「神兵豪商 湊の魁」という明治15年(1882)発行の商店紹介絵図の33-34Page
に本日紹介します諏訪山温泉 常盤楼が載っていますので簡単に紹介します。
上の写真は「神兵豪商 湊の魁」で常盤楼が載っているページです。
右と左に別れています。小さくて読みづらいと思いますので右・左を別に添付
します。
上の写真は左側で諏訪山温泉の湯元やその西側の常盤楼が描かれています。
上の写真は右側(東側)半分で常盤東店や常盤中店が描かれています。
人がたくさん描かれており諏訪山温泉の賑わいが伝わってきます。
上の写真は常盤楼他諏訪山温泉に出店している店のリストです。
上の写真は兵庫津の会席料理を営んでいた常盤花壇です。
出典:垣貫与祐著 神兵豪商 湊の魁 Page39
また常盤楼及び常盤花壇を経営していた前田又吉についても同様に紹介します
EOひかり制作の歴史ろまん紀行2014年2月7日(金)~2月20日(木)で
前田 又吉 ~侠気の常盤楼主~が放送されました。
解説は芦屋大学大学院 楠本 利夫 客員教授
放送内容はWebでも視聴できます(下記サイト)
http://eonet.jp/eohikari-ch/rekishiroman/
前田又吉が神戸の発展に寄与した業績は数多く神戸の歴史で忘れては
ならない人物である。
まず前田又吉について彼が興した京都ホテルのグループ(現在の京都ホテルオークラ
をはじめとする京都ホテルグループのHPに詳しく解説されています。
以下そのまま引用(一部加筆)させていただきます。
http://www.kyotohotel.co.jp/100th/1st_zenshi/no17.html
前田又吉(1830~93)
前田又吉は、明治26年(1893)1月12日、ついに帰らぬ人となりました。
戒名は「大功院仁徳信常居士」、64歳でした。
大阪天王寺区の源聖寺に葬られています。
前田又吉没後まもなく、友人などにより諏訪山温泉の敷地に銅像と顕彰碑
が設置されました。銅像は戦争で供出され消滅さらに顕彰碑は京都ホテル
オークラ創業100年の1988年に京都に移されたそうです。
前田又吉の履歴については、詳しい記録が残されていません。わずかに、
「神戸開港三十年史」(明治31年刊)と「神戸市史」(大正10年刊)、
それに戦後のことになりますが、神戸新聞に連載された「海鳴りやまず
近代史の主役たち」(昭和52年刊)などにその名が見える程度で、
あとは断片的な資料が一、二散見されるだけです。
大阪の裕福な家に生まれて、若い頃は遊興に身を持ち崩したといいます。
貧乏して兵庫の佐比江にあった米市場のあたりで、露店の煮売り屋を始めましたが、
やがて小料理屋を開くようになりました。
小料理屋はその味が評判となり明治初年、花隈で料亭「常盤花壇」に発展
していきます。花隈には旧三田藩主・九鬼隆義の別邸があり、お殿様が前田を
ヒイキにしたということです。北風正造・神田兵右衛門・藤田積中といった
地元名士と交わりが始まりました。明治6年(1873)、諏訪山に鉱泉が出るのに
目をつけ、土地を借りて「常盤花壇」をここに移し「常盤楼」と名付けました。
温泉料亭です。資金は九鬼が出したといいます。同15年ごろには「常盤花壇」
は東・中・西の三店に増え、いずれも身内の者に営業させたようです。
自分は宇治川にも「常盤」をつくり経営にあたりました。
以下略
京都ホテルオークラに下記の又吉泉記という記念碑が残されています。
上記の京都ホテルグループのサイト
(http://www.kyotohotel.co.jp/100th/1st_zenshi/no17.html)
より再度引用させていただきます。
『又吉泉記』
神戸の諏訪山に霊泉が涌いた。英国人某が、これを鉱泉として利用することを
すすめたが、誰も信用しなかった。ただひとり前田又吉が、資産を注ぎ込み、
荒れ地を拓いて酒楼を建て庭をつくって温泉料亭をひらいた。
おかげで、人も住まなかった地が、数年のうちに、繁華な地になった。
これみな、前田又吉の功績である。この泉を又吉泉と名付けることとした。
一六居士巌谷修撰書 明治15年10月
諏訪山にある山手大学が須磨山温泉についてまとめており下記のPDFファイル
の10ページ目に諏訪山温泉「常盤楼」の絵を掲載しています。
出典:豪商神兵ー湊の魁
http://www.kobe-yamate.ac.jp/library/suwayama/pdf/suwayama23.pdf
諏訪山温泉について
明治30年(1897)四月発行の「神戸名勝案内記」に記載があります。
「諏訪山温泉
山元通り四丁目字諏訪山にあり浴場の構造は凡そ布曳(ぬのびき)に同じく
亦相似たり主治効能は痛風、僂麻質斯、胃病、瘰癧等に効験多し、場内二基の
碑あり一基には一六居士巖谷翁の文を刻し一基の文は長與衛生局長の撰む
ところなり居士の記中英人何某の語を載せて曰く…
…
茶舗割烹店軒を並べ酒を呼び飯を喫する等咄嗟にして辨ぜずということなく
わけて割烹店は旅舎を兼ぬるみより浴遊の為め宿泊するも欲るままに求に應るを
常とせり其最も名あるものを常盤といひ東中西の三店に分れ其他一力、
吉田、伊村、常盤舎支店等数軒あり各樓れのれの長ずる所あるべし客も
亦好む好まざるあり其よしあしは論うべくもあらず…
…
明治五・六年の頃故關戸慶治氏購ひ得て更に前田又吉氏に貸し前田氏の盡力
によりて開き成せしところなり故に巖谷翁温泉の記中には又吉泉と稱し …」
上述のEOひかりの番組では
諏訪山温泉の開発を始めたのは明治3年(1870)
常盤楼が開業したのは明治5年(1872)と説明されていました。
同じく上記番組より前田又吉が明治21年(1888)に創業した京都ホテル
の写真を添付しておきます。(明治23年(1890)4月完成)
明治24年(1891)5月10日ロシアのニコライ皇太子は京都ホテルの
和室に宿泊されました。下の写真京都ホテルの和室があった建物(右手)
上の写真は京都ホテルに到着のニコライ皇太子及び宿泊された和室(現存)
5月11日に大津事件(ニコライ皇太子に警官が切りつけた事件)が起きています
に本日紹介します諏訪山温泉 常盤楼が載っていますので簡単に紹介します。
上の写真は「神兵豪商 湊の魁」で常盤楼が載っているページです。
右と左に別れています。小さくて読みづらいと思いますので右・左を別に添付
します。
上の写真は左側で諏訪山温泉の湯元やその西側の常盤楼が描かれています。
上の写真は右側(東側)半分で常盤東店や常盤中店が描かれています。
人がたくさん描かれており諏訪山温泉の賑わいが伝わってきます。
上の写真は常盤楼他諏訪山温泉に出店している店のリストです。
上の写真は兵庫津の会席料理を営んでいた常盤花壇です。
出典:垣貫与祐著 神兵豪商 湊の魁 Page39
また常盤楼及び常盤花壇を経営していた前田又吉についても同様に紹介します
EOひかり制作の歴史ろまん紀行2014年2月7日(金)~2月20日(木)で
前田 又吉 ~侠気の常盤楼主~が放送されました。
解説は芦屋大学大学院 楠本 利夫 客員教授
放送内容はWebでも視聴できます(下記サイト)
http://eonet.jp/eohikari-ch/rekishiroman/
前田又吉が神戸の発展に寄与した業績は数多く神戸の歴史で忘れては
ならない人物である。
まず前田又吉について彼が興した京都ホテルのグループ(現在の京都ホテルオークラ
をはじめとする京都ホテルグループのHPに詳しく解説されています。
以下そのまま引用(一部加筆)させていただきます。
http://www.kyotohotel.co.jp/100th/1st_zenshi/no17.html
前田又吉(1830~93)
前田又吉は、明治26年(1893)1月12日、ついに帰らぬ人となりました。
戒名は「大功院仁徳信常居士」、64歳でした。
大阪天王寺区の源聖寺に葬られています。
前田又吉没後まもなく、友人などにより諏訪山温泉の敷地に銅像と顕彰碑
が設置されました。銅像は戦争で供出され消滅さらに顕彰碑は京都ホテル
オークラ創業100年の1988年に京都に移されたそうです。
前田又吉の履歴については、詳しい記録が残されていません。わずかに、
「神戸開港三十年史」(明治31年刊)と「神戸市史」(大正10年刊)、
それに戦後のことになりますが、神戸新聞に連載された「海鳴りやまず
近代史の主役たち」(昭和52年刊)などにその名が見える程度で、
あとは断片的な資料が一、二散見されるだけです。
大阪の裕福な家に生まれて、若い頃は遊興に身を持ち崩したといいます。
貧乏して兵庫の佐比江にあった米市場のあたりで、露店の煮売り屋を始めましたが、
やがて小料理屋を開くようになりました。
小料理屋はその味が評判となり明治初年、花隈で料亭「常盤花壇」に発展
していきます。花隈には旧三田藩主・九鬼隆義の別邸があり、お殿様が前田を
ヒイキにしたということです。北風正造・神田兵右衛門・藤田積中といった
地元名士と交わりが始まりました。明治6年(1873)、諏訪山に鉱泉が出るのに
目をつけ、土地を借りて「常盤花壇」をここに移し「常盤楼」と名付けました。
温泉料亭です。資金は九鬼が出したといいます。同15年ごろには「常盤花壇」
は東・中・西の三店に増え、いずれも身内の者に営業させたようです。
自分は宇治川にも「常盤」をつくり経営にあたりました。
以下略
京都ホテルオークラに下記の又吉泉記という記念碑が残されています。
上記の京都ホテルグループのサイト
(http://www.kyotohotel.co.jp/100th/1st_zenshi/no17.html)
より再度引用させていただきます。
『又吉泉記』
神戸の諏訪山に霊泉が涌いた。英国人某が、これを鉱泉として利用することを
すすめたが、誰も信用しなかった。ただひとり前田又吉が、資産を注ぎ込み、
荒れ地を拓いて酒楼を建て庭をつくって温泉料亭をひらいた。
おかげで、人も住まなかった地が、数年のうちに、繁華な地になった。
これみな、前田又吉の功績である。この泉を又吉泉と名付けることとした。
一六居士巌谷修撰書 明治15年10月
諏訪山にある山手大学が須磨山温泉についてまとめており下記のPDFファイル
の10ページ目に諏訪山温泉「常盤楼」の絵を掲載しています。
出典:豪商神兵ー湊の魁
http://www.kobe-yamate.ac.jp/library/suwayama/pdf/suwayama23.pdf
諏訪山温泉について
明治30年(1897)四月発行の「神戸名勝案内記」に記載があります。
「諏訪山温泉
山元通り四丁目字諏訪山にあり浴場の構造は凡そ布曳(ぬのびき)に同じく
亦相似たり主治効能は痛風、僂麻質斯、胃病、瘰癧等に効験多し、場内二基の
碑あり一基には一六居士巖谷翁の文を刻し一基の文は長與衛生局長の撰む
ところなり居士の記中英人何某の語を載せて曰く…
…
茶舗割烹店軒を並べ酒を呼び飯を喫する等咄嗟にして辨ぜずということなく
わけて割烹店は旅舎を兼ぬるみより浴遊の為め宿泊するも欲るままに求に應るを
常とせり其最も名あるものを常盤といひ東中西の三店に分れ其他一力、
吉田、伊村、常盤舎支店等数軒あり各樓れのれの長ずる所あるべし客も
亦好む好まざるあり其よしあしは論うべくもあらず…
…
明治五・六年の頃故關戸慶治氏購ひ得て更に前田又吉氏に貸し前田氏の盡力
によりて開き成せしところなり故に巖谷翁温泉の記中には又吉泉と稱し …」
上述のEOひかりの番組では
諏訪山温泉の開発を始めたのは明治3年(1870)
常盤楼が開業したのは明治5年(1872)と説明されていました。
同じく上記番組より前田又吉が明治21年(1888)に創業した京都ホテル
の写真を添付しておきます。(明治23年(1890)4月完成)
明治24年(1891)5月10日ロシアのニコライ皇太子は京都ホテルの
和室に宿泊されました。下の写真京都ホテルの和室があった建物(右手)
上の写真は京都ホテルに到着のニコライ皇太子及び宿泊された和室(現存)
5月11日に大津事件(ニコライ皇太子に警官が切りつけた事件)が起きています