8月14日 NHKテレビ6時台のニュースで表題の信長の文書が見つかったとの
報道がありました。
ニュース報道の要旨をまとめてみました。
写真は全て上記番組からの引用です。
天下統一を目指し勢力を拡大していた織田信長が京都に入って(1568年)まもない
時期(1570年)に、敵対する武将に降伏を促す文書が見つかりました。
1570年と言えば、織田信長と徳川家康が姉川で浅井・朝倉氏を破った姉川の戦い
本願寺と織田信長の戦い、石山合戦の始まった年で天下統一に向けて戦いに明け暮れる頃です。
この文書は、東京・町田市にある
泰巖歴史美術館が購入し、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授が調査にあたりました。
上の写真は泰巖歴史美術館が購入した文書
調査した東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授は高圧的な態度で降伏を迫る信長の
政治行動がわかる貴重な資料だとしています。
東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授の調査により武力で天下を治めるという意味の
「天下布武」という朱印などから1570年に書かれた文書で織田信長が名門・細川家の
細川昭元(1548ー1592)に宛てたものと結論づけました。
当時、信長は天下統一を目指して勢力を拡大するなかで将軍、足利義昭とともに上洛して
まもない時期で今の大阪・摂津で細川昭元が立てこもる城に攻め込んでいました。
文書では、細川昭元に対して降伏するよう促し、その場合は播磨などの領地を与えることや、
四国については影響力を持っていた昭元を特別に扱うとしています。
細川昭元がこうした条件をのんだかはわかっていませんが、文書の翌年には、信長に降伏した記録が残っています。
村井准教授は、信長の当時の政治行動が具体的に分かる資料は珍しく、貴重だとして、
「信長に勢いがある時期で、敵対する勢力に対し高圧的に降伏の条件を示す様子がうかがえる。
実際に文書を出して敵を降伏させようと具体的な行動をおこしていたことが初めて分かった」
と話していました。
細川昭元(1548ー1592)についてはWikipediaのサイトにリンクしておきます。
上記、Wikipediaより1570年前後の細川昭元の動静について引用紹介します。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を擁して上洛すると三人衆の筆頭である三好長逸と共に摂津芥川山城に籠城するも、三人衆派の他の城が織田軍に次々と落とされると9月30日に城を捨てて長逸と共に阿波へ逃亡、義栄の急死もあり義昭が15代征夷大将軍に任じられると敵対行動を続けた。
元亀元年(1570年)、野田城・福島城の戦いにおいて三人衆に加勢して当初は織田軍と対峙した。
同年に三人衆と信長が和睦すると、翌元亀2年(1571年)12月17日に上洛、やがて義昭に対し臣下の礼をとり、京兆家歴代の慣例として義昭より一字拝領を受けて昭元(あきもと)と名乗った。
義昭より重用され、三好勢力が後退した後の名目上の摂津の旗頭とされた。名門の出身であった昭元はしばしば外交官としての役割を果たしている。四職家の当主でもある丹後の一色義道が義昭に臣従し、誼を求めて信長との面会を求めたとき昭元はこれに立ち会い、ともに堺を見物した。
信長の勢力下では、元亀3年(1572年)に摂津で本願寺坊官の下間頼龍・下間頼純と交戦して敗北したり、翌元亀4年(天正元年、1573年)2月17日に反信長派の三好義継・松永久秀らに居城の摂津堀城を落とされるなど武功には恵まれなかったが、足利将軍家に次ぐ武門の名門であったため、信長の傀儡として後年さらに最大限に利用されることとなる。
7月に義昭が追放された時昭元は京都に留まり、義昭が去った後の槇島城(京都府宇治市)を任された。槇島城は山城の守護所だったので、信長は昭元を山城守護に任じることにより山城における将軍権力を否定したともいわれている。管領家当主である昭元の存在は、義昭が去った後の織田政権にとり、重要な存在となった。同族の細川藤賢も近江坂本城を任されている。
天正3年(1575年)には信長の推挙により、正式に右京大夫に任じられる。このことにより京兆家当主として朝廷からも認められた。
天正5年(1577年)には信長の妹お犬を娶り、信長からの偏諱を受けて細川信元(ほそかわのぶもと)、さらに信良(のぶよし)と名を改めた。お犬の方にとっては2度目の結婚であり、信良よりも年長であった。以後、織田家の親族として織田政権内で厚遇されることとなるが、反対に信長は「京兆家当主の義兄」として立場を手に入れることとなる。信良はさらに丹波の桑田郡・船井郡の支配を許され、名目上丹波の旗頭の地位を委ねられた。しかし丹波支配の実権は、しだいに信長の家臣明智光秀に移っていった。