現在、兵庫県立図書館よりKIITOが制作発行している神戸スタディーズ(2014)を借りて
読んでいます。この中から松田法子著の論説「地質から見る神戸」#2のPage36 図5に
表題に関する地図が示されています。この図をベースに江戸時代後期から明治時代初期の
神戸村・二ツ茶屋村・走水村の人口や生活ぶりを探って見たいと思います。
上の写真は上述の図5「近世3ケ村の位置比定図」(2013)
明治元年(1868)11月、神戸村・二ツ茶屋村・走水村の3村が合併して神戸町となり港町「神戸」
の中核として発展していくことになります。
江戸時代後期の人口
神戸村:開港当時(1868)で約3,600人
宝暦10年(1760)の人口は1,985人
二ツ茶屋村:二ツ茶屋の名前の由来は永禄年間(1558~1570)に中宮村から高木新左衛門と
三城四郎兵衛が移住して茶屋を始めたことによる。
家が610軒 人口は2,036人 時期は嘉永6年(1853)
元禄14年(1701)の家が309軒、人口は1,873人であった。
走水(はしうど)村: 家が199軒 人口は716人 時期は寛政7年(1795)~享和3年(1803)
元禄3年(1690)の家が27軒、人口151人であったので驚異的な人口増
があったことが判る。
居留地は神戸村に決まる
神戸村は、清少納言が「森は生田」と讃えた生田神社の封戸(神社に属し労務を行う家)である
神戸(かむべ)が住む小さな集落であった。時は平安時代初めの大同元年(806)頃です。
朝廷より生田神社に封戸として44戸が与えられました。1戸に30人とすると1,320人の人々が
この頃から住んでいたことになります。寒村ではあったが、西国街道が通り、小さいながら網屋吉兵衛
が1855年に建設した船蓼場(船入り場)があり1年足らずではあるが海軍操練所が開設されていた。
さらに人家と離れて居留地を造成するに足る十分な敷地があった(兵庫津では十分な土地が確保は無理)
そうしたことなどから、居留地を神戸村に設けることが決まった。
上述した事項に関連した地図を添付しておきます。出典:1)の口絵
上の地図より神戸村の人家と生田川の間には人家もなく十分な土地が有ることが判ります。
関連ブログ:
神戸海軍操練所開設150年 記念式典 on 2014-8-30
網屋吉兵衛の顕彰碑 on 2010-9-29
海軍操練所顕彰碑
開港して間もない神戸港(兵庫) By イラストレイテッド ロンドン ニュース
天和・貞享(1681-1688)期の船数
松田法子氏は論説「地質から見る神戸」#2のPage37で天和・貞享期(1681-1688)の船舶数を
下記の様に整理されています。
廻船:兵庫津23、神戸村37、二ツ茶屋村114
上荷船*:兵庫津297 *小型の輸送船
渡海船:兵庫津38、神戸村17、二ツ茶屋村28
漁船:兵庫津476
総船数では兵庫津が圧倒的に多いが漁船や小型の輸送船である上荷船が大半を占めている。
大型船である廻船では二ツ茶屋村が多く酒田港への寄港記録にも多く出ている。
参照資料
1)大国正美著 古地図で見る神戸 -昔の風景と地名散歩-(2013)
2)松田法子著 論説「地質から見る神戸」#2のPage36-37(2014)