋


下記は説明板からの引用です。
「この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、
重量4トンの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。
当時は平清盛が築いた経ヶ島の遺材ではないかと考えられていました。
その後、この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、
平成15年確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から
平安時代の中頃の大溝と建物の一部が発見されました。このことより石材が
発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪田の泊
の石椋の石材であったと推定されます。
石椋とは、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと
考えられます。
その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、
松杭で補強し、堤を構築していたものと推定されます。
大輪田の泊は、平安時代のはじめに律令国家の菅理のもとに造営された泊(港)です。
当時、物資輸送や外交航路として重要視されていた瀬戸内海の航路と泊の整備が
進められていました。
当時の史料には泊の運営管理を行う官舎や石椋等の港湾設備が整備され、
中央政府から派遣された造大輪田船瀬(ぞうおおわだふなせ)(泊)使が泊の
造営や修築にあたり、修築後は国司(こくし)が運営管理を行っていた様子が
記されています。
また、承和3年(831)には、当時の中国や東アジアの最新の文化や情報を
取り入れるための遣唐使船が暴風雨を避けるために寄港していることから、
このころには大型外洋船の寄港地としても整備されていたことが窺えます。」


(12)築島寺(来迎寺)





住所:神戸市兵庫区島上町2-1-3  
宗派:浄土宗西山派 本尊:阿弥陀仏 山号:経島山

築島寺は二条天皇(平清盛の説もあり)が築島建設で功のあった松王丸の
菩提を永く弔うために建立され念仏道場とした

築島寺の昔の写真と図絵

(13)株式会社 石川と賀川豊彦 生誕地の碑





上の写真は株式会社 石川と賀川豊彦 生誕地の碑

(14)鹿瀬造船の浮きドッグ





浮きドッグは約50mあり、高田屋嘉兵衛の1,500石の北前船「辰悦丸」33mが充分入る大きさ
との説明がありました。


(15)竹尾稲荷神社



竹尾稲荷神社の住所:神戸市兵庫区七宮町1-3-18

竹尾稲荷神社の紹介ブログ記事(高田屋嘉兵衛顕彰碑と竹尾稲荷神社)

(16)高田屋嘉兵衛 本店の地の石碑 in 神戸市兵庫区西出町




紹介記事(http://seiyo39.exblog.jp/14974291/)

(17)十一の奈良漬



(18)七宮神社





紹介ブログ

  七宮神社

  NHK 新・兵庫史を歩く 第22回 KOBE発 清盛の平安へ 神戸市中央区、兵庫区を視聴して その2 (完)











 






















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加古川市 平荘湖訪問記 on 2014-5-19

2014年05月23日 05時31分54秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年5月19日、加古川市平荘町の平荘湖を訪問し写真を撮ってきましたので紹介します。





上の写真はJR加古川駅北側にある説明板でNo.2が平荘湖です。

説明板の文章は下記のとおりです。

「昭和41年に東播磨工業地帯の工業用水の安定供給を目的として建設されたダムによってできた
 人造湖です。
 湛水面積約1平方km、貯水量900万トンで、1日20万トンの配水能力をもっています。
 湖面にはひょうたん型の島が浮かび、周辺は自然景観の美しいところです。
 春は桜、みもざ、夏はあじさい、秋は紅葉と四季を通じて楽しめる自然がいっぱいです。
 そして冬は鴨などの渡り鳥が訪れ、その種類も豊富で、観察小屋もあります。
 外周道路は約5kmで、多くの人がジョギングやウォーキングを楽しんでいます。」






上の2枚の写真が平荘湖です。

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加古川市平荘町里の里観音堂の阿弥陀石棺仏 on 2014-5-19

2014年05月22日 17時25分08秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年5月19日、加古川市平荘町里の里観音堂の阿弥陀石棺仏の写真を撮ってきましたので紹介します。

平荘湖に行く途中に偶然見つけた里観音堂の阿弥陀石棺仏を中心に写真紹介します。

石棺仏と言えば中村和男氏が2012年9月に「播磨の石棺と石棺仏」という書籍を神戸新聞総合出版
センターから出されておりPage 35で里観音堂の阿弥陀石棺仏の紹介をされています。

上の写真が中村和男氏の「播磨の石棺と石棺仏」の表紙。
またブログでも紹介されています(下記サイト)
 http://blogs.yahoo.co.jp/teravist/31805305.html

前置きが長くなりましたが写真紹介に移ります。


上の写真が里観音堂の阿弥陀石棺仏です。
近くに加古川市教育委員会の説明書きがありましたのでそのまま引用させていただきます。

「蓮台の上に阿弥陀如来坐像を半肉彫りする 像高さ22cm 室町時代 15世紀頃」


上の写真は里観音堂の遠景です。
正面入り口の左右に家形石棺の蓋が内面の彫った部分を対面してあります。下の写真が右手の家形石棺蓋です。
右手の石棺蓋の寸法:高さ120cm、幅94cm、厚さ32cm
左手の石棺蓋の寸法:高さ128cm、幅88cm、厚さ29cm 
             昭和61年3月加古川市教育委員会説明書き














上の写真は里観音堂の境内。観音堂の建物は立派なものです。
里観音堂の北側には墓地もあります。

里観音堂の由緒については未調査。







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三木市志染町安福田の栄運寺訪問記 on 2014-5-19

2014年05月21日 06時49分57秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年5月19日、三木市志染町安福田の栄運寺を訪問したので写真紹介します。

栄運寺の裏山にもうひとつの竹中半兵衛の墓と供養塔(法名が異なる)があることで知られています。
平井山本陣近くの墓が本墓か?
他に禅幢寺(岐阜県不破郡垂井町)、浄土寺(滋賀県東近江市)にも墓所があるようです。

今回紹介の栄運寺の竹中半兵衛の墓は地元では「馬塚」と伝わる。詳細は後述。

栄運寺の基本情報

住所:三木市志染(しじみ)町安福田(あぶた)577
TEL:0794-87-3203
宗派:浄土宗 山号:屏風山 御本尊:木造阿弥陀三尊坐像
寺宝:善導、円光両大師像 
開山:不詳 
中興:第4世 単蓮社空譽智源和尚の代 元禄5年(1692)1月20日 堂宇建立
改格:第14世 昇蓮者厚進道和尚の代 天保7年(1836) 平僧寺→能分寺に昇格









上の写真は栄運寺の本堂。


上の写真は本堂の近くにある寺内社? 後方に栄運寺が見えます。
栄運寺の近くに地蔵堂もあるようですが今回確認できず。

竹中半兵衛の墓と供養宝篋印塔


上の写真は竹中半兵衛の墓への入り口の看板。墓地の脇から入って行きます。


上の写真は竹中半兵衛の墓(手前)と供養塔(宝篋印塔)です。


上の写真は竹中半兵衛の墓です。盛り土の上に基壇があり、その上に竹中と刻まれた石標があります。
この地は今井家の所有の山林で、今井家に残る古文書に「文化9年(1812)10月9日 今井家の仁左衛門兌和
が雨の降り続いた裏山の中腹に死人の墓が露出しているのを見つけ、当時栄運寺の住職であった群誉円碩和尚に
相談しその翌日(10月10日)立ち合いの上、この蓋を開くと完全な人骨が顕れたので11日に地頭に報告。
易の占いに大臣病気出養生病死則ち葬候。竹中半兵衛重治公と知り10月26日再び塚を築いて戒名を
浄源院殿霊誉道覺居士と刻み位牌を作り栄運寺に安置して以降供養を営む」と記されている。


以上は福本錦嶺氏著「三木市の史跡と神社仏閣」 平成新元号記念誌として1989年3月
三木市老人会連合会により出版 Page139より引用。







上の写真は文化9年(1812)に建てられた竹中半兵衛の供養塔(宝篋印塔)

戒名の浄源院殿霊誉道覺居士 竹中半兵衛の命日の天正7年6月13日(1579年7月6日)6月13日が
供養塔及び卒塔婆から判読できた。


栄運寺の位牌については当日、栄運寺の方が不在で写真は撮れなかったが福本錦嶺氏著の「別所氏と三木合戦」
平成8年刊 Page 82に写真が掲載されていましたので添付させていただきます。



竹中半兵衛を中心とした系図(上記文献より)も添付しておきます。


拡大図はこちら






上の写真は今井家の墓所(栄運寺の墓所及び今井家の山林内)



上の写真は栄運寺の墓所の石造 仏像


上の写真は栄運寺歴代住職の墓。











 





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弁慶の足跡 in 三木市跡部 on 2013-4-21&2014-10-30

2014年05月20日 18時08分19秒 | 神戸市以外の兵庫県
2013年4月21日、三木市跡部の弁慶の足跡の写真を撮ってきましたので紹介します。

三木市跡部(あとべ)の位置をGoogle地図で示します。
赤い点線の範囲が三木市跡部で美嚢川に近い旧道の畦道にあり一番東側に近いところです。

念のために三木市観光協会作成のハイキングコースの地図案内板も添付しておきます。


Goo地図はこちら



上の写真は弁慶の足跡の遠景です。


上の写真は三木市が作製した説明書きです。

跡部の石仏まではいいのですが、説明書きで地蔵尊が彫られていると書かれていますが正しくは石造仁王尊。

三木市のHPでは二つの石の表面には仏像が刻まれ野仏となっていますとの表現でぼかしています。

播州三木城地図という古絵図によるとこの場所は廃寺となった清宝山常蓮寺山門の跡と思われ
仁王像があるというのはごく自然に受け入れられる。



上の写真は弁慶の足跡の窪みのある左側の石です。

石仏のある側の写真を撮っていないので次回訪問時には裏側の仁王尊の石仏を撮ってアップしようと
思っています。

2014年10月30日に再訪問し裏からも写真を撮ってきました。


上の写真は裏からの遠景です。


左側の石造り仏像


右側の石造り仏像


上の写真は表側からの写真





福本錦嶺氏著。平成新元号記念誌として1989年3月発刊の「三木市の史跡と神社仏閣」
のPage167によれば石の大きさは厚さ30cm、長さ1m40cm、横1m80cmの石造仁王尊と
表現されており以前は完全な姿で存在していたものが現在のような姿になったものと思われます。

上記の古地図には完全な姿で描かれている。




現在の姿は下記サイトを参照しました。
   http://ameblo.jp/kaoruangels/entry-11155014630.html


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常厳寺と赤松円心の供養塔 on 2013-4-21

2014年05月19日 16時59分18秒 | 神戸市以外の兵庫県
2013年4月21日、三木市宿原にある常厳寺と赤松円心の供養塔の写真を撮ってきましたので
写真紹介します。

赤松円心(1279-1350)は赤松家の4代目の当主として千種川の佐用荘の赤松村の領主から播磨、
摂津、備前、美作の守護を務め、中央では三管領(細川、畠山、斯波)に次ぐ四職(赤松、京極
山名、一色)にまで成長させた立役者である。
足利、新田、楠木らと後醍醐天皇につき元弘3年(1333)鎌倉幕府の六波羅を攻略。翌年の
建武元年6月軍功により播磨守護職についた(赤松円心56歳)。ところが建武新制で播磨守護
を解任され(新田義貞が播磨守護職となる)ことを不満に思い南北朝時代では足利尊氏側につき
室町幕府の成立の原動力となり播磨守護職も復権した。
その後、約250年間、赤松家は存続するが関ヶ原の戦いで宇喜多秀家に従い西軍に加わった
ため所領を没収され滅びた。


赤松家の当主
家範 - 久範 - 茂則 - 則村(円心) - 範資 - 則祐 - 義則 - 満祐 - 政則 - 義村 - 晴政 -
義祐 - 則房 - 則英(断絶)

常厳寺の基本情報

住所:三木市宿原1038  TEL:0794-82-1829
宗派:曹洞宗 山号:君峯山
開山:後醍醐天皇(在位1318-1338)の時代に赤松則村(のちの円心)が君峯城
  (別名:霧ヶ峰城、宿原城)の鬼門にあたる場所の常厳寺を創建
中興:永正元年(1504)三木城主加賀守就治が堂宇を再建、久堂栄昌禅師を招いた
   享保4年(1719)5世桃谷大春和尚が本堂及び庫裡を造営 
   
御本尊:聖観世音菩薩


Google地図による常厳寺


上の写真は常厳寺の山門の遠景。


上の写真は本堂。



上の写真は鐘楼と梵鐘の説明書きです。


上の写真は入り口付近の温故知新の石碑の裏に書かれた説明書きで赤松円心の供養塔について
記載されています。







上の3枚の写真が赤松円心の供養塔です。

赤松円心は観応元年(1350)1月17日72歳で没し京都の建仁寺で葬儀を終え故郷の苔縄の法雲寺に墓と廟所
が建てられた。常厳寺の供養塔は没後、赤松と関係が深い別所一族により供養塔と宝雲院殿月潭円心大居士の
位牌が作られたと伝えられています。


上の写真は五輪塔の横の説明書きです。
昭和43年(1968)4月8日 常厳寺 第17世 大賢忍道 禅師により記載されたものです。

君峯山常厳寺の開基が五位判官赤松次郎入道丸則村であること法名が宝雲院殿月潭円心大居士。
観応元年(1350)1月17日、京都の自宅で73歳で没したこと。
鎌倉幕府を滅亡させた元弘合戦の忠節によって播磨、摂津、備前、美作、但馬、因幡の6か国
の守護職となったことなどが書かれています。




上の写真は兵庫県上郡町 宝林寺蔵の赤松円心座像です。
出典:平成24年(2012)10月13日~12月2日に開催の兵庫県立歴史博物館 
   開館プレ30周年記念 特別展「赤松円心・則裕」の資料集 Page17


Wikipediaより赤松則村(円心)の晩年と人物像について引用紹介します。

晩年

尊氏及び執事の高師直と弟の足利直義が対立した観応の擾乱(じょうらん)においては尊氏に従い、尊氏の庶子で直義の養子である、直義方の直冬を追討するために軍を編成している最中、正平5年/観応元年(1350年)1月11日、京都七条にある邸宅で急死した。享年74。家督と播磨守護は範資が相続したが、翌正平6年/観応2年(1351年)に範資も急死したため、摂津守護は孫の光範に、家督と播磨守護は則祐(そくゆう)に受け継がれた[5]。

法名は法雲寺月潭円心。墓所は京都市東区の東山建仁寺の塔頭寺院久昌院。供養塔が兵庫県赤穂郡上郡町の金華山法雲寺(法雲昌国禅寺)にある。また、木像が兵庫県赤穂郡上郡町の宝林寺にある。


人物像

禅宗に帰依しており、雪村友梅や宗峰妙超を招いて法雲寺や福田寺の堂宇を建立した。
出家した円光という弟がおり、円光の元に楠木正成の姉が嫁いでいた関係で、正成から見れば円心は義理の兄弟に当たる。
戦前に足利尊氏が後醍醐天皇に反逆した逆臣とされていた関係から、尊氏の覇業に大いに貢献した円心も逆賊の頭目の1人と見なされていた[6]。
円心則村は無双の勇士で、小事にこだわらない度量の大きさがあり、人に遅れをとりたくない性格なので衰微した赤松家を興して名を顕わしたいと思っていた。護良親王の令旨は正にこの願いにうってつけで、円心は大いに喜んだという(太平記)[7]。
鎌倉幕府に対して挙兵したとき、円心の上洛を遮ろうとする敵と戦って20余人ほどを生け捕った。しかし円心は彼らを殺さず情ある扱いをしたので、彼らは進んで円心に味方したという(太平記)[7]。
尊氏が新田義貞らに敗れた際、九州に落ち延びて再起を果たすように進言した。尊氏を追撃するため義貞が6万騎という大軍を率いて来襲してきたとき、円心は白旗城に2000の兵と立て籠もった。このとき円心は一計を案じ、使者を義貞の下に派遣した。使者が義貞に言うには「我が殿は今は足利に靡いていますがそれは心からの事ではなく、鎌倉討滅に忠功を立てながら播磨守護職を追われたために過ぎません。もし、帝(後醍醐天皇)が播磨守護職輔任の綸旨を賜れるのなら、円心は帝に忠誠を誓うでありましょう」と述べた。義貞はこれを信じて使者を京都に送り、往復10余日を経て使者が綸旨を持って戻ってきた。すると円心は「そんなものはいりません。手のひらを返すような綸旨は受けられませんので、当家の守護・国司職は将軍(尊氏)から頂きます」と述べて使者を追い返した。怒った義貞は白旗城に総攻撃をかけたが、円心は10余日ほどで籠城準備をすっかり整えており、義貞軍はここで50余日も費やして尊氏に再起の貴重な時間を与える結果となった(太平記)[7][8]。











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