CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

弥生から古墳へ─変わりゆく人々の暮らしをモノから見てみよう国指定史跡「大中遺跡」発見から…

2022年05月31日 09時51分16秒 | Gooニュース


gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/kobe/nation/kobe-20220529003

私がブログ記事にした兵庫県立考古博物館への訪問記(2022年4月28日に観覧)に

リンクしておきます。

兵庫県立考古博物館 春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」観覧記 on 2022-4-28 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp) 

 

開催要項は以下の通りです。

 開催日 :2022年4月23日(土)~2022年7月3日(日)
 開催場所 :兵庫県立考古博物館(加古郡播磨町大中1-1-1)
 開催時間 :午前9時30分~午後5時(入場は午後4時30分まで)
 定休日: 月曜日
 アクセス: JR土山駅南出口から「であいのみち」を徒歩15分
      山陽電車播磨町駅から喜瀬川に沿って徒歩25分
 料金: 大人 500円(400円) 大学生 400円(300円) (  )内は団体料金

    高校生以下無料  高齢者(70歳以上)割引あり
 問い合わせ先: 兵庫県立考古博物館
 TEL: 079-437-5589

公式サイト:兵庫県立 考古博物館 (hyogo-koukohaku.jp)

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万が一に備えてロシア大統領府ではプーチン大統領の後継者を考えている

2022年05月31日 04時38分22秒 | Gooニュース

Kremlin insiders are quietly searching for Putin's successor in case he's forced out over the invasion of Ukraine, Russian report says » TrueViralNews

上記サイトで標題のように「万が一に備えてロシア大統領府ではプーチン大統領の後継者を考えている」

と「メドゥーザ」からの情報元から記事が書かれ公開された。

内容を要約すると下記のとおりです。

  • ロシアでは大統領府の内部の人間たちがプーチン大統領の後継者を考えていると、ロシアの独立系メディア『メドゥーザ(Meduza)』が報じた。
  • 政界のエリートたちはウクライナとの戦争や崩壊しつつある経済に不満を募らせていると、メドゥーザは伝えている。
  • 後継者候補には、モスクワのセルゲイ・ソビャーニン市長やドミトリー・メドヴェージェフ前大統領らの名前が挙がっているという。

プーチン大統領がウクライナ侵攻をめぐって退陣に追い込まれたり、病に倒れた場合に備えて、大統領府の内部の人間たちは密かに後継者候補について話し合っていると、ロシアの独立系メディア『メドゥーザ』が報じた。

今後、ウクライナ情勢がどのようにどう動くは予測できないが、早く終結することを望む次第です。

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きょうは何の日 5月30日

2022年05月30日 14時42分42秒 | Weblog

NHKラジオの「きょうは何の日 5月30日」を聴取しましたので内容を紹介します。

放送では下に添付の4つの項目が紹介されていました。

 

・昭和21年(1946) 東京上野の露天街・アメ横に警視庁が統制品の一斉手入れ

         塗料・タバコなどの禁制品をトラック15台分押収

・昭和33年(1958)最後のBC級戦犯18人が仮出所し、巣鴨拘置所が閉鎖された

・昭和47年(1972)日本赤軍の3人がテルアビブのロッド空港で銃乱射。

         犯人2人を含む26人死亡、72人がケガ。 実行犯の岡本公三は生き残り

        イスラエルからの釈放後にレバノンに亡命し、日本警察からは国際手配中

・平成19年(2007)白鵬が第69代横綱に昇進。北の湖、大鵬に次ぐ3番目に若い22歳2カ月

         での新横綱誕生。外国人横綱としては曙、武蔵丸、朝青龍に続き4人目

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聖徳太子関連の事績と遣隋使の派遣

2022年05月30日 06時49分13秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年5月17日(火)22:00からNHKEテレの知恵泉「遣隋使 格上相手とどうつきあう?」

が放送され視聴しました。

番組の映像を利用しながら、「聖徳太子関連の事績と遣隋使の派遣」をテーマに纏めてみました。

今回のブログは遣隋使がメインテーマであることから遣隋使が乗り込んだ船のイメージ図を

をまず添付しておきまし。(下の写真)

 

年表

538年 仏教伝来(一説では552年)
540年 大伴金村、任那問題で失脚
552年 蘇我稲目と物部尾輿が崇仏論争
562年 新羅が任那を滅ぼす
574年 聖徳太子生誕
      574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)出生地は橘寺     
577年 百済より経論、律師、禅師、仏工、寺工渡来

581年 文帝が隋を建国 都は大興城(長安)
585年 物部守屋等 仏寺、仏像などを焼き捨てる
     聖徳太子の父・橘豊日皇子が即位(用明天皇)
587年 崇仏派の蘇我馬子が物部氏を滅ぼす
588年 蘇我馬子が飛鳥寺の造営を開始
592年 蘇我馬子が崇峻天皇を謀殺。推古天皇即位。
     
593年 聖徳太子が摂政となる、四天王寺建立開始
594年 三宝(仏教)興隆の詔
600年 第1回の遣隋使を派遣
601年 斑鳩宮を造営

602年 百済僧の観勒が暦本、天文地理などの書を伝える
603年 冠位十二階を定めた。小墾田宮へ遷宮

604年 十七条憲法を制定、隋で第2代皇帝の煬帝(楊広)が即位

605年 諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む

607年 第2回の遣隋使派遣 小野妹子を派遣 斑鳩に法隆寺を創建

608年 小野妹子、答礼使裵世清とともに帰国。第3回の遣隋使派遣 小野妹子を派遣

610年 第4回 遣隋使。高句麗僧曇徴が紙、墨、絵の具の製法を伝える

614年 第5回 遣隋使 犬上御田鍬・矢田部造らを派遣

615年 仏教を篤く信仰し「三経義疏」を著す

618年 隋が滅びる 唐が抬頭
622年 聖徳太子死去
      622年4月8日(推古天皇30年2月22日)

628年 推古天皇死去 舒明天皇が即位

630年 第1回 遣唐使の派遣

 

それでは5回の遣隋使について詳しく見ていきます。

第一回(600年)の遣隋使
第一回 開皇20年(600年)の遣隋使は、720年に編纂された『日本書紀』に記載は無い。

しかし、東アジア諸国では末尾の遣使だった。『隋書』「東夷傳倭國傳」は高祖文帝の

問いに遣使が答えた様子を載せている。日本の教科書では日本書記への記述が無いことで

推古天皇15年(607)を第1回の遣隋使派遣としている。

この頃まだ倭國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』倭國伝)

上の写真は上述の番組で開皇二十年(600年)に大王と号する倭王アメ タラシヒコが

隋の都に使者を派遣したという『隋書』の文章の抜粋

「開皇二十年 倭王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

開皇二十年、倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥(おおきみ)と号(ごう)し、使いを遣わして闕(みかど)に詣(まい)らしむ。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時に、出でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて、我が弟に委(ゆだ)ぬと云う。高祖曰く、此れ太(はなはだ)義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。

上の写真は当時の皇帝「文帝(揚堅) 在位は581年~604年」が倭国の風俗を尋ねる

文章の抜粋。

開皇二十年に、大王(おおきみ)と号する倭王アメノタラシヒコは、使者を遣わして帝に詣らせた。高祖が役人を通じて倭国の風俗を尋ねさせたところ、使者は「倭王は、天が兄であり、日が弟です。まだ天が明けない時に出て、跏趺して坐りながら、政(まつりごと)を聴きます。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます。」と答えた。高祖は「それは甚だ不合理(あるいは不義理)であるから改めるよう」訓令した。

上の写真は使者が文帝に対して答えた内容の文章抜粋場面。

上の写真は文帝が使者の返答に対して発した言葉。

倭王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、大王とされる。『新唐書』では、用明天皇(在位585年-587年)が多利思比孤であるとしているが合わない[4]。開皇20年は、推古天皇8年(600)にあたる。この大王が誰かについては、推古天皇、厩戸王、蘇我馬子など意見が分かれている[5]。

この時派遣された使者に対し、高祖は所司(役人)を通じて倭國の風俗を尋ねさせた。使者は倭王を 姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」で、「天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前に出て跏趺して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」と述べている。ところが、高祖からみると、倭國の政治のあり方が道理に外れたものだと納得できず、改めるよう訓令したというのである。

これが国辱的な出来事だとして、日本書紀から隋使の事実そのものが、除外されたという。だが、その後603年(推古11年)冠位十二階や、604年十七条憲法の制定など隋風の政治改革が行われ、603年小墾田宮も外交使節の歓待を意識して新造されて、次の遣隋使派遣がされる[5]。

上の写真は冠位十二階の具体的な内容

上の写真は604年、十七条憲法の制定のイメージ

上の2枚の写真は日本書紀に書かれた十七条憲法の内容

聖徳太子は隋の皇帝による支配の仕組みを取り入れ天皇を頂点とする身分秩序に

地方豪族を組み入れ支配するシステムを確立しようとした。(上の写真)

以上の文章はWikipediaからの引用(一部加筆)です。

 

第二回(607年)の遣隋使
第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が隋(大唐国)に国書を持って派遣されたと記されている。

日本の王から煬帝(ようだい)に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳倭國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという[6]。

隋帝は最初、国書を上のように解釈し立腹した。

なお、煬帝が立腹したのは、天子は中華思想では1人で、それなのに辺境の地の首長が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である[7][8]。冒頭に、「海の西の菩薩天子が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」と国書を提出していて、仏教を崇拝し菩薩戒を受けた文帝への仏教重視での対等の扱いを目指した表現で、譲位された煬帝相手のものではなかった[9]。

小野妹子(中国名:蘇因高[10])は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の勅使として裴世清(はいせいせい)が派遣されるという厚遇で一緒に帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している[11]。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。

裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある。

「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」

「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境?安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』

これは皇帝が蕃夷の首長に対し下す形式の国書であった。しかし、なぜか倭皇となっており、「倭皇」を後の日本書記編纂での改竄とする見解がある。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しは「東の天皇が敬(つつし)みて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とあり、前回とは違う身分が上の貴人に差し出すへりくだった形式となっていて外交姿勢を改めたことになる[12]。「東天皇」は後の編纂時に改定されたもので「大王」か「天王」だったという説と、そのまま天皇号の始まりとする両説がある[13]。

なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。 小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される[14]。

だが、姿勢に変化はあるものの、冊封は受けないとする倭国側の姿勢は貫かれ、隋は高句麗との緊張関係の中、冊封を巡る朝鮮三国への厳しい態度と違い、高句麗の背後に位置する倭国を重視して、冊封なき朝貢を受忍したと思われる[15]。

 

 以上の文章はWikipediaからの引用(一部加筆)です。

上の写真は「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であると悟った煬帝は煬帝の勅使として裴世清(はいせいせい)を派遣さるという裁断を下しています。

上の写真は日本書記の記述

「日出処の天子……」の国書を持参した小野妹子は裴世清らとともに住吉津に着き、帰国する。(『日本書紀』、『隋書』倭國伝)

上の写真は当時の隋の状況図で高句麗との戦いで隋は疲弊していた背景があり、倭とは

仲良くしておきたかったと推測されています。


第三回(608年)の遣隋使
裴世清を送って小野妹子・吉士雄成などが再度派遣された。この時、学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)・学問僧として僧旻(そうびん)・南淵請安(みなみぶちしょうあん)・志賀漢人慧隠(しがのあやひとえおん)ら8人、隋へ留学する。

彼らは618年の隋の滅亡と唐建国を体験し、帰国後に7世紀後半の倭国の改革に貢献する[16]。

 以上の文章はWikipediaからの引用(一部加筆)です。

南淵請安については下記ブログで触れていますのでよかったら参照してください。

 南淵請安先生の墓 in 明日香村稲渕 on 2017-1-9 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第四回(610年)の遣隋使

推古18年(610)-? 第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)日本書紀には記載なし

 以上の文章はWikipediaからの引用です。

第五回(614年)の遣隋使

614年(推古22年) - 615年(推古23年)第5回遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)

 以上の文章はWikipediaからの引用です。

隋の建国(581年)から滅亡(618年)

上の写真は隋の建国から滅亡までの年表です。

出典:グローバルワイド最新世界史図表 五訂版 第一学習社(2022)Page116

上の写真は隋の第2代皇帝の煬帝(ようだい)

612年から614年にかけて隋は高句麗に出兵するが、1回目で大敗し、戦費兵役負担から、次の2回にわたる遠征の最中に隋国内で反乱が起こり、618年に煬帝は殺害され隋は滅亡し唐が成立した[17]。

 以上の文章はWikipediaからの引用です。

上の写真は6世紀の隋と倭の状況を示した地図です。

遣隋使の航路も緑線で示されています。

出典:グローバルワイド最新世界史図表 五訂版 第一学習社(2022)Page25

 

番組の締めとして大阪大学の河上麻由子准教授は聖徳太子のブレーンとして

恵慈がいたことを紹介されていました。

高句麗の僧侶恵慈は推古3年(595)に来日して,聖徳太子の師となり,百済から来日した

聡(慧聡)と共に「三宝の棟梁」と称された。 その事績は伝説的だが,聖徳太子と親交があり

太子の『三経義疏』制作事業に協力し,『法華経』について問答したり,帰国時に

『三経義疏』を持ち帰ったという。

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きょうは何の日 5月29日

2022年05月29日 06時37分52秒 | Weblog

NHKラジオの「きょうは何の日 5月29日」を聴取しましたので内容を紹介します。

放送では下に添付の4つの項目が紹介されていました。

・大正2年(1913)ストラヴィンスキーが作曲したバレー楽曲「春の祭典」が初演

・昭和17年(1942) 与謝野晶子が死去

  与謝野晶子の生誕地は堺市です。関連ブログにリンク。

   堺散策 その8 与謝野晶子生家跡 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

・昭和28年(1953)エドモント・ヒラリーとネパール人のシェルパ テンジン・ノルゲイが

         世界最高峰のエベレストに初登頂

・平成27年(2019)鹿児島県 口永良部島の新岳で噴火 最高レベルの噴火警戒レベル5が発令

 

写真が無いと寂しいのでJR西日本日生駅の前にある駅前公園で与謝野晶子の歌碑の

写真を添付しました。撮影:2019-1-21



上の写真は歌碑の全景です。


上の写真は歌碑の歌の部分で国立公園ひなせ諸島のあとに
「妻恋ひの 鹿海こゆる話聞き それかと見れば 沖の鶴島」と書かれています。


上の写真は歌碑の説明書きです。
「与謝野晶子先生之歌碑
  昭和8年6月、与謝野鉄幹・晶子御夫妻は、正宗敦夫氏らと共に、日生諸島での
  舟遊びに興じ、その美しい景観に心をうたれ、心情を数首の歌に託された。
  書は与謝野晶子先生の御令孫、与謝野馨(衆議院科学技術委員長)によるものである。
        平成二年五月吉日  日生町」

与謝野晶子についてWikipediaより引用紹介します。命日は昭和17年5月29日

与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ、1878年(明治11年)12月7日 -
1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。
戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の
「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。

鳳志ようは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・
甲斐町西1丁[1])で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女
として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から
疎まれて育つ[2]。 実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。
9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)
に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、
「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)[3]『文学界』や紅葉、
露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年5月)であった。
20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、
1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の
関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。
翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)
を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人
出産している(うち1人は生後2日で亡くなる)。
1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。
1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で
始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに
行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし[4]、また『新訳源氏物語』の
序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を
開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた
(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が
組まれた[5]。 5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスの
マルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、
ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著
『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、
女性教育の必要性などを説いた。
1921年(大正10年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして夫の鉄幹らとともに
お茶の水駿河台に文化学院を創設する。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を
成立させる。 子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の
職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。
来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらって
いたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、
残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動と
エネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
1940年5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になる。
同年5月29日、狭心症に尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去[6][7]。
戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉[7]。墓は多磨霊園にある[8]。

本日(2022-5-29)は兵庫県相生市に於いて3年ぶりにペーロン祭が開催されますので

過去の動画を紹介しておきます。相生ペーロン祭

2019年 相生ペーロン祭 on 2019-5-26 その1

 

相生でペーロン競漕 水上の戦い熱く 神戸新聞 2015年5月31日

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高木珈琲 TAKAGI COFFEEでのモーニング on 2022-5-28

2022年05月29日 05時58分55秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年5月28日、ヤナダストアが入るテラスマにある高木珈琲でモーニング

頂きましたので写真紹介します。初訪問です

高木珈琲 須磨離宮公園前店の基本情報

住所:神戸市須磨区高倉台1丁目1-6 TEL:078-731-1151

営業時間:8:00~21:00  モーニングは8:00~11:00 

定休日:無休

オープン日:2022年3月15日

公式サイト:高木珈琲 (takagicoffee.com)

上の写真は私が選択した「こだわりフレンチトースト」820円(税込)

まずまずのお味でした。ホットコーヒー単独では410円(税込)

上の写真は奥様が選択したミルフィーユパンケーキ2枚(280円)+ホットコーヒー(410円)

合計 690円(税込)でした。ホットコーヒーが写っていないのでホットコーヒーの写真を添付

(下の写真)パンケーキは中まで火がとおっていない為、ヌルヌル状態でぶつぶつ言いながらも

食べていました。

上の写真はモーニングのメニュー表です。

上の写真はドリンクのメニュー表です。

上の2枚の写真は高木珈琲 須磨離宮公園前店の外観

右手にテラス席が写っています。

 

今回のキーワードの一つであるモーニングについて過去に訪問して記事を書いた

ブログにリンクしておきます。

 おらが山(高倉山)のおらが茶屋でのモーニング on 2008-6-7

 志津屋 烏丸御池店(SIZUYA BAKERY)でのモーニング on 2017-4-13

 萩原珈琲店の直営店「Cafeat Hug(カフィート・ハグ)」でのモーニング on 2015-3-7

 ドット カフェ(Dot Cafe)でのモーニング on 2014-10-11

 星乃珈琲 垂水海岸通り店 でのモーニング on 2014-9-9

 景色が素晴らしい スターバックス神戸西舞子店でのモーニング on 2020-6-19

 スターバックス 神戸垂水桃山台店でのモーニング on 2018-6-28

 神戸市垂水区桃山台のカフェ 森のベンチでのモーニング on 2018-6-9

 ポータルカフェ スバコ JR京都伊勢丹店でのモーニングビュッフェ on 2018-1-24

 荻原珈琲店 カフィート・ハグでのモーニング on 2018-6-16

 喫茶かたやま のモーニング on 2008年3月

 神戸で2番目に美味しい 喫茶ツザキでのモーニング on 2008-4-14

 神戸新開地のレトロ喫茶 エデンでのモーニング on 2008-4-28

 阪急三番街のCascadeでのモーニング on 2008-6-30 

 洋食レストラン 陣でのモーニング on 2008-7-5

 新梅田食堂街「奴」での朝食 on 2008-11-11

 パレス神戸1階パルティール(Partir)でのモーニング on 2009-4-14

 JR垂水駅前にある華(はな)でモーニング on 2009-6-6

   現在はこの位置(王将の隣)には餅屋さんが入っています。

 コート デュ ヴァン (Cote du Vent)での モーニング on 2009-7-23

 神戸市垂水の喫茶店クリアでモーニング on 2009-10-27

 ホテル オークラ 山里でのモーニング on 2010-4-4

 UCCカフェプラザ神戸交通センタービル店で モーニング on 2010-7-22

 神戸市須磨区 神戸珈琲物語 名谷店でのモーニング on 2020-6-20 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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星乃珈琲 垂水海岸通り店でのランチ on 2022-5-24

2022年05月29日 05時20分48秒 | 神戸情報

2020年5月24日、星乃珈琲 垂水海岸通り店でランチをいただきましたので
写真紹介します。

お店は2014年の6月頃?に新装開店しました。全国展開のチェーン店です。
経営はフランチャイズ制

星乃珈琲 垂水海岸通り店の基本情報

住所:兵庫県神戸市垂水区海岸通8-30  TEL:078-707-0037
営業時間:モーニング  7:00~11:00
     ランチ   11:00~15:00

定休日:無休(1月1日のみ休み)

公式HP: 星乃珈琲店 オフィシャルサイト (hoshinocoffee.com)

お店のGoogle地図情報:〒655-0036 兵庫県神戸市垂水区海岸通8 - Google マップ

Goo地図については下記ブログで添付しています。

 星乃珈琲 垂水海岸通り店 でのモーニング on 2014-9-9 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

上の写真は私が注文した洋食屋さんのオムレツ(ドリンクつき)1,180円(税込)

まずまずのお味でした。

上の写真は洋食屋さんのオムレツ(ドリンクつき)が掲載のメニュー表

上の写真は奥様が注文した季節のフルーツサンド(ドリンクつき)980円(税込)

奥様はやや不満気味でメニューの選択を誤ったと言っていました。

上の写真は季節のフルーツサンド(ドリンクつき)が掲載のメニュー表

上の写真はその他のランチメニュー表

 




上の2枚の写真は星乃珈琲 垂水海岸通り店の外観です。撮影:2014年9月9日

 

星乃珈琲 垂水海岸通り店でのモーニング

過去の訪問記(ブログ)にリンクしておきます。

 星乃珈琲 垂水海岸通り店 でのモーニング on 2014-9-9 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

星乃珈琲 三宮店でのランチ

過去の訪問記(ブログ)にリンクしておきます。

 星乃珈琲 三宮店でのランチ on 2020-1-7 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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百耕資料館 春季企画展の観覧記 on 2022-5-27

2022年05月28日 05時06分08秒 | 神戸情報

下記の日程で百耕資料館 春季企画展が開催されています。

会期は6月19日〈日〉までですのでまだ行かれていない方は是非、ご観覧ください。

私は5月27日に観覧しました。

 

百耕資料館春季企画展の基本情報

主題:訴訟のなかの村々~神戸市域に伝えられた村の古文書から

   紛本(ふんぽん)生き物図鑑

会期:2022年5月21日(土)~6月19日(日)  開館時間:10:00~16:00

場所:一般財団法人 武井報效会 百耕資料館(神戸市須磨区板宿町2丁目2-1 育英幼稚園内)

休館日:毎週月曜日  

入館料:大人300円(250円)中・高・大の学生200円(150円)(  )内は団体20名以上

公式サイト:百耕資料館 (ikuei.ac.jp)

 百耕資料館のGoo地図を添付しておきます。

 

百耕資料館は、板宿の旧家名門である武井家に伝わる約1万2千点にも及ぶ
歴史資料を一般に公開されています。昭和62年(1987)10月に開館。
平成22年(2010)7月10日に平成16年春以来、約6年ぶりにリニューアルオープンされ
板宿の歴史をテーマに古代から近現代まで解説とともに公開されています。

昨年

館内は撮影禁止のため館内の写真はありません。

ポスターに添付されている資料や作品の一部を紹介します。

1階での展示

訴訟のなかの村々~神戸市域に伝えられた村の古文書から(1階での展示)

上の2枚の写真は塩屋村・垂水村と西須磨村国境漁場争論裁許絵図(写)百耕資料館蔵

上は絵図にて漁業権の範囲を表されています。

下は裁定書です

文化5年(1808)の作成されたものです。原本は寛文10年(1670)に作成されました。

 

1階での展示では山の入会権について争った「山論」、取水権について争った「水論」、

裁定が行われた大坂西奉行所及び大坂東奉行所に関する展示、上記の「漁業権」に関する

訴訟に関する展示、兵庫津に関する展示があった。

 

2階での展示   

紛本(ふんぽん)生き物図鑑(2階での展示)

上の写真は四季花鳥図巻(部分) 原作者:円山応挙 百耕資料館蔵

百耕資料館

上の写真は百耕資料館の入り口

上の写真は百耕資料館の建物遠景

 

武井百耕翁


上の写真は武井伊右衛門(武井百耕)の銅像。銅像の説明書きに部分加筆。
武井伊右衛門は弘化2年(1845)2月14日に板宿村生まれ、幼名は久太郎明治に
なってから伊右衛門と名を改めました。さらに百耕と号す。日頃より書画を愛好し、
漢詩を嗜み多くの郷友諸士と交友を結ぶ。
明治5年(1872)兵庫県第三区長の父を補佐し 明治14年(1881)兵庫県の県会議員に当選
明治16年(1883)公職を退いて邸内に秋錦園(菊園)、魁春園(梅園)の二園を開き
一般に開放す。
八部郡郡長、同年有馬郡郡長となる。大正6年(1917)3月8日73歳で没。
墓は武井家歴代の墓とおともに禅昌寺にあります。明治21年4月には有馬郡長を病気
のため辞任してからは漢学の素養から多くの詩を作り明治43年(1910)漢詩結社
隋鴎吟社の正社員となった。また、かって画を学んだ岡田広章からは画稿を譲り受けた。
特に円山、四条派の粉本に関しては2,000点の一大コレクションを誇っている。 

 

武井悌四郎翁

上の2枚の写真は武井伊右衛門(百耕)の娘婿の後継者「武井悌四郎」の胸像と説明書き

撮影:2017-5-28 百耕資料館にて

武井梯四郎(1875-1925)は明治8年(1875)兵庫に竹末朗平の四男として生まれる

明治31年(1898)武井伊右衛門(百耕)の長女愛子との養子縁組で武井家に入る。

明治32年(1899)から明治33年(1900)まで神戸新聞主筆・客員の後退社、

千葉県佐倉中学校長を振り出しに教育界に入り、各府県で師範学校長を歴任

長崎県師範学校長任期 明治39年(1906)12月6日 - 明治40年(1907)6月14日

大正6年(1917)兵庫県武庫郡須磨町長となる。

大正9年(1920)神戸市との合併により町長辞任、神戸市会議員を勤める。

大正14年(1925)没

上の写真は須磨町長時代(1917-1920)の 武井梯四郎

 

神戸歴史遺産

百耕資料館の「武井家文書」および「武井家伝来絵画資料(粉本)」は

2021年7月28日に神戸歴史遺産に指定さています。

当日、第1回神戸歴史遺産認定記念 企画展の資料が配布されていました。

(下の2枚の写真)8Pageものですが表紙のみ添付

認定神戸歴史遺産 「武井家文書」および「武井家伝来絵画資料(粉本)」

 

前回の訪問記

 百耕資料館の新装開館10周年特別企画展「百耕資料館所蔵の近代日本画」が開催中です - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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姫路駅前で見つけた神姫バスの水素バス on 2022-5-21

2022年05月27日 04時39分29秒 | 姫路市

2022年5月21日(土)、第72回姫路お城まつりを観るのに姫路に出かけていました。

当日の9時頃、姫路駅北口のバスターミナルで神姫バスの水素バスを見かけましたので

写真紹介します。姫路城ループバスの乗車停留所より撮影。

上の2枚の写真は⑤のりばに停車する神姫バスの水素バス

25系統、日出町循環で使用されています。

上の3枚の写真は姫路城ループバス(⑥のりば)から撮った神姫バスの水素バス

水素バスと表記していますが燃料電池バス(Fuel Cell Bus)が正式名です。

神姫バスが2021年4月1日より運行されています。

燃料電池バスの運行は西日本で初めてだそうです。

神姫バスは、国・兵庫県及び姫路市から支援(国から5千万円、県と市から1,000万円ずつの補助金)

を受け、燃料電池バス「SORA」(トヨタ自動車株式会社製)を約1億円で購入しました。

通常のバスの価格は2千万円から2千5百万なので4~5倍の購入コストだそうです。

1回の補給(600L)で200Km走行できる、燃費は3倍いじょうとなるそうです。

水素ガスの補給は2021年に新たに設置された岩谷産業の水素ステーションで行われます。

水素ステーションの関連動画を添付しておきます。

 姫路市に「水素ステーション」 4月から運行「燃料電池バス」の補給場所にもなる予定(2021年3月27日)

燃料電池バスは、燃料である水素と空気中にある酸素の化学反応により発電し、その電力で

モーターを駆動させて走行します。一般的なバスの動力であるディーゼルエンジンと比べて、

走行時に二酸化炭素や窒素酸化物などを排出しないため、環境負荷の低減を実現することが

できるとともに、静粛性や乗り心地にも優れている車両です。

二酸化炭素(CO₂)の削減効果は年間40トンとされ一般家庭の13世帯に相当するそうです。

燃料電池バスの売りの一つとして災害時などに電源として利用できることです。

 

関連ブログ

 2014年に開発されたトヨタの水素自動車「MIRAI]について下記ブログで綴っています。

  水素で走るトヨタの車の展示 in JR三ノ宮駅海側広場 on 2021-10-31 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

  川崎重工業株式会社の水素基地 on 2021-10-31 と川重の橋本康彦社長 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 東京五輪では聖火に水素ガスが採用されました。

  東京五輪の競技が始まる on 2021-7-21 及び開会式 on 2021-7-23 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

関連サイト

 水素で走る神姫バス 姫路駅拠点に来月から運行|姫路|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)

 

 関西圏の水素ステーション一覧|水素ステーション普及状況|一般社団法人次世代自動車振興センター (cev-pc.or.jp)

 

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牧野富太郎に関する本の紹介

2022年05月26日 04時59分33秒 | Weblog

2023年度前期のNHK連続テレビ小説が高知県佐川町出身の植物学者、牧野富太郎博士を

モデルにした「らんまん」に決まっています。

脚本は長田育恵さん、 主演は神木隆之介さんに決まっています。

 朝ドラに関係の詳細はNHKの下記サイトを参照してください。

 《2023年度 前期》連続テレビ小説 制作決定!作・長田育恵 / 主演・神木隆之介 連続テレビ小説 らんまん |NHK_PR|NHKオンライン

その関係で先日、神戸市須磨区の名谷図書館から2冊の本を借りましたので紹介します。

また、牧野富太郎博士の研究所が大正7年から昭和16年まで神戸の会下山公園の近くにあった。

この植物研究所は南蛮美術収集家として著名な池長孟が牧野富太郎のために提供したものである。

そういう訳で神戸とも所縁の深い人物である。

前置きが長くなりました。早速、本の紹介に移っていきます。

1冊目の本は絵本で牧野富太郎ものがたり「草木とみた夢」(2019)

作者は谷本雄治さん(文)、大野八生さん(絵)

本の表紙の写真を添付しました。(上の写真

この本は平易で一気に読み進むことができました。

牧野富太郎博士の一生を把握するのにお奨めの本です。

表紙にも牧野富太郎博士ゆかりの植物が描かれています。左上からワカキノサクラ、

ココグラノキ、山桃、モミジカラスウリ、モクレイシ、フタリシズカ、ホテイラン、

シハイスミレ、ウメバチソウ、スエコザサ、シラヤマギク、ヒメノボタン

上の写真は2冊目の本で牧野富太郎【植物学の父】(2020)の表紙

文は清水洋美さん、絵は里見和彦さん

この表紙には伊藤圭介著「日本産物志」のオウボウシバナを牧野博士が写したもの

 

上の写真は上述2冊目の本のPage160~161からの引用で牧野富太郎が90歳頃まで沖縄を除く
全国各地の野山を歩き植物標本をつくりました。
牧野富太郎が命名した植物の一部を日本地図の上に記したものです。
上の写真は口絵の牧野富太郎氏、植物採集している時は笑みが満々です。

 神戸市兵庫区の会下山の牧野富太郎博士の植物研究所跡については

過去にブログを作成していますのでリンクしておきます。
 
最後に上記2つの本などから牧野富太郎博士の年譜を纏めて筆を置きます。
 
文久2年(1862)4月24日、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれた。幼名は成太郎。幼い頃、両親をなくし祖母に育てられた。
幼少のころから植物に興味を示していた。

明治5年(1872)10歳、寺小屋で習字を学ぶ

明治6年(1873)11歳、明教館(めいこうかん)で西洋の学問に触れる
明治7年(1874)12歳、佐川小学校に入学
明治9年(1876)14歳、佐川小学校を自主退学
 地元の学校の教師などから英語を学び、植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、気ままな生活を送っていた。
欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。
明治12年(1879)17歳、高知市に出て五松学舎に学ぶ。コレラを罹患し帰郷
明治13年(1880)18歳、永沼小一郎(地元の旧制中学教師)と知り合う
明治14年(1881)19歳、第2回内国博覧会の見学のため東京へ。
   書籍や顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まったのも東京行きの理由である。
            田中芳男などと知り合う
明治17年(1884)22歳、2回目の上京。東京大学植物学教室に出入りする。
明治20年(1887)25歳、「植物学雑誌」の創刊に関わる。祖母の浪子が病死
明治21年(1888)26歳、壽衛(すえ)と暮らし始める。
        「日本植物志図篇」刊行開始。今で言う植物図鑑のはしりである。
明治22年(1889)27歳、日本で初めて新種「ヤマトグサ」に学名をつける。
            『植物学雑誌』に発表
明治23年(1890)28歳、水草のムジナモ発見。谷田部教授に教室への出入りを禁止される
  自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。
明治24年(1891)29歳、実家の整理のために佐川へ帰る
  牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った。
明治26年(1893)31歳、長女・園子が急死
     帝国大学理科大学の助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。
  その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。
  ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、
  参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり
  厚遇はされず、さらに子供が次々に生まれ経済的にも苦しかった。
明治33年(1900)38歳、「大日本植物志」刊行開始
明治42年(1909)47歳、横浜植物会を立ち上げ、観察会など指導する
明治43年(1910)48歳、大学の助手を休職になる。
明治44年(1911)49歳、東京植物同好会を作る
明治45年(1912)50歳、東京帝国大学理科大学講師として復帰(昭和14年(1939)まで勤務)
大正5年(1916)54歳、貧乏で絶体絶命になりそれが新聞記事に掲載。
       神戸の南蛮美術の収集家として著名な池長孟(はじめ)が援助を申し出る
       津村順天堂(現ツムラ)の協力を得て「植物研究雑誌」を創刊
大正7年(1918)56歳、神戸牧野富太郎植物研究所が完成(昭和16年まで続く)
大正15年(1926)64歳、現在の東京都練馬区東大泉に自宅を建てる
昭和2年(1927)65歳、東京大学から理学博士の学位を授与される。
昭和3年(1928)66歳、妻の壽衛(すえ)が死去。
           新種の笹に亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。
昭和9年(1934)72歳、「牧野植物学全集」刊行開始
昭和12年(1937)75歳、「牧野植物学全集」によって朝日文化賞を受賞
昭和14年(1939)77歳、東京帝国大学理科大学講師を辞任
昭和15年(1940)78歳、「牧野日本植物図鑑」刊行
昭和16年(1941)79歳、満州へサクラの調査に行く。池長孟より標本が返される。
           安達氏より標品館が寄付される
昭和20年(1945)83歳、山梨県北巨摩郡保坂村へ疎開
昭和23年(1948)86歳、天皇陛下へご進講
昭和24年(1949)87歳、病気で危篤となるが、奇跡的に復活する
昭和26年(1951)89歳、第1回文化功労者に選ばれる。
           文部省に「牧野富太郎博士標本保存委員会」ができる
昭和29年(1954)92歳、風邪をこじらせ、床に臥せることが多くなる
昭和32年(1957)94歳、家族に見守られて永眠 墓所は谷中霊園
 
昭和33年(1958) 高知県立牧野植物園が開園、東京都立大学牧野標本館が開館  
         東京都練馬区立牧野記念庭園が開園
 
 
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