新型コロナウイルス感染症の影響で「ステイ ホーム」を遵守して家に居る時間が
多いこの頃である。
家で下に添付の大国正美さんの著書「古地図で楽しむ神戸」を読んでいる時に
Page140-141に須磨寺遊園地の絵図が紹介されていたのでこれを機に須磨寺遊園地を
テーマにブログ記事を書く事にしました。
須磨寺遊園地は大正2年(1913)から兵庫電気軌道(現在の山陽電鉄)が造成に
着手した。兵庫電気軌道株式会社は明治40年(1907)7月2日に設立された。
初代社長は川西清兵衛。支援者としては藤田松太郎、滝川辨三、村野山人、
神田兵右衛門らがおり兵庫-明石間の開通を計画したが沿線に皇室御料地や舞子の
風致保存など解決に時間を要する諸問題があり、まず明治43年(1910)に
兵庫-須磨間を開通することにした。沿線開発に力を入れていた兵庫電気軌道は
電鉄開業前から土地を借り受けて須磨寺遊園地整備の準備を進めており、3年後
の大正2年から遊園地整備に着手した。大正から昭和30年代にかけて、遊園地は
多くの花見客や動物園、花人形、博覧会、子供の遊び場として集客し賑わった。
上の写真は昭和7年(1932)の須磨の1万分の1の地図に須磨寺遊園地の位置を
色付けしました。
地図上に岡崎邸、小曽根邸、川西邸、九鬼邸、久原邸、藤田邸、山下邸などの
豪邸や別荘が地図上に明示されています。
池に名称が明示されていませんが堂谷池とか大蛇池(大池)と呼ばれています。
後に詳述しますが明治中期、池の周りには神田兵右衛門の音頭で「作楽帳」という
風流な寄付帳を作り友人らに寄付を募った資金で桜の植樹が行われ神戸市内でも
屈指の桜の名所となっています。
上の写真は大正13年(1924)大阪高槻の清水吉康が作成し須磨寺が発行した
「須磨寺境内全図」の中に描かれた須磨寺遊園地です。東浦町郷土資料館蔵
池の東側には動物園を設け、クジャク、鷹、カンガルー、ワニ、ヒョウ、クマ、
猿、象などが飼われていました。池の北側には花人形館があり春には霧島人形館
菖蒲人形館、秋には菊人形館が大正11年(1922)より開かれていました。
北側の奥に舞堂も設置されていました。
さらに料亭や茶店、子供電車遊具完備の運動場、池ではボートに乗り釣りもできた。
後にはプールも設置された。
大正6年(1917)須磨寺遊園地の豹が逃げ出して、神戸全市が戒厳令状態という
騒ぎが起こり、遊園地を経営する兵庫電気軌道がヒョウの捕獲に500円の賞金を出した。
10日余り後、神戸の北、藍那の山中でヒョウを銃殺して一件落着した。
後年(関東大震災後)、須磨を訪れた山本周五郎が「豹」という短編を書いています。
神戸市立中央図書館編「KOBEの本棚 第30号」2009.3に須磨寺遊園地について詳述
されています。
上の写真は大正10年(1921)頃の須磨寺遊園地 (神戸市文書館蔵)
上の3枚の写真は大正~昭和の須磨寺遊園地
出典:神戸市サイト(https://www.city.kobe.lg.jp/documents/32459/kinensi_3.pdf )
上の写真は須磨寺の源平の庭の前、若木の櫻があるところに建つ「植櫻記碑」
須磨寺の復興に功績のあった神田兵右衛門(神田松雪)が桜を植樹して須磨寺を
復興させた事績について記載されています。 撮影:2012-5-8
神田松雪は兵庫津の旧家神田兵右衛門のことである
植櫻記碑の中に句が読まれています。一番左手の方に神田松雪の俳句があります。
「花千母登(ちもと) 昔稚木乃 さくら哉」と書かれています。
碑は明治24年(1891)4月に建立されたものです。
この頃、須磨寺は荒廃しており、須磨寺の境内に桜の木を植えて花の錦を
織ろうと当時住職であった長原密浄とともに「作楽帳」と言う寄付帳を作り知人に
寄付をたのみ千本の桜を植樹することに成功した。
現在の須磨寺を神戸でも有名な桜の名所とした功労者である。
神田兵右衛門は町兵隊の編成、明親館の建設、兵庫運河の築造、水道の布設などで
功績のあった人物で神戸市の初代の市会議長も務められた。
天保13年(1842)2月18日、播州印南郡大塩村で生まれました。
明治の末期(1910年頃)まではご存命であったようです。
和田神社に顕彰碑が建っています。
詳細は小生のBlogを参照してください
最後に川西英さんの木版画で須磨寺遊園地の「夜桜」の作品を添付して筆を置きます