2021年5月19日の朝のNHKテレビの番組で表題の報道があった。
憶えのためにブログとしました。
上の写真は今回見つかった「大日本沿海輿地(よち)全図」のうち、列島を3枚に
収めた「小図」の副本(控え)についてチェックされている日本地図学会の専門部会
地図史料・地図アーカイブ部会の鈴木純子主査と星埜由尚・学会前会長。
今回発見された伊能図は福岡県内の個人が昨年、北九州市のゼンリンミュージアムに
寄贈されたもので戦後約10年の間に入手したらしいが詳細は不明という。
伊能図は縮尺が違う大中小3種あり、小図は縮尺43万2千分の1で全体を3枚に収めて
います。副本は測量隊の控えなどとして、正本と並行して作製された。
今回の副本は北海道、東日本、西日本を横約1.6m、縦1.5~2.5mの用紙に描き
「実測輿地図」と題されていた。
学会によると、幕府に提出した伊能図の正本は明治期に全て焼失。小図の副本、
全3枚の現存が確認されたのは、2002年の東京国立博物館所蔵図(国重要文化財)
以来2例目という。保存状態も良好で色彩が美麗に残る重文級の発見。
研究進展も期待される。
星埜前会長は「色彩や字体、記載内容から東博の小図と兄弟関係とみられる」と話す。
上の写真は調査を担当した鈴木純子主査のお話と調査中の鈴木主査と星埜由尚前会長。
伊能忠敬(1745-1818)は日本で初めて日本全図の地図を完成させた偉人です。
完成は文政4年(1821)で伊能忠敬が江戸八丁堀の自宅で死去した文政元年
(1818)4月13日(新暦換算1818年5月17日)から3年後に、門弟らが正確な地図
「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成させた。
孫の伊能忠誨(ただのり)が幕府に献上しています。
伊能忠敬先生は延亨2年(1745)九十九里町の生まれ。隠居後に高橋至時先生から
歴学を学び17年かけて日本全国を測量した。お墓は浅草源空寺に在り、師の高橋至時先生
と共に眠られています。
今年は伊能図完成から200年に当たり、ゼンリンミュージアムは、当時の細やかな
手仕事を鑑賞できるよう高精細なレプリカを作製、6月5日からの開館1周年企画展に
合わせて特別展示する予定。
伊能小図について共同通信が纏めた解説をそのまま記載します。
〈伊能小図〉 伊能忠敬の死後3年の1821年に測量隊が完成させ幕府に提出した
「大日本沿海輿地全図」3種のうち、縮尺が最も小さい日本地図。全214枚の大図、
8枚の中図に対し、3枚の小図は全国を俯瞰(ふかん)しやすい。幕末に幕府が提供した
写本(複製、英国立公文書館所蔵)を見た英海軍は正確さに驚き、海図を修正した。(共同)
伊能図に関する話題
その1 シーボルト事件
文政11年(1828)8月10日(新暦換算1828年9月18日)、長崎・出島にあるオランダ
商館のドイツ人医師シーボルトが出国する際、所持品から伊能忠敬らが作製した
日本地図など禁制品が多数見つかり、幕府はシーボルトを取り調べ国外追放処分とした。
その2 伊能忠敬・五国の足跡フォーラム
伊能忠敬・五国の足跡フォーラムが2018年9月23日に丹波篠山の丹南健康福祉で
開催されました。
伊能忠敬は文化2年(1805)から文化11年(1814)兵庫県に足を踏み入れています。
詳細は神戸新聞2018年9月12日と9月24日の丹波欄で紹介されています。
その3 伊能忠敬没後200年で脚光
2018年10月11日、神戸新聞夕刊で紹介
その4 伊野忠敬の天体観測検証 by 大西道一さん
2019年4月19日 東播欄
その5 伊能忠敬の足跡を研究 高塚洋さん
2019年12月2日、神戸新聞 東播欄