CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

中国料理 小燕京でのランチ on 2014-11-28

2014年11月30日 06時27分57秒 | 神戸情報
2014年11月28日、兵庫県立美術館のエッチング教室の帰りに注文していたメジウム
を受け取るため画材屋のルナに行った。

ルナの近くにある中国料理「小燕京(しょうえんきん)」でランチをいただきましたので
写真紹介します。

小燕京(しょうえんきん)の基本情報
住所:神戸市中央区八幡通4-1-10 サウスビル2F TEL:078-251-4177
料理ジャンル:中華料理
定休日:日曜、祝日
営業時間: 11:30~14:00 17:30~21:00

公式サイト:https://www.facebook.com/shoenkin
  翌日のメニュー表を確認できます

Goo地図はこちら
 

当日のメニューは定食のみで880円(税込)です。
内容は下記のとおりです。

金曜日のランチメニュー野菜と肉の味噌炒め
特製中華風つくね
もやしとザー菜のさっぱり和え
トマト卵スープ
ライス



まずスープが出てきます。


上の写真はメインで野菜と肉の味噌炒め、特製中華風つくね、
         もやしとザー菜のさっぱり和え、ライス


上の写真はお店の前の看板です。ライスのお替わりOKのようです。
プチサイズもあり。


三宮のフラワー通りの歩道ではクリスマス飾りの植え込み作業が進んでいました。
完成した写真も撮ろうと思っています。
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NHKBSプレミアム 飛鳥の大宇宙 ~キトラに眠るのは誰だ~を視聴して

2014年11月29日 05時24分21秒 | Weblog
2014年11月20日(木)の20時からの、NHKBSプレミアム「プレミアム ヒストリー 」
飛鳥の大宇宙 ~キトラに眠るのは誰だ~を視聴した。

まずキトラ古墳の概要説明をさせていただきます。
直径13.8m、高さ3.3mの二段築成の円墳で三方濠状のくぼみが
設けられている。   
昭和58年(1983)NHKと飛鳥古京顕彰会のメンバーの熱意で
外から石槨内に挿入したファイバー・スコープで北の壁面に描かれた四神で
ある極彩色の玄武や朱雀等が高松塚古墳と同じように確認されて話題になった。
1998年、前回使用したものより高性能の超小型カメラで探査した結果、
東壁の青龍と西壁の白虎さらに天井の天文図も確認された。
造営年代は高松塚古墳より古く?694年から710年(藤原京の時代)と推定されています。
高松塚古墳の造営も694~710年と推定

Wikipediaによる概要解説 
「二段築成作りの円墳である。墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置している。
名称の「キトラ」は、「北浦」の転訛といわれる。
1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、注目を集めた。
2000年7月31日、国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定された。
円墳であり、四神を描いた壁画があるなどの類似点から、
高松塚古墳の「兄弟」といわれることがある。」


キトラ古墳の基本情報
住所:奈良県高市郡明日香村字安部山
問い合わせ先:飛鳥資料館 0744-54-3561


2011年5月16日にキトラ古墳 =亀虎古墳を訪問しておりブログを
書いています。
 奈良散策記 その5 キトラ古墳 on 2011-5-16


さて、本題に戻りキトラ古墳=亀虎古墳の被葬者についての話題について
述べていきます。

番組では日本書紀、続日本紀より694年から710年に亡くなった被葬者の候補者
50人がピックアップされたその中からこの規模の円墳に入れる身分の人と
いうことで下の写真の12名に絞り込んだ。


皇族・豪族・渡来人というジャンル別に名前を整理すると下記のとおり。






この12名のうち文武天皇については火葬されたこと、天皇陵が八角形であった
ことなどから除外され11名に絞られる。

古墳の砂の中から、歯や骨が見つかり、京都大学名誉教授片山一通さんの
鑑定によって、被葬者は40~60代の男性であることが示唆された。

上の写真は歯の摩耗具合について説明される片山一通氏

これより被葬者の候補者は下記の6人に絞られます。




ここでキトラ古墳皇子説を展開されている京都橘大学名誉教授の猪熊兼勝さん
が登場されます。



東経 135度48分の位置で藤原京の南に天武・持統天皇陵、文武天皇陵、さらに
キトラ古墳が一直線上に並んでいるのである。

藤原宮の中軸線を延ばした「聖なるライン」に乗ることを提唱された
元京大教授岸 俊男氏は1983年11月15日朝日新聞夕刊に寄稿されています。

皇子説になると既に示した高市皇子(たけちのみこ)、刑部(忍壁)皇子(おさかべのみこ)
葛野王(かどののおおきみ)の3名であるが壬申の乱で敗れた側の葛野王は除外され
高市皇子と刑部(忍壁)皇子の2名に絞られる。

高市皇子と刑部(忍壁)皇子について簡単に記載しておきます。
高市皇子(654-696)は、日本の飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子母親は尼子娘。672年の
壬申の乱勃発時に近江大津京にいたが、脱出して父に合流し、若年ながら美濃国の不破で
軍事の全権を委ねられた。
679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わり、兄弟の協力を誓った。


刑部(忍壁)皇子(生年不詳 - 慶雲2年5月8日(705年6月2日))は、飛鳥時代の皇族。
天武天皇の皇子で母は宍戸臣大麻呂(ししひとのおみおおまろ)の娘。
同母の兄弟姉妹に磯城皇子、泊瀬部皇女、託基皇女。忍坂部皇子、刑部親王とも。
官位は三品知太政官事。明日香皇女を妃としたとされ、
山前王(やまさきのみこ)・従三位尚膳小長谷女王の父。
最大の功績は701年に大宝律令選定を指揮したことである。
この時代には元号の使用、通貨の使用、歴史書の編纂、日本という名称が使用
おいった出来事があった。


上記の皇子説に対して豪族説をその中でも阿部御主人(あべのみうし)であるとの
説を展開されているのが近つ飛鳥博物館館長の白石太一郎氏で(下の写真)ある。



上の写真は阿部御主人の官位の右大臣の官位制度で占める位置。


以上のことから番組ではキトラ古墳の被葬者を上記写真のように高市皇子
刑部皇子、阿部御主人の3人に絞りました。

さらに、猪熊兼勝氏は忍壁皇子が高松塚古墳の被葬者であるとの説を支持
されていることからキトラ古墳の被葬者が高市皇子と結論づけておられます。


高松塚古墳で出土した海獣葡萄鏡が698年に亡くなった唐の高官の墓から出土したものと
同じ窯で焼かれたものと判明したため、高松塚古墳の鏡は704年の遣唐使によって
持ち帰られたものであるということから、高松塚古墳の被葬者としては
705年に逝去した刑部皇子が有力になっている。



上の写真は海獣葡萄鏡に関する紹介。



番組で紹介された同志社大學教授の宮島 一通さんのキトラ古墳の天文図研究内容紹介。
キトラ古墳で描かれた天文図の場所は北緯37.6度で百済の都などの緯度に相当する。

さらに豪族説の根拠としてキトラ古墳の場所が阿部山であること、
安倍清明の先祖とされる右大臣・阿倍御主人は星座などに精通している陰陽道の元祖
阿倍御主人は、竹取物語のかぐや姫に求められた「火鼠の皮衣」を唐人・王慶に依頼して入手するなど
海外の事情に通じていた。
持統天皇の太政大臣であった高市皇子も696年に火葬されたとすればキトラ古墳の
被葬者となりえないなどの紹介がありました。

以上のことから番組の結論としてはキトラ古墳の被葬者は皇子説なら高市皇子
豪族説ならば阿部御主人

キトラ古墳をめぐる発見、発掘調査、保存作業の経過について2013-8-17の
神戸新聞記事をベースに記載しておきます。

 昭和58年(1983)11月 ファイバースコープで四神「玄武」を発見

 平成10年(1998)3月  四神「青龍」「白虎」及び天文図を発見

 平成16年(2004)6月 石室の発掘調査開始
          8月 壁画の剥ぎ取り作業開始

 平成18年(2006)4月 天文図にカビが確認される

 平成19年(2007)2月 四神「朱雀」剥ぎ取り

 平成20年(2008)11月 天文図を剥ぎ取り、極彩色壁画の剥ぎ取り終了

 平成21年(2009)8月 壁画の石室外保存の方針を決定
 
 平成25年(2013)3月 キトラ古墳の整備前調査が終了
          8月 埋め戻し前の公開

 平成26年(2014)4月22日~5月18日 
            特別展「キトラ古墳壁画」 東京国立博物館
                    12万人弱の入場者があった。

2016年度に飛鳥歴史公園内の保存施設でこれらの壁画が一般公開される予定

キトラ古墳に関係するリンク先を書いておきます。文化庁のHP 奈良の寺社ガイド(高松塚古墳壁画)独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 飛鳥資料館飛鳥資料館のHPにも詳しいキトラ古墳の解説があります。
飛鳥歴史公園のHPに高松塚古墳とキトラ古墳の壁画の比較をされています。
壁画に見られる高松塚古墳との主な違い(上記飛鳥歴史公園のHP)
       キトラ古墳           高松塚古墳

四神像 (朱雀、青龍、玄武、白虎) 4つ揃っている    朱雀が欠けている     
    白虎が北向き(めずらしい)         白虎が南向き(一般的)     
    躍動感がある                筆致がおとなしい  

星宿図 精密で平壌(ピョンヤン・北朝鮮)から   一般的な星空      
     みた星空だという説がある

男女人物像    なし          飛鳥美人と呼ばれる唐風の人物群像

十二支像  
    朝鮮半島風のキトラの獣頭人身十二支像     なし        
       (西壁にあり)

高松塚古墳訪問記(2011-5-16)
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神戸三宮・元町の路上喫煙禁止地区

2014年11月28日 05時49分04秒 | 神戸情報
神戸市中央区三宮の周辺を歩いていたら下の写真のような旗が目に入りました
 (撮影:2014-11-21)


また、JR三宮駅の近くに設置されたゴミ箱にも路上喫煙禁止地区の表示が
(下の写真)



三宮・元町地区の南北 約500m × 東西 約800mは路上喫煙禁止地区の区域
に指定されています。上記看板の赤で書かれた地域
違反者には1,000円の過料が科せられます)

三宮・元町地区は平成20年(2008)7月1日から運用開始されています。

平成20年(2008)4月に施行された「歩きたばこ禁止条例」により2013-9-16現在
までに「路上喫煙禁止地区」に指定された箇所は上記の三宮・元町地区の他に

平成23年(2011)10月、「六甲道駅周辺地区」を市内2番目の路上喫煙禁止地区に
指定され、過料1,000円が徴収されるようになりました。

また、須磨海水浴場・須磨海浜公園地区の
南北 約500m × 東西 約2,100mについて平成25年(2013)に指定され、
平成25年7月11日(木曜)~平成25年8月31日(土曜)の期間に違反した人に対して
1,000円の過料が徴収されるようになりました。

また、路上喫煙啓発業務対象地区に神戸市内22か所が指定されています。

神戸市の下記サイトに詳細が記されています。
http://www.city.kobe.lg.jp/ward/activate/project/eco/index.html

全国で初めて歩きたばこ禁止条例が制定されたのは東京都千代田区で
安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例が制定されました。
2002年11月1日罰則が適用開始されました。


Wikipediaに各地の歩きたばこ禁止条例やポイ捨て禁止の条例が纏められています。

同じくWikipediaより条例の制定に賛成&反対意見が纏められていましたので
引用紹介させていただきます。

主な賛成意見
1.成人のモラルやマナーに訴えるのは難しく、限界があると思うので罰則を設けるのは賛成である。
2.吸い殻のポイ捨てが少なくなった。また、歩行喫煙が減ったことにより空気がきれいになった。
3.当たり前のことがようやくルールになった。
4.他の自治体でも、このような条例をつくれば良いと思う。
5.歩行喫煙は迷惑なので禁止には賛成であるが、喫煙所の設置を行うべきである。


主な反対意見
1.携帯灰皿を持ち、マナーを守って路上で喫煙をしているのに、なぜ規制するのか。
2.区内のたばこの自動販売機を撤去すべきである。また、タバコの販売を禁止すべきである。
3.喫煙という個人の嗜好を条例で規制するのは行き過ぎである。
4.路上禁煙地区で歩行喫煙を禁止するならば、特別区たばこ税は返納すべきである。
5.路上での喫煙を規制するなら、喫煙所を設けるべきである。


20年以上前にシンガポールでゴミを捨てると3万円程度の罰金が課せられいるとの
情報を知り日本もこのような条例が必要だなと感じていましたが全国の都市部で採用
されてきており良い取り組みと思っています。

しかし、まだまだ汚い場所やマナーが悪い人が減っておらず特にポイ捨てについて
高額の罰則も必要かなと思っています。


ゴミ箱については設置しない又は最小限に設置するのが良い方法であり効果がある
との実績がありその方向に進んでいるようです。

神戸市の全地域で綺麗な街にしたいと思っています。




上の2枚の写真はSmoking area とスモーキングエリア付近のごみ箱
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神戸花時計 on 2014-11-21

2014年11月27日 05時33分32秒 | 神戸情報
2014年11月21日、神戸市役所2号館の北側にある神戸花時計の絵柄が
神戸市耐震キャラクターの「オキールファミリー」はかせになっていました。
(下の写真)




上の写真解説説明文です。

<神戸市耐震キャラクター「オキールファミリー」>
 地震から大切な家族を守るために何が出来るでしょう?
阪神・淡路大震災で亡くなられた方の約8割は家屋の倒壊等
によるものでした。その教訓をふまえ、神戸市では地震から
市民の命や財産を守るために、無料の耐震診断や耐震改修工事
に対する補助制度の創設など、「すまいの耐震化」に取り組ん
でいます。
 オキールファミリーは、これらの耐震化の取り組みについて
多くの方々に関心を持ってもらうため、公募により選ばれた
キャラクターです。モチーフは、ゆらしても必ず上手に起き
上がる「おきあがりこぼし」。メンバーは、はかせと4人の
ファミリーです。


<次回植え替え予定>

平成26年12月上旬


神戸市のサイトで過去の神戸花時計のデザインを見れます。
 http://www.city.kobe.lg.jp/culture/leisure/mark/hanadokei/kako/index.html

日本で初めて設置された神戸花時計について少し説明します。

第13代神戸市長の宮崎辰雄氏(1911-2000)の欧米視察経験に基づき発案され
スイス・ジュネーヴのイギリス公園に設置されていた花時計をモデルにした日本初の
花時計が製作されることになった。
神戸市民や神戸市内の企業はこの計画に好意的な反応を示し、多額の寄付金が
寄せられた。この寄付金を元に花時計の製作が進められ、
市民有志から神戸市への寄贈という形で設置されることになった。

花時計の製作は神戸市役所の新庁舎(現在の2号館)建設に合わせて進められ、
新庁舎完成と同時期にその北側に設置された。1957年4月6日午前、
新庁舎開庁記念式典に続く形で始動式が行われ、花時計は稼働を開始した。

花時計は昭和32年(1957)に完成し51年間時を刻んできましたが、平成21年
(2009)2月に100件の寄付と募金箱による650万円の寄付により更新されました。
製造、施工はセイコータイムシステム(株)です。

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須磨離宮公園の歌碑と句碑をめぐる on 2014-11-17&11-24

2014年11月26日 05時18分36秒 | 神戸情報
2014年11月17日と24日に須磨離宮公園の歌碑と句碑を中心に
写真を撮りましたので紹介します。




上の写真は神戸市民病院の院長でもあった五十嵐播水先生の句碑と解説説明書きです。

「初空や 帯のごとくに 離宮道」 五十嵐播水の句です。

句碑は字が消えてほとんど読めませんが隣に
解説の石碑が句の意味が書かれています。昭和56年(1981)6月建立
   離宮公園側から離宮道を見おろすと、両側の松の美しい道(離宮道)が
   一条の帯のように道が延び、その向こうに須磨の海と
   新年(元日)の朝 最初の空が広がっている。須磨離宮の町並みも、
   その初空も、まことに清々しい風景である


五十嵐播水は 九年母 初代主宰者です。


五十嵐播水先生の略歴を以下に記述します。
 明治32年(1899)1月10日 姫路で生まれる      
 大正12年(1923)京都大学医学部卒 元神戸市立中央市民病院長
    須磨寺附近に永く在住
 大正9年(1920)高浜虚子の門下に入る
 昭和7年(1932)ホトトギスの同人となる
 昭和9年(1934)より俳誌「九年母」を山本梅史より継承主宰
     関西ホトトギス会の会長、日本伝統俳句協会顧問などを歴任
 昭和43年(1968)兵庫県文化賞
  播水句集、埠頭、老鶯、播水遺句集、一頁の俳話、港の四季などの著書あり。
 平成12年(2000)4月23日死去


上の写真は江戸時代初期の俳人安原貞室の句碑で平成21年3月吉日に建立されたものです。
「まつかげや月は三五夜中納言」と読まれています。

句意は
「須磨の裏の白砂に、美しく松のかげを落とす月はと見上げれば、時あたかも
十五夜の月であるよ。その昔、須磨に閑居した中納言行平もこの月を眺めた
のだろうなあ」


安原貞室
慶長15年(1610) に生まれ、
旧暦延宝元年(1673)2月7日(新暦換算1673年3月25日)63歳で死去の俳人です。
松永貞徳の門下で、貞徳没後、「貞徳終焉記」を著して、号を貞室と改めた。
貞室は京都の紙商で、父の代から松永貞徳と親しかった。15歳で貞徳の私塾に入り、
18歳ごろから俳諧を始めた。才能豊かで貞徳から可愛がられた。
貞門七俳人の一人である。



上の写真は海上胤平(うなかみのたねひら)の歌碑
「いくたびか 立ちかえりみし 松かげに 月を寄せくる 須磨の浦なみ」
海上 胤平はうみがみたねひらとも読む
文政12年(1829)12月30日~大正5年(1916)3月29日
下総国海上郡三上村に、賢胤の3男として生まれる。若くして江戸に出て、
剣道を山岡鉄舟・千葉周作に学び、さらに諸国に武者修行して奥義を極める。
維新後は官吏となり、明治2年水原縣(新潟)に出仕し、のち山形地方裁判所事補
となり、更に山形県勧業課に転じて在職九年の後、明治16年に官を辞して東京に帰る。
 武者修行で諸国を巡る中、紀州藩に立ち寄った際に、国学所教授であった
加納諸平に出会う。志した武者修行を終えたのちには、再び紀州和歌山に戻り、
紀州藩剣道師範として仕えながら、諸平の下で国学を究めた。官を辞して後の晩年は、
家塾を開き、専ら歌学の教授に専念し、作歌や評論に励む。門人数千に及ぶ。
明治新派和歌運動の先触れであった。福島県伊達郡掛田地方の中心的存在である
亀岡神社宮司懸田訓平家を中心に、信達地方の作歌の指導にもあたった。
著書に『詠史百首評論』、『歌学歌範評論』、『新自讃家集評論』、
『東京大家十四集評論』、『長歌改良論辯駁』、歌集に『椎園歌草』『椎園家集』
などがある。

(参照:国学者伝記集成. 続編、 日本人名大事典. 第1巻、
            用語南部盛岡藩辞典、 福島県史. 第22巻)




上の写真は阿波野青畝の句碑「須磨涼し 今も昔の 文の如
昭和52年1(1977)2月に建立されました。

阿波野青畝の解説 By Wikipedia
阿波野青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月10日 - 1992年(平成4年)12月22日)は日本の俳人
奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。幼少の時に耳を患い、
以後、難聴となる。1913年(大正2年)奈良県立畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)
に入学。県立郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)教師・原田浜人の勧めで俳句を
学ぶようになる。1917年(大正6年)原田浜人宅で催された句会で郡山に来遊中の
高浜虚子と出会い、師事する。虚子は難聴であっても大成している俳人・村上鬼城を
紹介し青畝を激励した。

1918年(大正7年)畝傍中を卒業。難聴のため進学を諦め八木銀行(現・南都銀行)に入行。
1922年(大正11年)野村泊月の『山茶花』の創刊に参加。
1923年(大正12年)大阪市西区京町堀の商家の娘・阿波野貞と結婚し婿養子となる。
1924年(大正13年)25歳にして『ホトトギス』選者となる。
1929年(昭和4年)郷里奈良県八木町(現・橿原市)の俳人・多田桜朶らが中心となり
        俳誌『かつらぎ』を創刊、青畝は請われて主宰・選者となる。
        また、この年『ホトトギス』の同人となった。
1933年(昭和8年)妻・貞が病没し、阿波野秀と結婚。
1945年(昭和20年)妻・秀が死去。
1946年(昭和21年)戦時下で他誌と合併し『飛鳥』となっていた
       『かつらぎ』を復刊、発行人となる。この年、田代といと結婚。
1947年(昭和22年)カトリック教会に入信し、洗礼名を「アシジの聖フランシスコ」と
     名乗る。
1951年(昭和26年)虚子が『ホトトギス』の選者を辞め長男・年尾に譲る。青畝はこの際に
    『ホトトギス』への投句を止めた。

1973年(昭和48年)、 『甲子園』他で第7回蛇笏賞、西宮市民文化賞を受賞。
1974年(昭和49年)大阪府芸術賞を受賞。俳人協会顧問となる。
1975年(昭和50年)勲四等瑞宝章を受章。俳人協会関西支部長となる。
1990年(平成2年)『かつらぎ』の主宰を森田峠に譲り、名誉主宰となる。
1992年(平成4年)第7回詩歌文学館賞を受賞。
         この年の12月22日、心不全により93歳で永眠。




上の写真は五十嵐哲也先生の句碑「新緑の 離宮に尖る 風のなく」
 父は五十嵐播水

平成19年(2007)2月に建立されました

今回写真を撮れませんでしたが上記の他に安東聖空の句碑
「瀬戸内の 島島をむすぶ 橋なりて」

昭和63年(1988)11月に建立があります。

写真を撮ったときにアップしようと思っています。






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 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡

2014年11月25日 18時14分34秒 | 旅行記
2014年10月4日、萩のバスセンターの近くに2010年4月に設置された唐樋高札場(復原)の
写真・動画紹介します。

萩の散策とグルメシリーズの第8回となります。
過去7回の記事内容は以下のとおりです。

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

唐樋高札跡(復原)の設置場所:萩市東田町

Goo地図はこちら
 
 


上の写真は復原された唐樋高札跡の遠景です。


上の写真は説明版の説明。下記のように書かれています。

高札場(復原)
高札場は、幕府や藩からの御触れを記した高札を掲示する場所です。多くの人に知らせるため、道路の交差する辻や街道沿いの宿場町など、人通りの多いところに設けられました。
唐樋札場の高札場には、承応3年(1654)時点で7枚の高札が掲示されていたことが文献記録に残っています。高札には「忠孝にはげみ、親子兄弟仲良くすること」や「田畑を一生懸命耕し、荒さないこと」といった暮らしや仕事に関すること、また、「キリシタン禁令」や「異国船の抜荷禁止」などの禁止事項が記されており、城下での規律正しい生活を促すものでした。この他、磔(はりつけ)や獄門の刑に相当する罪人を見せしめのため、この地に晒場(さらしば)を設け、最長で三日間にわたり群衆の面前にさらすことも行われました。唐樋札場は、明治時代になってその役割を終え、取り壊されました。
唐樋札場跡では平成21年2月から5月にかけて発掘調査を行い、しっかりとつき固められた基礎(版築土)の上で、高札場建物を支えていた柱穴、地面より一段高く見せるための基壇化粧石、細長い延石、雨水を受けるための瓦組遺構などが見つかりました。これらは全て地中に保存されています。建物推定規模は東西3.94m、南北7.51m、4本の柱間距離はそれぞれ1.97mです。
こうした発掘調査の成果と文献記録、絵図、類例建物などを参考にして、高札場を往時の姿に復原しました。
復原された高札場は、高さ5.67m、木造切妻造、鋼板葺(往時は板葺)となります。



上の写真は平成21年の発掘調査の写真です。

現地の動画を添付しておきます。
 





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 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

2014年11月24日 06時20分38秒 | 旅行記
2014年10月4日、萩で人気のグルメ処 割烹 「千代」でランチをいただきましたので
写真紹介します。

萩の散策とグルメシリーズの第7回となります。
過去6回の記事内容は以下のとおりです。

a href="http://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/8565207e8c045ecdd4a5fa0a06b673dd">城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷






割烹「千代」の基本情報

住所:萩市今古萩20-4  TEL:0838-22-1128
料理ジャンル:和食
営業時間:昼 11:30〜14:00/ 夜 17:00〜22:00
 定休日:月曜日 月曜が祝日の場合火曜日


Goo地図はこちら
 

当日、注文したのは私がお造り定食 1,944円(税込)
奥様は甘鯛唐揚げ定食 1,944円(税込)をオーダーしました。

上の写真はメニュー表です。価格は税抜き表示になっています。

私は焼酎のお湯割りを注文 (上の写真)

上の写真はお造り定食の盛合せ。

上の写真は甘鯛唐揚げ定食のメインとご飯及びお吸い物

上の写真はご飯のアップ。

上の写真は小鉢。

上の写真はデザート。

どれも繊細に仕上げられており大満足でした。カウンター席は7-8人が定員なので
 予約をしないと食べられないと思います。是非早めに予約してください。

上の写真はトイレ内の飾りつけ。
おもてなしの心意気を感じました。

上の写真はお店の外観です。

次回、萩を訪問する機会が」あれば再訪したいと思っています。

シリーズの目次

萩の散策とグルメシリーズの記事内容は以下のとおりです。

第1回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

第2回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

第3回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

第4回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

第5回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

第6回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

第7回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

第8回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡

第9回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑

第10回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その10 萩八景 遊覧船めぐり

第11回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その11 萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)

第12回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その12 野山獄跡、岩倉獄跡

第13回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その13 住吉神社

第14回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その14 旧萩藩 御船倉

第15回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その15 梅屋(山本)七兵衛旧宅

第16回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その16 旧山村家住宅

第17回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その17 すし喜でのランチ

第18回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その18 田町・御成道

第19回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その19 旧益田家物見矢倉

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 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

2014年11月23日 06時29分39秒 | 旅行記
2014年10月4日、松陰神社の境内に建てられている「薩長土連合密議之処」と
書かれた石碑の写真を撮りましたので紹介します。

萩の散策とグルメシリーズの第6回となります。
過去5回の記事内容は以下のとおりです。






上の写真が「薩長土連合密議之処」と書かれた石碑です。
石碑は明治維新から100年を記念して昭和43年(1968)に建立。
石碑には右側に「薩州 田上藤七 長州 久坂玄瑞 土州 坂本龍馬」、
中央に「薩長士連合密議之處 岸信介書」、
左側に「文久二年一月 鈴木勘蔵宿之跡」と刻してあります。

石碑の所在地 : 萩市椿東1537 (萩市松本市) 松陰神社内
Goo地図はこちら
 

坂本龍馬は文久2年(1862)1月14日から9日間剣術の研鑽を名目として萩の地を
訪れています。吉田松陰亡き後、攘夷派のリーダーとして長州志士たちの
中心的存在であった久坂玄瑞を訪ね、武市半平太の書を携えてやってきたのだ。
ちょうどその頃、華山三円の書を持った薩摩藩士の田上藤七も萩に滞在
していて、図らずもこのとき 薩摩・長州・土佐の三藩の志士が一堂に
 街道沿いの鈴木勘蔵の旅館(現在は松陰神社の境内)で談合することになった。

坂本龍馬が帰る時に、久坂玄瑞は武市瑞山宛の書簡を託している。それには、藩そのものを
否定しても草莽の志士が結合して実践に移ろうというもので、
松陰の「草莽崛起(そうもうくっき)論」と思想的なつながりを持っている。
 その2か月後、龍馬は土佐藩の政策に反対し脱藩。そして江戸で勝海舟の門に入っています。

シリーズの目次

萩の散策とグルメシリーズの記事内容は以下のとおりです。

第1回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

第2回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

第3回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

第4回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

第5回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

第6回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その6 「薩長土連合密議之処」の石碑  in 松陰神社

第7回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その7 割烹「千代」でのランチ

第8回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その8 唐樋高札場跡

第9回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その9 井上剣花坊の川柳碑

第10回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その10 萩八景 遊覧船めぐり

第11回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その11 萩藩主毛利家墓所(天樹院墓所)

第12回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その12 野山獄跡、岩倉獄跡

第13回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その13 住吉神社

第14回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その14 旧萩藩 御船倉

第15回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その15 梅屋(山本)七兵衛旧宅

第16回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その16 旧山村家住宅

第17回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その17 すし喜でのランチ

第18回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その18 田町・御成道

第19回 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その19 旧益田家物見矢倉

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 城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その5 厚東 常吉(ことう つねきち)翁像 in 松陰神社 

2014年11月20日 16時43分23秒 | 旅行記
2014年10月4日、松陰神社の境内に建てられている厚東 常吉(ことう つねきち)翁像の
写真を撮りましたので紹介します。

萩の散策とグルメシリーズの第5回となります。
過去4回の記事内容は以下のとおりです。

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その1 旧湯川家屋敷

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その2 萩市指定史跡 桂太郎旧宅

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その3 松下村塾と松陰神社

城下町萩の散策とグルメ on 2014-10-4~10-6 その4  松浦松洞誕生地

まず、厚東 常吉(ことう つねきち)翁について簡単に紹介します。

厚東 常吉(ことう つねきち) (1884年-1968年)は萩の迎賓館とも称される老舗旅館
「常茂恵」(大正14年11月3日創業)の創業者で実業家であると同時に県会議長や
衆議院議員も務めた政治家でもありました。

厚東 常吉翁の業績で忘れてならないのは松陰神社の建立に尽力したことと、
松本川に架かる萩橋を私費で建設し寄贈したことだと思います。






上の2枚の写真が厚東 常吉翁の銅像です。
像の作者は長嶺 武四郎氏で昭和42年(1967)に建立されました。
台座の名前刻板は内閣総理大臣の岸信介の書によるものです。


上の写真は「常茂恵」の写真です。

常茂恵が創業したのは、大正14年(1925)11月3日のこと。
「萩には中央からの客人をもてなす宿泊施設がない」と貴族院議員の滝口明城 氏、
後の総理大臣田中義一氏、近代日本画家の巨匠 松林桂月氏、実業家の久原房之助氏ら
郷土の名士が厚東常吉翁に相談したのがきっかけでした。

常茂恵の名前は常吉の一字を取って「常に茂って恵みがあるように」との意味を込めて
名づけられたそうです。


 


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明石の釜めし みや古でのランチ on 2014-11-18

2014年11月20日 06時28分52秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年11月18日(火)に明石の釜めし みや古でランチをいただきました。
写真紹介します。

みや古(みやこ)の基本情報
住所:兵庫県明石市桜町13-13  TEL:078-917-5988
営業時間:昼は 11:30-14:00 (LO 13:00)
     夜は  17:30~22:00 (LO 21:00)
定休日: 昼は土曜、日曜日、祝日
      夜は日曜日、祝日

料理ジャンル:釜めし、串かつ

公式HP:http://www.k3.dion.ne.jp/~miyako/index2.html

Goo地図はこちら
 

当日、注文したのは三串釜御膳 1,280円です。


まず三串の串カツが出てきます。


次に釜飯です。季節ものの栗も入っていました。
美味しくいただきました。ご馳走様でした。


上の写真はお店の外観です。







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